2011-08-31
そうめんを今頃になって食い思い残すところはなし
秋っていうのは、どうもおセンチな気分になるから嫌いなのだ。
太陽がカンカンに照って、暑い暑いと言いながら、パンツ一丁で節電に協力したりするのは、体力的に消耗するものはあっても、気分は高揚するものだ。空にぽかぽかと浮かぶ雲も、いかにも気持ち良さそうにしていて、僕はベランダでたばこを吸いながらその雲をながめて、あのふわふわの雲の上に寝そべって昼寝をしがら気持ちがいいだろうなと考えたりする。
ところが秋になってくると、雲も冷静さを取りもどし、ツンとすました表情を見せはじめる。夏の時分にはあれほどうるさく鳴きわめいていた蝉どもも、ピタリと静まり返ってしまう。いかにもあの賑やかだった祭りが、終わってしまったという気がしてくる。
それでまだかろうじて夏の気配が残る今のうちに、食い残した夏の食い物を食べておこうと思い、昨日はそうめん。そうめん自体は、夏のあいだ毎日のように食べていたんだが、いつも炒めてソーミンチャンプルーにしてばかりで、ただ湯がいてつけ汁につけて食べる、普通のそうめんの食べ方を一度もしていなかったのだ。
普通のそうめんをこの夏食べなかったのは、ソーミンチャンプルーがあまりにうまかったということもあるが、つけ汁が面倒だということもあった。僕は昨日も書いた通り、家で化学調味料を使うことに非常に抵抗があり、あのめんつゆを買う気がしないのだ。めんつゆを買うくらいなら、そうめんなど食わないほうがいいと思っていたわけなのだが、昨日、いざ自分でつけ汁を作ってみたら、何のことはない、簡単だった。
少量の水でだしパックを沸騰させ、だしが出たら、だしパックを取り出し、酒とみりん、しょうゆをドボドボと入れる。しばらく沸騰させてアルコールを飛ばし、冷やせば出来上がり。味はもちろん、市販のめんつゆと遜色ない。というか、こちらのほうがうまい。
つけ汁に手をかけたから、具は何も用意せずにそのまま食ったが、まあ、これでとりあえず、そうめんに関しては、思い残すところはありません。
僕は魚のアラがとても好きで、それはこのブログにも何度となく書いてきている通りなのだが、昨日はグルメシティで、秋鮭のアラを買ってきた。たっぷり入ったのが150円。アラといっても骨や頭の部分じゃなく、腹の脂身の部分や、切り身にするとき半端で余ってしまった部分を寄せ集めたものだから、普通に食え、むしろ切り身よりうまいとも言える。これが切り身の3分の1程度の値段だというのは、毎度のことながら信じられないんだな。
しかしさすがに、アラを狙っているのは僕だけじゃないと見えて、こないだグルメシティへ夜行ったら、アラはすっかり売り切れて残ってなかった。そこで昨日は早めの時間に買い物に行き、しっかりゲットしてきたというわけなのだ。
昨日はこのアラを汁の実にした。アラは何ともうまいだしが出るし、おまけに脂の多い部分だからトロトロに煮えて、これはたまらん。味噌仕立てにするかしょうゆにするか、かなり迷ったのだが、翌日も食べることを考えてしょうゆにした。鮭はじゃがいもや玉ねぎなど、北海道でとれる野菜と最高に合うんだよな。
アラはほんとなら湯通ししてから使うところだったけど、忘れてそのままぶち込んでしまったが、臭みはゼロだった。じゃがいもを入れたのに、加えてうどんを入れてしまったのは、さすがにちょっと食い過ぎだった。
2011-08-30
野田氏が総理になるということで
野田氏が総理大臣になることが決まったということで、野田氏は年も僕に近いし、ぜひ頑張って欲しいと思うんだが、まあしかし、野田氏が総理大臣になったからといって、日本がどうなるともあまり思えないというのが正直なところだろう。
というか、誰が総理大臣になっても、あまりどうなるとも思えない。それ以前に、日本がどうなったらいいのかも、ようわからん。
脱原発・自然エネルギーの人たちは、「自然エネルギーこそが日本が進むべき道だ」と言うんだろうが、あまりそうとも思えん。日本にソーラーパネルやら風車やらが立ち並ぶ未来を想像しても、全くワクワクせん。自然エネルギーが、一つの重要な方向性であることは確かなのだろうが、僕はあまり興味はない。
僕は原子力発電所については、味の素と同じ考えだ。僕は消極的脱味の素派だ。
僕は自分で味の素を使おうとは、全く思わない。味の素は料理の面白さを、半減させてしまうどころか、特に初心者にとっては、「料理」というものが何なのかを、全くわからなくさせてしまう害悪すらあると思う。
あの、粉をパラパラと水に溶かすということが出汁であると思ってしまうと、肉や魚を煮ることの意味が、全くわからなくなってしまう。出汁は料理の基本だから、出汁がわからなくなるということは、料理がわからなくなるということだと思うんだな。
同じ粉でも、煮干しや鰹節を砕いて粉末にしたものと、味の素は決定的に違うと思う。天然の材料を砕いたものは、どうしたって煮出さなければならない。しかも出し殻があとに残る。まだそれだと、出汁の意味は、かろうじてわかるような形になっている。
ただ、例えばラーメン屋で、味の素を使わないとする。そうするとラーメンの値段が上がり、結果としてお客が離れ、ラーメン屋の経営が成り立たなくなるわけだ。僕はだから、ラーメン屋が味の素を使うことは、全く否定しない。
食の安全を考える人達の中には、味の素を全く使わないことを目標にする人もいると思うんだが、僕はそれとは全く異なる。味の素で多少犠牲になるものがあったとしても、ラーメン屋の経営のほうが大事だという考えだ。
まあこれと原発問題がどう関係があるのかは、もう面倒臭いから説明しないが、原発問題は、日本が山ほど抱える問題の、その中の一つであり、例えば企業の経営の問題とか、安全保障の問題とか、膨大な金額にのぼる赤字国債の問題とか、そういうものの中で、優先順位を決め、バランスよく考えていくことが必要なのだと思う。
原発の問題でいえば、未来のエネルギーの問題などよりも、まず福島の放射能汚染問題が、最優先に解決されなければならない、よほど深刻な問題だ。日本人は福島限定の問題だと、どうしても他人事になってしまうのだろうな。まあ僕もそうかも知れないが。
放射能に汚染された地域の除染の問題や、いま実際放射能を浴び続けている子供たちの問題、強制退避地域から外れた人たちへの補償の問題…等々。とにかくこれは、一刻も早く何とかしてもらいたい。
そのために増税が必要だというのなら、増税したってかまわない。もう今の時代、借金で何とかしようと考えるような時代じゃないだろう。これからする借金など、経済が減速するこれからの日本に、返していけるわけがない。
日本のこれからを考えた時、一番大きな問題は、終戦以来日本を引っ張ってきたシステムややり方が、もう通用しなくなっているということだろう。貧しかった日本が、経済大国を夢見て、猛烈に頑張り、金持ちになっていった。そのジャパニーズドリームを、日本は20年ほど前に、達成したというわけだ。しかしそのやり方は、金持ちになってしまった日本には、もう通用しない。同じやり方を、今中国がひた走りに頑張っているわけだろうが、金持ちになってしまった日本には、もうその真似はできない。
それでは日本は、これからどうしたらいいのかというのが解らないままに、ここまで来てしまっているわけなのだよな。その途中で震災と原発事故が起こり、このままではいけないということが、なおさらはっきり解るということになってしまった。
僕はこの混乱は、まだまだ続くと思うのだよな。あと20年くらいは続くんじゃないか。
「今までのやり方」というものは、何も政治家や財界の人たちに限ったことじゃない。日本人の一人一人が持っているものだろう。
今回菅首相を見ても、団塊の世代特有の、あの他人を押しのけ、何としてでも自分が一番になろうとするという、高度経済成長時代の考え方が、まったく抜けていないんだなとつくづく思った。だからこれまでのやり方で、成功体験を持っている人は、新しいやり方を見つけることなど無理なんじゃないか。またもし誰かが見つけたとしても、みんなでよってたかってそれに反対して、潰してしまうことになるだろう。
僕ぐらいの世代でも、やはりこれまでのやり方の中で、いい思いをしてきた部類に属するのじゃないかと思う。バブル真っ盛りの頃に仕事を始め、仕事とはこういうもんだとか、それなりに考えているものがあったりするわけだ。
僕は日本は、そういう成功体験を一切持たない世代が、社会の中枢を占めるようになるまで、変わらないんじゃないかと思うんだな。それはたぶん、いま30代前半くらい以下の人たちじゃないか。
この人達は、大学を卒業したのは、完全にバブルが崩壊してから。就職もすごく大変だっただろう。それ以来、日本の経済は悪くなり続けているから、いい思いを一つもしていない。それにこの世代の人達は、コンピュータ世代であるということもある。小学校の頃からファミコンに親しみ、中学高校でマックやウィンドウズを体験し、コンピュータを使うのが当たり前という世代。
