2010-04-17

中村桂子先生インタビュー(9) 「生きものの志向性」



高野 そのことと関連すると思うのですけれど、中村先生がご本のなかで、「志向的構え」ということをお書きになってますよね。生きものを、「信念」や「欲求」を「考慮」して、主体的に「活動」を「選択」する、合理的な活動体とみなして解釈するという説明の仕方。これは擬人的な見方であって、本来科学は、これを避けてきた。このことを中村先生がお書きになっていらっしゃるということは、中村先生がかなり大きな一歩を踏み出そうと考えていらっしゃると、僕は思ったのですけれど。 

中村 実を言うと、この「志向的構え」という考えを言ったデネットという人は、あんまり好きじゃないのです。哲学の考え方としては、科学者とちかい考え方をしている人なんだけど、唯物論なんです。100パーセント唯物論です。だから、そういう立場で物事を整理するという意味では、科学との関係はとてもいいのでね。 

高野 それは、整理の方法なんですね、あくまでも。 

中村 そう、整理としては、とても役に立つんです。ただ完璧に唯物論的思考なので、私はそこのところはちょっと違う。その哲学的背景を別にすれば、科学者が整理しやすい整理の仕方をしてくれているので、その部分だけ借りました。 

高野 僕はこれを素人考えで言うので、すごく馬鹿げた考えであると実際に思うのですけれども、たとえば「志向的な説明」というものをするとしますよね、生きものにたいして。その時に、実際にそういう志向的な性質というものを、生きものが、実在として持っているのか、それとも、それはあくまでも説明のための便法なのか、ってことは、違うことだと思うんですね。 

僕なんかはね、生きものは志向的な性質を、当然持ってるはずだと思うんですよ。40億年前に初めて細胞が生まれたといわれている時から、それはあったと思うんです。だってね、今の自然の全体と同じものが、荒削りではあったとしても、100億年前からあったはずだと、僕は素人考えで思うんですよ。もちろんそれは、ネズミが意志を持っているということとは別ですよ。もうちょっと全体的な意味で言うんですけども、僕は当然そうであるはずだ、っていうふうに思うんです。でもこれはあくまで素人考えであってね、中村先生はどういうふうに、その辺のさじ加減というか、そういうものをお考えになっているのかっていうことを、お伺いしたいなと思ったのですけれど。 

中村 私も毎日動いていますので、考え方はだんだん変わっている。たとえば「生命誌」という一つの言葉を使っていても、20年前に生命誌と言った時と、今、私が生命誌という時は、内容は変わっている。いろんな人の考えを聞いたり、いろんなことをやっているうちに、どんどん変わっていく。今あなたが聞かれたそのことはね、ある意味ではいちばん基本的なところなんですよ、私にとっては。だから、かなり揺らいでますね。誰かさんがこう言っている、なんていうのを読むと、ああそうか、と思ったり、そうかと思うと、また反対の考えになったり。ちょっとまだ、揺らいでいるところですね。 

高野 よくわかりました。