僕はこの世代が、今の野田首相の年くらいになる20年後あたりになって、初めて日本は、大きく変われるということになると思うんだよな。
そう考えると、僕の世代や、もう少し下の40代の世代がやるべきことが何かといえば、日本を決定的な破綻に至らせないようにすることとか。また何がほんとうに大事なのかを、一人ひとりが考え、それを後輩に伝えていくこととか。そういうことなのじゃないかと思ったりする。
とにかく今の時点で、日本を大きく変えるウルトラCなぞあるわけがないし、そんなことを言おうとする奴は、眉に唾して話を聞いたほうがいいんじゃないかと僕は思うね。
昨日は昼めしに、焼きそばを作った。この焼きそばは、いつも2玉で作るのに、昨日は1玉にしたもんだから、しょうゆの加減を間違えて、ちと塩っぱかった。
つなぎにうどん。冷凍うどんを湯がいて冷やし、おかかと青ねぎ、生姜に醤油をぶっかけて食う。冷凍うどんは、値段のわりに、すごくうまいんだよな。でも最近は、京都に来て、コシのないへなちょこのうどんも、なかなかいいなと思うようになっている。
晩飯は豚肉と水菜のうどんすき。水菜としいたけを、見切り品で買ったはいいが、使わずに冷蔵庫に入っていたのを消費するため。しかしこれは、しいたけが効いたんだな、出汁が死ぬかと思うくらいうまかった。やはりしいたけはエライのだ。
朝飯に、またうどんを食った。
というか、誰が総理大臣になっても、あまりどうなるとも思えない。それ以前に、日本がどうなったらいいのかも、ようわからん。
脱原発・自然エネルギーの人たちは、「自然エネルギーこそが日本が進むべき道だ」と言うんだろうが、あまりそうとも思えん。日本にソーラーパネルやら風車やらが立ち並ぶ未来を想像しても、全くワクワクせん。自然エネルギーが、一つの重要な方向性であることは確かなのだろうが、僕はあまり興味はない。
僕は原子力発電所については、味の素と同じ考えだ。僕は消極的脱味の素派だ。
僕は自分で味の素を使おうとは、全く思わない。味の素は料理の面白さを、半減させてしまうどころか、特に初心者にとっては、「料理」というものが何なのかを、全くわからなくさせてしまう害悪すらあると思う。
あの、粉をパラパラと水に溶かすということが出汁であると思ってしまうと、肉や魚を煮ることの意味が、全くわからなくなってしまう。出汁は料理の基本だから、出汁がわからなくなるということは、料理がわからなくなるということだと思うんだな。
同じ粉でも、煮干しや鰹節を砕いて粉末にしたものと、味の素は決定的に違うと思う。天然の材料を砕いたものは、どうしたって煮出さなければならない。しかも出し殻があとに残る。まだそれだと、出汁の意味は、かろうじてわかるような形になっている。
ただ、例えばラーメン屋で、味の素を使わないとする。そうするとラーメンの値段が上がり、結果としてお客が離れ、ラーメン屋の経営が成り立たなくなるわけだ。僕はだから、ラーメン屋が味の素を使うことは、全く否定しない。
食の安全を考える人達の中には、味の素を全く使わないことを目標にする人もいると思うんだが、僕はそれとは全く異なる。味の素で多少犠牲になるものがあったとしても、ラーメン屋の経営のほうが大事だという考えだ。
まあこれと原発問題がどう関係があるのかは、もう面倒臭いから説明しないが、原発問題は、日本が山ほど抱える問題の、その中の一つであり、例えば企業の経営の問題とか、安全保障の問題とか、膨大な金額にのぼる赤字国債の問題とか、そういうものの中で、優先順位を決め、バランスよく考えていくことが必要なのだと思う。
原発の問題でいえば、未来のエネルギーの問題などよりも、まず福島の放射能汚染問題が、最優先に解決されなければならない、よほど深刻な問題だ。日本人は福島限定の問題だと、どうしても他人事になってしまうのだろうな。まあ僕もそうかも知れないが。
放射能に汚染された地域の除染の問題や、いま実際放射能を浴び続けている子供たちの問題、強制退避地域から外れた人たちへの補償の問題…等々。とにかくこれは、一刻も早く何とかしてもらいたい。
そのために増税が必要だというのなら、増税したってかまわない。もう今の時代、借金で何とかしようと考えるような時代じゃないだろう。これからする借金など、経済が減速するこれからの日本に、返していけるわけがない。
日本のこれからを考えた時、一番大きな問題は、終戦以来日本を引っ張ってきたシステムややり方が、もう通用しなくなっているということだろう。貧しかった日本が、経済大国を夢見て、猛烈に頑張り、金持ちになっていった。そのジャパニーズドリームを、日本は20年ほど前に、達成したというわけだ。しかしそのやり方は、金持ちになってしまった日本には、もう通用しない。同じやり方を、今中国がひた走りに頑張っているわけだろうが、金持ちになってしまった日本には、もうその真似はできない。
それでは日本は、これからどうしたらいいのかというのが解らないままに、ここまで来てしまっているわけなのだよな。その途中で震災と原発事故が起こり、このままではいけないということが、なおさらはっきり解るということになってしまった。
僕はこの混乱は、まだまだ続くと思うのだよな。あと20年くらいは続くんじゃないか。
「今までのやり方」というものは、何も政治家や財界の人たちに限ったことじゃない。日本人の一人一人が持っているものだろう。
今回菅首相を見ても、団塊の世代特有の、あの他人を押しのけ、何としてでも自分が一番になろうとするという、高度経済成長時代の考え方が、まったく抜けていないんだなとつくづく思った。だからこれまでのやり方で、成功体験を持っている人は、新しいやり方を見つけることなど無理なんじゃないか。またもし誰かが見つけたとしても、みんなでよってたかってそれに反対して、潰してしまうことになるだろう。
僕ぐらいの世代でも、やはりこれまでのやり方の中で、いい思いをしてきた部類に属するのじゃないかと思う。バブル真っ盛りの頃に仕事を始め、仕事とはこういうもんだとか、それなりに考えているものがあったりするわけだ。
僕は日本は、そういう成功体験を一切持たない世代が、社会の中枢を占めるようになるまで、変わらないんじゃないかと思うんだな。それはたぶん、いま30代前半くらい以下の人たちじゃないか。
この人達は、大学を卒業したのは、完全にバブルが崩壊してから。就職もすごく大変だっただろう。それ以来、日本の経済は悪くなり続けているから、いい思いを一つもしていない。それにこの世代の人達は、コンピュータ世代であるということもある。小学校の頃からファミコンに親しみ、中学高校でマックやウィンドウズを体験し、コンピュータを使うのが当たり前という世代。
僕はこの世代が、今の野田首相の年くらいになる20年後あたりになって、初めて日本は、大きく変われるということになると思うんだよな。
そう考えると、僕の世代や、もう少し下の40代の世代がやるべきことが何かといえば、日本を決定的な破綻に至らせないようにすることとか。また何がほんとうに大事なのかを、一人ひとりが考え、それを後輩に伝えていくこととか。そういうことなのじゃないかと思ったりする。
とにかく今の時点で、日本を大きく変えるウルトラCなぞあるわけがないし、そんなことを言おうとする奴は、眉に唾して話を聞いたほうがいいんじゃないかと僕は思うね。
昨日は昼めしに、焼きそばを作った。この焼きそばは、いつも2玉で作るのに、昨日は1玉にしたもんだから、しょうゆの加減を間違えて、ちと塩っぱかった。
つなぎにうどん。冷凍うどんを湯がいて冷やし、おかかと青ねぎ、生姜に醤油をぶっかけて食う。冷凍うどんは、値段のわりに、すごくうまいんだよな。でも最近は、京都に来て、コシのないへなちょこのうどんも、なかなかいいなと思うようになっている。
晩飯は豚肉と水菜のうどんすき。水菜としいたけを、見切り品で買ったはいいが、使わずに冷蔵庫に入っていたのを消費するため。しかしこれは、しいたけが効いたんだな、出汁が死ぬかと思うくらいうまかった。やはりしいたけはエライのだ。
朝飯に、またうどんを食った。
2011-08-29
やはり秋は焼きナスだろう
ここ数日、気候がめっきり秋らしくなり、日中の気温はそこそこ高くなるのだが、湿気が和らぎ、空気はさわやかだ。京都の夏は、早朝でも、もわっとした生ぬるい空気があたりを覆っていて、さわやかさのかけらもないのだが、もうこの頃はそんなこともない。こないだまではうるさいほど鳴いていた蝉も、もう鳴くのをやめた。ただし蚊だけは相変わらず頑張っていて、さっきも神社でお参りをしたら、10箇所ほど刺されまくった。
蚊に刺されては、ムヒをつけるという生活をしていたが、考えてみたら公園で体操したり、神社でお参りしたりすると、蚊に刺されるのは解っているのだから、刺されてからムヒを塗るよりは、虫除けスプレーを吹きつけてから出かけるようにしたほうが、効率的なんじゃないかと今日思い付いたのだが、もう夏も終わってしまうんだな。
僕は相変わらずパンイチで過ごしているが、いつTシャツを着るか、そろそろ考えどころになってくる。パンイチは単なる暑さ対策にとどまらず、一種のライフスタイルだから、この心地いい生活を、できるだけ継続したいところではある。
夏好き人間にとっては、この時期はまさに夏が終わらんとする、何とも寂しい季節なわけだが、しかしまあ、秋は食い物がすごくなるから、許してやろうという気にもなる。魚だけ考えても、まずサンマが来て、それからサバになり、さらにブリと来る。この三連打には、もう参りましたというしかない。
去年は家のオール電化のワンルームマンション、非力なIHレンジしかなかったため、イマイチうまく魚が焼けなくて、焼き魚をしっかり堪能することが出来なかったわけなのだが、もうIHレンジへのつまらないこだわりはやめ、カセットコンロを使うことにしたから、魚はいくらでも焼き放題だ。今年は去年を挽回するほど、徹底的にやらんといかんな。
野菜も秋は色々あるが、やはりまず筆頭はナスだろう。揚げてよし、炒めてよし、塩もみよし、おしたしもOKと、どうやってもうまいわけだが、一つ選べと言われたら焼きナスじゃないか。焼くというのはやはり日本人にとって、独特の情緒があるんだな。去年は焼き茄子も、IHレンジにフライパンでは今一つうまくいかなかったが、今年はカセットコンロに焼き網で、これもやり放題。いい時代になったもんだ。
「秋茄子は嫁に食わすなと」言われるが、これが何故なんだか、時々考える。ナスは体を冷やすからだとか、また逆にあんまりうまいものを食わすと嫁が図に乗るからだとか、諸説があるらしいが、僕はナスのあまり他人と協調的でない性格によるところもあるのじゃないかと思うのだな。
とにかくナスはアクが強いから、鍋や煮物で他の材料と合わせることが全くできない。単品で料理してやるしかないわけだ。いくらうまいとは言え、こういう協調性のないことでは、嫁としては失格だろう。それで嫁にはナスは食わせず、きちんと協調的な性格を身につけさせろということなのじゃないだろうか。
昨日はあとは、あさりの酒蒸し。これは春が旬のはずだったと思うが、いつまでも安く出ているのだな。また酒蒸しは作るのがあまりに簡単で、短時間でできるにも関わらず、大変うまいときているから、庶民の食卓としてこれを活用しない手はないわけだ。
昨日は実は、昼にもあさりを食った。あさりと大根の雑炊。中国産のむき身のあさりが、100グラム100円ほどで出ているんだよな。この安さが魅力で、僕はしょっちゅうお世話になる。昆布だしにごく淡く味をつけると非常にうまい。
キュウリにセロリの浅漬も作ってみた。この頃ちょっと浅漬にハマっている。簡単に作れるのに、数日にわたってサラダ的な感覚で楽しめる。塩と酢、だし昆布と鷹の爪。これをよく揉み込んでタッパーに放り込み、冷蔵庫に入れておくだけ。キュウリとセロリの組み合わせもかなりいける。
豆腐はほとんど毎日食っている。あまりこだわりなく、スーパーで一番安い木綿豆腐を買うのだが、飽きることはない。
シメは酒蒸しの出汁にうどんを入れた。これはたまらなかったっす。
2011-08-28
新福菜館三条店の大盛りラーメン(長い前置き付き)
京都のラーメンがうまいとは、もう何度となく書いてきていることなのだが、どれだけ書いても書き過ぎということはない。
京都のラーメンがうまいというのは、全国的にはほとんど知られていないだろう。ラーメンの知名度は宣伝によるところが大きい。どんなにうまい、その土地独自のラーメンがあったとしても、地元の人が食べて楽しんでいるだけでは、他県の人に知られることにはならないわけで、具体的にどのようにやるのかは知らないが、大掛かりな宣伝活動が必要になるだろう。行政なども関わって、町おこしの一環として、その土地の地ラーメンを新たに開発し、全国に売り出すなどということも聞いたことがある。
一時「地ラーメン」のブームもあり、多くのラーメンが世に知られることになったわけだが、地元に他に観光の目玉があったりして、わざわざラーメンを売り出す必要がないなどという場合、非常においしいのにほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと地元民に愛されているラーメンが存在したりする。
その一つが広島ラーメンであるというのは、間違いのないところなんじゃないか。
広島にはB級グルメの名物として、お好み焼きがある。これは全国的に非常に知られているわけで、お祭りなどで出る屋台も、広島風お好み焼きはフランクフルトや焼きとうもろこしと並び、主力メニューの一つとなっている。
広島のお好み焼きは、お好み店の店主で一人、商才にたけ、お好み焼きの普及に心血を注いだ人がいて、その人の努力によりこれだけ全国的に有名になったといっても間違いじゃないだろう。ただ地元民が一週間に一度は食べる、などというだけでは、名物にまではなかなかならない。
しかし広島には、お好み焼きの陰に隠れて、ひっそりとうまいラーメンがあるのだな。
広島県のラーメンというと、「尾道ラーメン」が非常に有名なのだけれど、広島市にはそれとは別のラーメンがある。戦後の屋台から始めた店の流れを汲むもので、他の土地のラーメンと比べても、かなり独自だと言えるのじゃないか。
ベースは、西日本のラーメン標準の「醤油豚骨」なのだけれど、出汁をただ豚骨だけで取るのじゃなく、香味野菜はもちろんとして、まず鶏肉を入れる。それだけじゃなくさらに昆布やら鰹節やらを入れるのだ。
尾道ラーメンも魚介出汁を入れたスープが有名だが、尾道市にある老舗のラーメン屋では、元々は魚介出汁を使っておらず、1980年代に土産物として売り出す時に、「尾道ラーメン」という名称と共に、魚介出汁を入れるようになったということなのだ。だから、魚介出汁入りのラーメンが開発されたのは、広島市のほうがよっぽど早い。
また最近は「ダブルスープ」といって、肉の出汁と魚介出汁を混ぜて使うスープが、新手のラーメン屋で流行っていたりする。これだって、いわばダブルスープの元祖は広島だって言ったっていいのである。
とまあ、広島市には以前住んでいたことがあるから、広島となるとついヒートアップしてしまうのだが、広島市のラーメンがうまいのは間違いない。
魚介出汁が入っているのだが、これは言われなければ絶対わからない。つまり広島のラーメンは、魚介出汁が入っていることを売り物にしているのじゃなく、魚介出汁はあくまで隠し味として、目立たぬように入れているのだ。
醤油豚骨のラーメンは、どうしても男性的な、尖ったところがあると思うが、広島の醤油豚骨には、そんな様子は全くない。様々な材料が使われているため、あくまでまろやか。出しゃばったマネは一切せず、旦那の横にピタリと寄り添い、旦那が必要な時にさっと手助けをするよくできた嫁のようで、余分な自己主張は一切ないのだが、足りないところも全くないという、考えられない芸当を軽々とやってのける。
多少のバリエーションはあるのだが、広島市内には、この広島ラーメンを出す店が、数十軒はあるだろう。でもこれを全国的に売りだそうという気はまったくないんだな。しかも名店ほど、駅から遠く離れた辺鄙な場所でやっていたりする。地元の、小汚い店構えの店で、おばちゃん一人で作るラーメンが、信じられないほどうまかったりするのだ。
まあ知ってる人にとっては、観光客などが来ないほうが、味が変わらなくていいわけだが、せっかくこれだけうまいのだからもったいない、という気も、ちょっとはしてしまう。
とまあ、前置きを書いているうちに、もうほとんど疲れて、京都のラーメンまで辿りつけないような気がしてきたわけだが、京都のラーメンも、これまたすごいのだ。
だいたい「京都ラーメン」という言葉自体が存在しない。京都はラーメンがうまいなどということを、普通の人は知らないだろう。京都もそれを売りだそうという気配もないし、だいたい京都にはすでに観光資源が山のようにあるから、今さらラーメンなどを売り出す必要もないのだろう。
しかし京都のラーメンについて知らなくても、京都発祥のラーメンを食べたことがある人は、実は全国に非常にたくさんいるはずなのだ。
まず「天下一品」が、京都のラーメンだ。これは全国でチェーン展開をしているから、食べたことがある人は多いだろう。でも天下一品が京都のラーメンだというのは、知らない人がほとんどだろう。
それから「来来亭」という、これは東京進出をしておらず、西日本に限定してチェーン展開しているラーメンチェーン店なのだが、このラーメンも、「背脂醤油系」という、京都の一つの代表的なラーメンを元にしている。でもこれが京都のラーメンだということも、ほとんどの人は知らないだろう。
それにだいたい、「餃子の王将」が、京都発祥だ。これはラーメンの味としては、あまりどうということはないのだけれど、ラーメンのチェーン店としては、全国有数の規模だろう。
このように、京都発で全国展開しているラーメンチェーン店は多いのだが、京都をまったく売り物にしないところが、面白いというか、不思議なところだ。まあしかし、ラーメンで京都のブランドを付けても、あまり意味がないということか。
あとは「第一旭」という、神戸や名古屋でも暖簾分けした店があるラーメン屋が京都発なのと、それから「新福菜館」という、戦前に創業した、京都では最古、全国的に見てもかなり古い部類に属するラーメン屋がある。新福菜館は、京都以外では店を出していないみたいだ。
というわけで、言いたかったのはただ、昨日も新福菜館三条店へ行ってきました、という、それだけのことだったわけなのだ。
新福菜館三条店のラーメンについては、あまりにもう何度も書いているから、ここではあまり繰り返さないが、昨日は久しぶりに「大盛り」を食って、これがまたやはり、なかなか趣深かった。
大盛りといえば、どんなラーメン屋でも普通は、150円増しくらいにして、麺とスープの量が増えるという、ただそれだけのものだろう。しかし新福菜館は違う。大盛りになると、ラーメンの構成自体が違うものに変化するのだ。
まず新福菜館のラーメンは、並だとチャーシューに青ねぎだけが乗っているのに、大盛りになるとそれにもやしが付く。そして生卵が入ってくる。もやしと生卵は、オプションメニューではなく、大盛りにすると、標準で付いてくるものなのだ。だから例えば生卵が入らないようにしたいと思ったら、注文して生卵を抜いてもらうようにしないといけない。
そしてさらに、チャーシューの量も増える。もちろん麺の量も増え、値段は200円増しの800円。考えられないほどのサービスなのだ。
ラーメン自体の完成度としては、並の方が高いから、初めて新福菜館三条店のラーメンを食べようと思ったら、僕は並をすすめたいところだが、大盛りもまた抜群の風情がある。
なぜ大盛りに、並の量を増やすだけでなく、わざわざもやしと生卵を入れたのかを考えると、昔ながらの商売人の、粋な感覚を感じることができるのだな。
この大盛りを考案した、たぶん新福菜館の創業者だったんだろうが、その人にしてみれば、自分の作ったラーメンは、あくまで並盛で十分な完成度をもっているものであり、その麺やスープの量をただ増やしてしまうと、自分の考えている理想の世界が崩れてしまうと思ったということなんじゃないか。麺を食い、スープをすすり、チャーシューを齧るというその繰り返しは、並盛で食べてこそ、一番満足できるものであり、それを単純に量を増やしてしまったら、間が抜けたものになってしまう。どうしてもそう思えてしまい、それが許せなかったから、そこにさらに、もやしと生卵を配置して、間が抜けないようにしたのだと思えるんだよな。
商売よりも、あくまで自分の世界を重視する、職人気質がここにはっきりと顔を出している気がして、そういう人間性を感じられるところが、この新福菜館三条店の大盛りラーメンを食べる大きな楽しみだ。
だからこれは、食べ方として、僕が今まで食べていたやり方は間違っていたのだな。僕はまず初めに、生卵をレンゲですくって、もやしの上にまぶしつけるようにしていたのだけれど、いやもちろん、ラーメンの食い方など、どうにでも好きなようにやればいいのだが、この大盛りを考案した人の気持ちを考えると、まずは生卵はそっとそのままにしておいて、普通のラーメンの味を味わってほしいと思っただろう。新福菜館の基本の味をまず味わい、そのうちそれに飽きてきたところで、おもむろに生卵を汁に溶かし込んで、ここに一味やニンニク唐辛子など、卓上に配置された調味料を追加したりもし、味を変えて後半を楽しむと。こういう食べ方を想定したんじゃないかと思えるんだな。次に大盛りを食う時には、僕はそうやってみることにする。
ちなみに広島ラーメンの老舗の店では、「大盛り」というメニュー自体が存在しない。メニューは「中華そば」一つだけ。これも、並盛がもっとも完成度が高いという、同じ考えに基づくものなのだと思う。だからせっかくのおいしいラーメンをもっと食べたいと思ったら、ラーメンを2杯、注文するしか方法がなく、僕は広島でその店のラーメンを初めて食べた時には、実際にそうした。
京都のラーメンがうまいというのは、全国的にはほとんど知られていないだろう。ラーメンの知名度は宣伝によるところが大きい。どんなにうまい、その土地独自のラーメンがあったとしても、地元の人が食べて楽しんでいるだけでは、他県の人に知られることにはならないわけで、具体的にどのようにやるのかは知らないが、大掛かりな宣伝活動が必要になるだろう。行政なども関わって、町おこしの一環として、その土地の地ラーメンを新たに開発し、全国に売り出すなどということも聞いたことがある。
一時「地ラーメン」のブームもあり、多くのラーメンが世に知られることになったわけだが、地元に他に観光の目玉があったりして、わざわざラーメンを売り出す必要がないなどという場合、非常においしいのにほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと地元民に愛されているラーメンが存在したりする。
その一つが広島ラーメンであるというのは、間違いのないところなんじゃないか。
広島にはB級グルメの名物として、お好み焼きがある。これは全国的に非常に知られているわけで、お祭りなどで出る屋台も、広島風お好み焼きはフランクフルトや焼きとうもろこしと並び、主力メニューの一つとなっている。
広島のお好み焼きは、お好み店の店主で一人、商才にたけ、お好み焼きの普及に心血を注いだ人がいて、その人の努力によりこれだけ全国的に有名になったといっても間違いじゃないだろう。ただ地元民が一週間に一度は食べる、などというだけでは、名物にまではなかなかならない。
しかし広島には、お好み焼きの陰に隠れて、ひっそりとうまいラーメンがあるのだな。
広島県のラーメンというと、「尾道ラーメン」が非常に有名なのだけれど、広島市にはそれとは別のラーメンがある。戦後の屋台から始めた店の流れを汲むもので、他の土地のラーメンと比べても、かなり独自だと言えるのじゃないか。
ベースは、西日本のラーメン標準の「醤油豚骨」なのだけれど、出汁をただ豚骨だけで取るのじゃなく、香味野菜はもちろんとして、まず鶏肉を入れる。それだけじゃなくさらに昆布やら鰹節やらを入れるのだ。
尾道ラーメンも魚介出汁を入れたスープが有名だが、尾道市にある老舗のラーメン屋では、元々は魚介出汁を使っておらず、1980年代に土産物として売り出す時に、「尾道ラーメン」という名称と共に、魚介出汁を入れるようになったということなのだ。だから、魚介出汁入りのラーメンが開発されたのは、広島市のほうがよっぽど早い。
また最近は「ダブルスープ」といって、肉の出汁と魚介出汁を混ぜて使うスープが、新手のラーメン屋で流行っていたりする。これだって、いわばダブルスープの元祖は広島だって言ったっていいのである。
とまあ、広島市には以前住んでいたことがあるから、広島となるとついヒートアップしてしまうのだが、広島市のラーメンがうまいのは間違いない。
魚介出汁が入っているのだが、これは言われなければ絶対わからない。つまり広島のラーメンは、魚介出汁が入っていることを売り物にしているのじゃなく、魚介出汁はあくまで隠し味として、目立たぬように入れているのだ。
醤油豚骨のラーメンは、どうしても男性的な、尖ったところがあると思うが、広島の醤油豚骨には、そんな様子は全くない。様々な材料が使われているため、あくまでまろやか。出しゃばったマネは一切せず、旦那の横にピタリと寄り添い、旦那が必要な時にさっと手助けをするよくできた嫁のようで、余分な自己主張は一切ないのだが、足りないところも全くないという、考えられない芸当を軽々とやってのける。
多少のバリエーションはあるのだが、広島市内には、この広島ラーメンを出す店が、数十軒はあるだろう。でもこれを全国的に売りだそうという気はまったくないんだな。しかも名店ほど、駅から遠く離れた辺鄙な場所でやっていたりする。地元の、小汚い店構えの店で、おばちゃん一人で作るラーメンが、信じられないほどうまかったりするのだ。
まあ知ってる人にとっては、観光客などが来ないほうが、味が変わらなくていいわけだが、せっかくこれだけうまいのだからもったいない、という気も、ちょっとはしてしまう。
とまあ、前置きを書いているうちに、もうほとんど疲れて、京都のラーメンまで辿りつけないような気がしてきたわけだが、京都のラーメンも、これまたすごいのだ。
だいたい「京都ラーメン」という言葉自体が存在しない。京都はラーメンがうまいなどということを、普通の人は知らないだろう。京都もそれを売りだそうという気配もないし、だいたい京都にはすでに観光資源が山のようにあるから、今さらラーメンなどを売り出す必要もないのだろう。
しかし京都のラーメンについて知らなくても、京都発祥のラーメンを食べたことがある人は、実は全国に非常にたくさんいるはずなのだ。
まず「天下一品」が、京都のラーメンだ。これは全国でチェーン展開をしているから、食べたことがある人は多いだろう。でも天下一品が京都のラーメンだというのは、知らない人がほとんどだろう。
それから「来来亭」という、これは東京進出をしておらず、西日本に限定してチェーン展開しているラーメンチェーン店なのだが、このラーメンも、「背脂醤油系」という、京都の一つの代表的なラーメンを元にしている。でもこれが京都のラーメンだということも、ほとんどの人は知らないだろう。
それにだいたい、「餃子の王将」が、京都発祥だ。これはラーメンの味としては、あまりどうということはないのだけれど、ラーメンのチェーン店としては、全国有数の規模だろう。
このように、京都発で全国展開しているラーメンチェーン店は多いのだが、京都をまったく売り物にしないところが、面白いというか、不思議なところだ。まあしかし、ラーメンで京都のブランドを付けても、あまり意味がないということか。
あとは「第一旭」という、神戸や名古屋でも暖簾分けした店があるラーメン屋が京都発なのと、それから「新福菜館」という、戦前に創業した、京都では最古、全国的に見てもかなり古い部類に属するラーメン屋がある。新福菜館は、京都以外では店を出していないみたいだ。
というわけで、言いたかったのはただ、昨日も新福菜館三条店へ行ってきました、という、それだけのことだったわけなのだ。
新福菜館三条店のラーメンについては、あまりにもう何度も書いているから、ここではあまり繰り返さないが、昨日は久しぶりに「大盛り」を食って、これがまたやはり、なかなか趣深かった。
大盛りといえば、どんなラーメン屋でも普通は、150円増しくらいにして、麺とスープの量が増えるという、ただそれだけのものだろう。しかし新福菜館は違う。大盛りになると、ラーメンの構成自体が違うものに変化するのだ。
まず新福菜館のラーメンは、並だとチャーシューに青ねぎだけが乗っているのに、大盛りになるとそれにもやしが付く。そして生卵が入ってくる。もやしと生卵は、オプションメニューではなく、大盛りにすると、標準で付いてくるものなのだ。だから例えば生卵が入らないようにしたいと思ったら、注文して生卵を抜いてもらうようにしないといけない。
そしてさらに、チャーシューの量も増える。もちろん麺の量も増え、値段は200円増しの800円。考えられないほどのサービスなのだ。
ラーメン自体の完成度としては、並の方が高いから、初めて新福菜館三条店のラーメンを食べようと思ったら、僕は並をすすめたいところだが、大盛りもまた抜群の風情がある。
なぜ大盛りに、並の量を増やすだけでなく、わざわざもやしと生卵を入れたのかを考えると、昔ながらの商売人の、粋な感覚を感じることができるのだな。
この大盛りを考案した、たぶん新福菜館の創業者だったんだろうが、その人にしてみれば、自分の作ったラーメンは、あくまで並盛で十分な完成度をもっているものであり、その麺やスープの量をただ増やしてしまうと、自分の考えている理想の世界が崩れてしまうと思ったということなんじゃないか。麺を食い、スープをすすり、チャーシューを齧るというその繰り返しは、並盛で食べてこそ、一番満足できるものであり、それを単純に量を増やしてしまったら、間が抜けたものになってしまう。どうしてもそう思えてしまい、それが許せなかったから、そこにさらに、もやしと生卵を配置して、間が抜けないようにしたのだと思えるんだよな。
商売よりも、あくまで自分の世界を重視する、職人気質がここにはっきりと顔を出している気がして、そういう人間性を感じられるところが、この新福菜館三条店の大盛りラーメンを食べる大きな楽しみだ。
だからこれは、食べ方として、僕が今まで食べていたやり方は間違っていたのだな。僕はまず初めに、生卵をレンゲですくって、もやしの上にまぶしつけるようにしていたのだけれど、いやもちろん、ラーメンの食い方など、どうにでも好きなようにやればいいのだが、この大盛りを考案した人の気持ちを考えると、まずは生卵はそっとそのままにしておいて、普通のラーメンの味を味わってほしいと思っただろう。新福菜館の基本の味をまず味わい、そのうちそれに飽きてきたところで、おもむろに生卵を汁に溶かし込んで、ここに一味やニンニク唐辛子など、卓上に配置された調味料を追加したりもし、味を変えて後半を楽しむと。こういう食べ方を想定したんじゃないかと思えるんだな。次に大盛りを食う時には、僕はそうやってみることにする。
ちなみに広島ラーメンの老舗の店では、「大盛り」というメニュー自体が存在しない。メニューは「中華そば」一つだけ。これも、並盛がもっとも完成度が高いという、同じ考えに基づくものなのだと思う。だからせっかくのおいしいラーメンをもっと食べたいと思ったら、ラーメンを2杯、注文するしか方法がなく、僕は広島でその店のラーメンを初めて食べた時には、実際にそうした。
2011-08-27
アジの塩焼きとスイートコーンで夏の味覚を今ごろ満喫
一昨日サンマを食い、「秋の味覚だ」と喜んでたんだが、考えてみたら、夏の味覚でまた食ってないもんが色々あった。それで昨日は、アジの塩焼きにスイートコーン。やはりこれを食わずに夏を終わらせてはいけないだろう。他にトマトもまだ、今年になってから食ってない。
なぜこんな不手際を起こすことになったかといえば、この夏は焼きそばだのうどんすきだのの、麺料理に凝ってしまったからだ。「料理する」のが主眼になってしまったから、「焼くだけ」とか「ゆでるだけ」とかいう料理としてあまりにシンプルすぎるものは、眼中から外れてしまった。
しかしこの単品を「切るだけ」「焼くだけ」「ゆでるだけ」、味付けは塩か、またはしょうゆやポン酢などをぶっかけるだけという、料理と言うにはちょっとはばかられる食い方、手軽に季節を味わうには最高なんだよな。材料そのものの味わいを、最も感じることができる。
料理ってのは、やはり「鍋」に代表される、すべてを一つに集約していこうとするやり方と、材料を個別に味わっていくやり方と、大きく2つに分かれるな。どんな場所にも、この2つは混在するものと思うけれど、中国なんかは炒め物にしても八宝菜とかあるし、ギョウザにしても麺類にしてもすべての栄養を一つに合わせていくわけだから、どちらかと言えば「集約派」な感じがするよな。それに対して日本料理の代表を寿司や天ぷらだとすれば、日本は「個別派」だ。
中国人などの目から見れば、ただ魚を切りさばくだけの刺身だの寿司だのは、到底料理のうちには入らないのじゃないか。中国人に聞いたことないけれど。それに対して以前魯山人の本を読んだら、中国料理があまり素材に気を使わないと言って、魯山人は中国料理を糞味噌にけなしていた。
僕自身のことを考えても、鍋や焼きそばに凝っている時は、「味付け」のことなどを色々考え出して、ただ塩をふって焼いてポン酢をぶっかけて食う、なんてものは到底料理とは思えず興味が湧かなくなってくるし、逆にこうやって、塩焼きの魚を食べはじめると、味付けなどという面倒くさいもん、どうでもよくなってくる。
いやこんなこと考えていても、何の足しにもならないし、この先とくべつな結論もないのだけれど、まあ面白いから、もう少しこのことについて考えを進めると、ざっくり外から見ると、寿司や天ぷらを代表とする「個別派」の日本なのだけれど、少し詳しく見れば、集約派と個別派は混在している。
東京は明らかに、個別派の文化なのだけれど、京都に来て感じるのは、京都というのは味付けについて、ものすごく繊細な感覚を持っているなということだ。
「京都はうす味」だというのが一般的なイメージだろうが、京都へ来てラーメンを食べてみればわかるが、「天下一品」を代表として、ものすごくこってりしている。京都のラーメンと言えば、全国どこにでも「京風ラーメン」と呼ばれる、うす味で和風だしを使ったラーメンがあると思うが、京風ラーメンは実は京都にはない。京風ラーメンは京都人ではない誰かが、京都をイメージして勝手に創りだしたものなのだ。
京都がうす味なのは、基本は野菜を炊くときだけだ。しかもうすいのは色だけで、出汁の味がかなりきつく付き、甘みも意外に強く付けてある。それに対して肉や野菜を炊く時は、京都では徹底的にこってりさせる。
京都はうす味のうどんを食べるのかと思ったら、もちろんそれが中心ではあるんだが、そばもけっこう好んで食べる。そばの場合には、きちんと濃い出汁を使い、それを京都は「にしんそば」みたいな形で、きちんと名物にまで仕立て上げている。
だから京都は、ひとことで言えば「TPO」なのだよな。材料についても味付けについても、こだわりがない。様々な材料を、適切な味付けをすることにより、どうバランスよく、一つの料理として完成させていけるのか、というところに重点がある。「まぐろにしょうゆ付けて食うのが最高」なんていう東京とは、完全に対極にあるわけだ。
ところがここで、同じ関西にありながら、大阪というのが興味深いんだよな。京都と大阪の食文化は、全く違うんじゃないかと思う。まあ僕は大阪には住んでおらず、たまに行くくらいだから、あまり知ったような口をきくと、大阪の人に怒られるんじゃないかとは思うんだが。
京都を集約派の日本代表とすれば、大阪は京都のすぐ近くにありながら、個別派なんだと思うんだよな。
まず「塩味」に対するこだわりが強い。大阪は塩味のラーメンがほんとに多い。しょうゆラーメンは、今まで大阪であまりいいのを食ったことがないんだが、塩味のラーメンについては、大阪にはいくつも名店がある。僕の大阪の友人も、「塩味が一番いいのよ」などと言ってみたりする。
それからたぶん、うどんに対するこだわりが強い。京都では、うどんは多くの食べ物のうちの一つにすぎないが、大阪ではうどんは「ソウルフード」に近いものなのじゃないか。
僕がそれを一番感じたのは「うどんすき」だ。うどんすきは基本的に、ちょっと京料理の趣もあるごちそう料理なんだが、そこにうどんを入れてくるところが、「ごちそうにまでうどんを入れないと気が済まない大阪人」を表しているような感じが僕はした。実際大阪の友人のお母さんも、毎日うどんを食べないと気が済まないのだそうだ。
こういう事情は、商人の街である大阪は、貴族の街である京都から、何かと上から目線で馬鹿にしたような態度を取られ続けた、なんていう、歴史的な経緯もあったりするのかとも思う。「京都とは同じにならないぞ」と思い、自分たちの文化を模索した結果、京都の集約派に対して、個別派に行き着いた、みたいな。
まあこんなこと、だらだら書いても何の足しにもならないんだが、途中まで書いてしまったから、あともう少しだけ続けると、大阪がそうやって、京都に対する対抗意識をもって、自分たちの文化を形成してきたと考えるとして、大阪にはさらにもう一つ、対抗意識を燃やした場所があったのじゃないか。それは「東京」だったと思うんだよな。それが「ソース文化」というところに表れているんじゃないかという感じがする。
大阪の、これはさっきとは別の友人なんだが、「何にでもソースをかける」と言っていた。天ぷらにも当然ソースだそうだ。東京人は基本は、「何にでもしょうゆをかける」だと思うんだよな。僕はとんかつにも、ソースじゃなくしょうゆをかける。東京の人はそういう人多いんじゃないかと思う。
大阪は、ただ単純に京都と違おうとすると、何でもしょうゆをぶっかけて食う、東京人とおなじになってしまう危険があった。それで東京とは違う、「ソース」をぶっかけることで、京都とも東京とも違う、大阪独自の文化を確立したと。
とまあ以上は、何の足しにもならない、僕の勝手な空想話なわけなんだが、僕は色んな場所に住んでは、その土地のことを勝手に自分なりに想像して、一人で楽しんでいるというわけなのだ。
というわけで、昨日の飯の拡大写真を紹介。
これは完全に、ただアジに塩をふって焼いて、ポン酢をぶっかけて食べるってだけの話だが、さすが旬の魚は、それが一番うまいんだよな。非力なIHレンジにフライパンで焼いてた時は、どうしてもアジが水っぽくなってしまったんだが、カセットコンロに魚焼き用の網を使うと、完璧な焼け具合になった。
ただ家の中で魚を焼くと、部屋中が煙で充満し、真っ白になるという欠点がある。カセットコンロだから、ベランダに持ち出して焼いてもいいんだが、間違いなく、火事だと思われるな。「魚焼いてます」とかいう張り紙でもしておくか。
スイートコーン。これはただ、塩ゆでしただけ。何も付けずにかぶりつく。「甘くてウマー」となるわけだ。何の芸もないわけだが、やはりとうもろこしは、この食い方が一番うまいだろう。
キュウリは漬けてから2日目になったら、やはり味がなじんでうまくなった。
昨日もシメはかけうどんにしたんだが、考えてみたらとうもろこしは十分炭水化物だから、わざわざうどんまで食う必要はなかったのだ。明らかに食い過ぎだった。
2011-08-26
秋の味覚はやっぱりサンマ
今年の夏は、電力不足の折り、関西でも節電しないといけないということで、極力エアコンを使わない生活にチャレンジしてみることとなった。
恥ずかしながら僕はこれまで、もう何十年にもわたって、24時間冷房という生活を続けてきた。東京ではみんなが冷房を使うから、外気温が上がってしまって、夏は亜熱帯なみの気候になるという。そんな場所で自分だけが冷房を使わないなどということが出来ようはずがない。
広島にいた2年ほどの間だけは、広島市の街の外れで、川に近いところに住んでいたこともあり、扇風機だけでけっこういけたのだが、去年の京都はあの猛暑。一回こんなに冷房をつけていたのでは、京都の夏を味わったことにはならないだろうと、冷房を消してみた次の瞬間、頭の芯がひんやりし、吐き気がするという熱中症の症状があらわれた。それで速攻で冷房をつけ、あとはまた24時間冷房のお世話になった。
それが今年は、扇風機で過ごさないといけないわけだが、扇風機の使い方なぞ忘れてしまっている。まず扇風機をどういう強さにして、どういうように風を当てれば快適に過ごせるのかを研究するところから始めなければいけなかった。
扇風機はどうにか、ちゃんと使えるようになったのだが、扇風機を最強にしても、Tシャツやら短パンやらが、汗でぐっしょりと湿ってしまう。これはどうしたものかと思っていたが、行き着くところは必然的にただひとつ。そう、パンツ一丁、パンイチだ。
パンイチはたしかに涼しい。京都では35度を越す日も何日か続いたが、パンイチに扇風機で全然OK。僕はソファに座ってPCに向かうので、背中に置いたクッションがどうしても汗で湿ってしまうが、それ以外は非常に快適。麦茶を一日3リットルほど飲み、熱中症に襲われる気配すらなかった。
しかしパンイチがいいのは、ただ涼しいということだけに留まらない。その開放感がたまらない。海水浴が楽しいのは、海や砂浜という実際の環境が心地いいということもあるが、そこを海水パンツ一丁で歩きまわる開放感が、大きな理由ともなっているだろう。自宅のパンイチも同じことだ。パンイチでいるというだけで、なんだか気分が高揚してくる。
多少涼しくなってくると、ほんとは扇風機をつけたままTシャツを着るのが正しいあり方だろうが、パンイチはそのままに、扇風機のほうを消す始末。終いには外出まで、パンイチのまましたくなってしまうほどだった。
ただ京都は、日中はまだいいのだが、夕方から夜になり、気温が下がるにつれ蒸し暑さが増してくる。普通なら気温が下がれば涼しくなるはずなのだけれど、京都は盆地だから、湿気がこもるのだろう。湿気はそのままに温度が下がるから、湿度としては逆に上がってしまうということなのじゃないか。
なので夜になるとエアコンをつけ、そのまま朝までエアコンをつけて寝るということにはなってしまった。まあしかしこれは、夜間は電力が不足しないのだから、節電という観点からは問題ないことなわけである。
という今年の夏も、ぼちぼち終わりの気配を見せ、季節は秋に向かおうとしている。秋は食い物が、何でもかんでもうまくなるから、ひとり飯も楽しいんだよな。
やはり秋の味覚といえば、何を差し置いてもまずはサンマだろう。お盆のあたりから新物が出はじめ、徐々に値段が下がりつつあるところだが、昨日は178円にまでなったので、とりあえず今年の初サンマ、味わうことにした。
IHレンジへのつまらないこだわりはやめ、最近はカセットコンロを使うようになっているから、サンマのために魚焼き用の網を用意し、この日を待っていた。しかし魚焼き用の網を使うのが初めてだったのと、さらに魚を焼くこと自体が久しぶりだったので、かなり色々と失敗した。
まず塩をふるのを忘れた。それから火加減が強すぎて、中までちゃんと火が通らなかった。
しかしさすがサンマくん、そんなことには動じなかった。新物のサンマってのは、やはりうまいんだよな。刺身にもできるやつだから、生臭みはまったくなし。ハラワタも生焼けだったが、これもかまわず食ったらうまかった。
ただ単純に魚を焼くだけというのは、料理自体の面白さは全くないのだが、サンマはそれで十分うまいから仕方ないのだ。
あとは秋ナス。ナスも今まで異常とも思えるほど高かったが、昨日になりやっと、1本29円という、本来そうあるべき値段となった。焼きナスもうまいが、サンマを焼いたのでこちらは塩もみ。すり胡麻としょうゆをかける。
ナスの塩もみも、料理とは言えない簡単なものだが、うまいわけなんだな、これが。
あとはキュウリ。塩もみして酢をぶっかけ、鷹の爪とだし昆布といっしょにタッパーに放り込んで冷蔵庫に入れとくんだが、普通においしく食べられる。
それに冷奴で、酒は常温の日本酒。
一つ一つの材料に、できるだけあまり手を加えずにそのまま食うというのは、日本人の基本的な精神としてあるのだろう。それもたしかにいいですな。
シメはかけうどんにした。
2011-08-25
計量スプーンを捨てた時、料理の世界が見えてくる
料理を作るのに料理の本を見るってのは、まあもちろん、したかったらしたらいいんだが、料理の本を見るのが疲れたなとか、面倒くさいなと思ったら、見なくたっていいもんだと思う。むしろ料理は、料理の本を見なくなってからスタートするもんだと言ってもいいんじゃないか。時々料理の本を見ないと、料理が全く作れないという人がいるが、あれはかわいそうに、料理の本にやられちまって、虜にされてしまったんだな。料理の本は、時には害悪とすら呼べるものを撒き散らすものだ。
おれが一番気に食わないのは、あの計量スプーンだ。計量スプーンは即座に捨てたほうが身のためだ。料理の本から離れられなくなるのは、調味料の量が覚えられないからだろう。大さじだの小さじだの、1だの1/2だの。そこにさらにcc表記やらグラム表記やらが混ざってくると、何が何だか訳がわからなくなってくる。覚えられないもんは、自分の身に入っていかないわけだから、ブラックボックスになってしまう。ブラックボックスを解明するために、料理の本が必要になってしまうんだよな。
実際料理の本の通りに作ると、けっこうおいしく出来たりする。そりゃそうだ、料理の本はその通りに作ればおいしく出来るよう、制作者が注意に注意を払って、頑張っているわけだ。ところがそれを見て作っている方は、料理の作り方を理解しているのではなく、ただ訳もわからず料理の本に従っているだけだから、一回おいしく出来てしまうと、もう料理の本なしには失敗してしまうような気がしてくる。そうなるともうこれは完全に、料理の本の依存症だ。
料理の本に書いてあるレシピの中でも、覚えると便利なものはあって、例えば麺のゆで時間。素麺は2分。それから水の量。これは時間とも密接に関係するんだが、魚を煮付ける時に、10分で煮詰まる水の量は1カップ。無洗米150ccに、水は250cc。こういうものは、簡単に覚えられることだから、しっかり覚えて活用する。だから時計と計量カップはあった方がいい。
でも麺のゆで時間や煮付けの水の量と、調味料の量というのは、根本的に違うものなのだ。
ゆで時間や水の量は、加減しなきゃいけない量が一つだから、要は多いか少ないかだけで味が決まってくる。ゆで時間が長すぎれば、麺が柔らかくなりすぎるから、短くすればいい。水の量が多すぎれば、なかなか煮詰まらないから、少なくすればいい。一つを加減すれば、それで味を決めることができる。だから話が簡単で、覚えるのもラクなのだ。
ところが調味料は、それに比べると圧倒的に複雑なのだ。
和食に限定して考えると、最低でも酒、みりん、砂糖、しょうゆ、塩、この5つのものの分量を加減しなくちゃいけない。さらにここに、味噌やらニンニクやらショウガやら、ゴマ油や唐辛子や、なんてものも加わってきたりする。しかもこれらのものの効果は、それぞれ独立ではなく、いくかのものはお互いに関係しあうことにより、効果を変化させる。
さらにだ。調味料の量は、すべての料理に共通な、黄金の割合というものがあるわけではない。素麺のゆで時間は、いつでも2分だが、調味料は、料理の方式や、使う材料、さらにはその人の好みなどにより、適切な量がそれぞれ違う。猛烈に複雑なのだ。
そこまで複雑なものを、頭で覚えられるわけがない。これは絶対に間違いない。感覚で覚えてしまわないといけないのだ。
車の運転をするなんていうことと、似たところがあると思う。
車を運転するには、最低でもハンドル、アクセル、ブレーキを操作しなくちゃいけない。これだけでもけっこう大変だと思うが、さらに方向指示器やら、マニュアル車ならクラッチとシフトレバーまで操作する。しかもそれを、道路の交通事情に応じて、適宜変えていかないといけないわけだ。
そんなこと、考えていたら、絶対できないだろう。こういう時にはこうして、こういう場合にはこうして、などと箇条書きにでもしてしまったら、その瞬間に車は運転できなくなるに違いない。でも誰でもが、難なく車の運転ができるというのは、車の操作の仕方について、一切考えることなく、感覚で理解しているからだ。人間は本当に複雑なものについては、感覚を使ってだけ処理することができるのだ。
それはもちろん、何も車の運転に限ったものではない。ただ歩くとか、言葉をしゃべるということだって同じことだ。歩くのだって、簡単そうに見えるが、具体的に分析してみると、ものすごく複雑なことをやってるに違いない。実際ロボットは、まだなかなか、人間みたいに歩くことはできないじゃないか。
調味料も同じなのだ。いくつもの調味料を、料理の種類や材料に応じて変化させることは、分析し、箇条書きにしてしまったら、かえってできなくなってしまう。そうでなく、感覚で覚えないといけない。
そのために一番必要なのは、計量スプーンを捨てることだ。
計量スプーンを捨てたところから、料理の本当の、豊かな世界が見えてくる。調味料には一つ一つ意味がある。それらは互いに依存し合いながら、一つの世界を織り成している。調味料の世界のひだの一つ一つは、感覚を通してだけ、見えてくるものなのだ。
と熱く語ってしまったところで、最近作ったもの。
あさりの雑炊。スーパーで安く売ってる中国産のあさりのむき身を、細長く切った大根と一緒に雑炊に炊きこむ。
貝ってのは、だしの風味が淡いから、ほんとに淡く味を付けなきゃいけないのだ。昆布だしを取るが、酒とみりん、うす口しょうゆを、ジョボっという感じで、ほんとにちょっぴり。あとは塩で味を整える。
今回は味加減に非常に成功し、大変うまかった。
豚肉の雑炊。本当は玉ねぎを一緒に炊き込みたかったんだが、なかったから大根を入れ、昆布だしに塩コショウで味を付けてみた。
やはりちょっと、豚の臭みが残ったな。豚肉には香味野菜が入らないと厳しいことがわかった。
ソーミンチャンプルー。
ほんとはニラが一番うまいが、まだちょっと高いので、見切り品だった長ねぎを入れた。長ねぎもかなりいける。
フライパンにツナ缶を油ごと入れ、続いて長ねぎ。さっと炒めたら、ゆでて水で洗い、よく水を切った素麺を投入。塩コショウだけで味を付ける。
さすが沖縄の料理、こんなに簡単に、どこにでもある材料で作るのに、東南アジアの味がする。
鶏のうどんすき。これは大変簡単に作れるのに、非常にうまい。
野菜は好きなものを入れたらいいが、長ねぎとか玉ねぎ、しいたけなど、香味野菜は必ず何か、入れたらいいと思う。昆布だしに、酒をたっぷりと入れ、みりんとうす口しょうゆで味を付ける。
おれが一番気に食わないのは、あの計量スプーンだ。計量スプーンは即座に捨てたほうが身のためだ。料理の本から離れられなくなるのは、調味料の量が覚えられないからだろう。大さじだの小さじだの、1だの1/2だの。そこにさらにcc表記やらグラム表記やらが混ざってくると、何が何だか訳がわからなくなってくる。覚えられないもんは、自分の身に入っていかないわけだから、ブラックボックスになってしまう。ブラックボックスを解明するために、料理の本が必要になってしまうんだよな。
実際料理の本の通りに作ると、けっこうおいしく出来たりする。そりゃそうだ、料理の本はその通りに作ればおいしく出来るよう、制作者が注意に注意を払って、頑張っているわけだ。ところがそれを見て作っている方は、料理の作り方を理解しているのではなく、ただ訳もわからず料理の本に従っているだけだから、一回おいしく出来てしまうと、もう料理の本なしには失敗してしまうような気がしてくる。そうなるともうこれは完全に、料理の本の依存症だ。
料理の本に書いてあるレシピの中でも、覚えると便利なものはあって、例えば麺のゆで時間。素麺は2分。それから水の量。これは時間とも密接に関係するんだが、魚を煮付ける時に、10分で煮詰まる水の量は1カップ。無洗米150ccに、水は250cc。こういうものは、簡単に覚えられることだから、しっかり覚えて活用する。だから時計と計量カップはあった方がいい。
でも麺のゆで時間や煮付けの水の量と、調味料の量というのは、根本的に違うものなのだ。
ゆで時間や水の量は、加減しなきゃいけない量が一つだから、要は多いか少ないかだけで味が決まってくる。ゆで時間が長すぎれば、麺が柔らかくなりすぎるから、短くすればいい。水の量が多すぎれば、なかなか煮詰まらないから、少なくすればいい。一つを加減すれば、それで味を決めることができる。だから話が簡単で、覚えるのもラクなのだ。
ところが調味料は、それに比べると圧倒的に複雑なのだ。
和食に限定して考えると、最低でも酒、みりん、砂糖、しょうゆ、塩、この5つのものの分量を加減しなくちゃいけない。さらにここに、味噌やらニンニクやらショウガやら、ゴマ油や唐辛子や、なんてものも加わってきたりする。しかもこれらのものの効果は、それぞれ独立ではなく、いくかのものはお互いに関係しあうことにより、効果を変化させる。
さらにだ。調味料の量は、すべての料理に共通な、黄金の割合というものがあるわけではない。素麺のゆで時間は、いつでも2分だが、調味料は、料理の方式や、使う材料、さらにはその人の好みなどにより、適切な量がそれぞれ違う。猛烈に複雑なのだ。
そこまで複雑なものを、頭で覚えられるわけがない。これは絶対に間違いない。感覚で覚えてしまわないといけないのだ。
車の運転をするなんていうことと、似たところがあると思う。
車を運転するには、最低でもハンドル、アクセル、ブレーキを操作しなくちゃいけない。これだけでもけっこう大変だと思うが、さらに方向指示器やら、マニュアル車ならクラッチとシフトレバーまで操作する。しかもそれを、道路の交通事情に応じて、適宜変えていかないといけないわけだ。
そんなこと、考えていたら、絶対できないだろう。こういう時にはこうして、こういう場合にはこうして、などと箇条書きにでもしてしまったら、その瞬間に車は運転できなくなるに違いない。でも誰でもが、難なく車の運転ができるというのは、車の操作の仕方について、一切考えることなく、感覚で理解しているからだ。人間は本当に複雑なものについては、感覚を使ってだけ処理することができるのだ。
それはもちろん、何も車の運転に限ったものではない。ただ歩くとか、言葉をしゃべるということだって同じことだ。歩くのだって、簡単そうに見えるが、具体的に分析してみると、ものすごく複雑なことをやってるに違いない。実際ロボットは、まだなかなか、人間みたいに歩くことはできないじゃないか。
調味料も同じなのだ。いくつもの調味料を、料理の種類や材料に応じて変化させることは、分析し、箇条書きにしてしまったら、かえってできなくなってしまう。そうでなく、感覚で覚えないといけない。
そのために一番必要なのは、計量スプーンを捨てることだ。
計量スプーンを捨てたところから、料理の本当の、豊かな世界が見えてくる。調味料には一つ一つ意味がある。それらは互いに依存し合いながら、一つの世界を織り成している。調味料の世界のひだの一つ一つは、感覚を通してだけ、見えてくるものなのだ。
と熱く語ってしまったところで、最近作ったもの。
あさりの雑炊。スーパーで安く売ってる中国産のあさりのむき身を、細長く切った大根と一緒に雑炊に炊きこむ。
貝ってのは、だしの風味が淡いから、ほんとに淡く味を付けなきゃいけないのだ。昆布だしを取るが、酒とみりん、うす口しょうゆを、ジョボっという感じで、ほんとにちょっぴり。あとは塩で味を整える。
今回は味加減に非常に成功し、大変うまかった。
豚肉の雑炊。本当は玉ねぎを一緒に炊き込みたかったんだが、なかったから大根を入れ、昆布だしに塩コショウで味を付けてみた。
やはりちょっと、豚の臭みが残ったな。豚肉には香味野菜が入らないと厳しいことがわかった。
ソーミンチャンプルー。
ほんとはニラが一番うまいが、まだちょっと高いので、見切り品だった長ねぎを入れた。長ねぎもかなりいける。
フライパンにツナ缶を油ごと入れ、続いて長ねぎ。さっと炒めたら、ゆでて水で洗い、よく水を切った素麺を投入。塩コショウだけで味を付ける。
さすが沖縄の料理、こんなに簡単に、どこにでもある材料で作るのに、東南アジアの味がする。
鶏のうどんすき。これは大変簡単に作れるのに、非常にうまい。
野菜は好きなものを入れたらいいが、長ねぎとか玉ねぎ、しいたけなど、香味野菜は必ず何か、入れたらいいと思う。昆布だしに、酒をたっぷりと入れ、みりんとうす口しょうゆで味を付ける。
2011-08-24
イカの肝は今日も偉かった
一昨日のイカと里芋の煮付けで、すっかりイカ君ファンになってしまった僕。今までイカ君を甘く見ていたというのは、なんとも申し訳ないことだ。あのさっぱりした味の体の奥に、あんなに濃厚な味の肝を隠し持っていたとはな。イカの塩辛があるんだから、わかってはいたはずなんだが、本当にはわかっていなかったってことだ。
煮付けを食った時点で、この肝を使って焼きそばを作ったらうまそうだと思い付いたのだが、何も二日連続でイカを食わなくても良さそうなものなのに、昨日もグルメシティにイカ君がわりと安く出ていたので、我慢できずにイカ焼きそばを敢行することにした。ニラと一緒に炒め、しょうゆと酒に肝を溶かし込んだタレで味を付けたら、いかにもうまそうじゃないか。
イカは今回もイマイチうまく捌けなかった。昨日グルメシティで、鮮魚コーナーの兄ちゃんに、胴体の袋の手前の部分に指を入れ、一点を外すと簡単に取れるとは聞いていたんだが、その一点がどこだかよくわからん。ブラのホックが外せない男みたいだ。無理やり引っ張ったら墨の袋が破れてしまった。
こういう丸ごとの魚類を捌いたりする時、改めて、人間が他の生命を犠牲にすることにより、自分の生命を得ているということに、ちょっとだけ思いを馳せたりすることになる。それをあまり良くないと思う人達もいるわけで、動物を殺すのはかわいそうだから、植物だけ食べようとかいう人もいる。動物には人間と同じような意識があるから、ということだと思うが、植物には意識がないと、誰が決めたんだ。
しかし僕がイカ君を食うのは、間違いなく、一つの愛情表現であるということだ。べつにイカ君が憎くて殺すんじゃない。イカ君があまりにうまいから、その愛情のあまり殺して食うということになっている。これはイカ君からしてみたら、迷惑なことかもしれないが、少なくとも人間が飯を食うために、他の生き物を殺すということについて、人間同士の戦争などと同列に考えてしまうことは、ちょっと違うんじゃないかと思うんだがな。
というわけで、イカの胴体と足は、今回は焼きそばの具だから細長くなるように切って、肝はタレに溶かし込む。タレはしょうゆと酒、チューブのニンニクと生姜。これにニラを合わせる。前に牡蠣とニラを炒めたのを中華料理屋で食ったことがあって、それがとてもうまかったのを思い出したのだ。
ごま油でイカを炒め、火が通ってきたらタレを注ぎ込む。ここに焼きそば麺とニラを入れ、よく炒めてコショウをふったら出来上がり。軽く酢をふって食う。
これもですねえ、死にました。イカ君ほんとにエライ。濃厚な味がしてほんとにたまらん。また予想通り、ニラとの相性もバッチリでした。
これこのままで十分うまいんだが、もしかしたら鷹の爪を入れて、ちょっとピリ辛にしても、さらにうまいような気もするんだよな。まさか今日はやらないと思うけど。
炒め物は日本酒には合わないというのが、僕のこれまでの考えだったのだけれど、これはバッチリ合いましたな。
2011-08-23
イカのはらわたはやっぱり偉かった
昨日このブログで「材料が呼び止める声に耳を傾ける」などと書いた僕だが、実は材料に呼ばれているのがわかっていながら、無視しているというものもある。
最近で言うとサンマだ。まだ値段がちょっと高いということもあるが、食べ方が塩焼きというのがどうも気に食わない。脂の乗ったサンマを塩焼きすれば死ぬほどうまいのは、重々わかっているのだが、ものをただ焼いて食うのは献立としてどうも芸がないような感じがして、あまり手が伸びないところがある。
それからもう一つ、それが今回のスルメイカだ。
グルメシティでは最近、うまそうなスルメイカを非常に安く出すようになり、発泡スチロールの箱に入ったままの、まだまっ茶っ茶のいかにも新鮮そうなやつが98円だったりする。買いたいなと思うが、どうやって食おうかと考えると、二の足を踏んでしまうのだ。
イカというと里芋と煮付けるのが定番だろうが、まず里芋が高い。一袋300円とかする芋を買う気にならない。
それなら大根と煮付けてもとも思うが、どうもそこまでうまそうとも思えず、生でも食べられるというが、家で刺身を食うことにはあまり興味が湧かず、焼くのも同様興味がない。
というわけでこれまで、せっかくうまそうなスルメイカに何度も呼び止められながら、心の中で「ごめん」と言いつつ、その場を立ち去っていたというわけなのだ。
ところがそんな僕にも、とうとうスルメイカから目を背けることができなくなる日がやってきた。
里芋が、ちょっと小さな、衣かつぎくらいのやつなんだが、一人で食べるのに丁度よさそうな量のが100円で売っていたのだ。
もうこれは、神様がイカと里芋の煮付けをしろと言っていると観念して、ちょうど最高とまではいかないがそこそこの鮮度のスルメイカが、そこそこの値段で売っていたので買うことにした。イカをさばいたり里芋の皮を剥いたりすることを考えると、ずいぶん面倒くさいと思ったが、神様に言われてしまったのだから仕方がないのだ。
ところでここで非常に迷ったのが、イカのはらわたの扱いだ。
はらわたは以前は塩辛にしたのだが、今回は塩辛にするまでは鮮度が良さそうでもない。かと言って捨ててしまうのももったいない。とそこで、はらわたを煮付けの煮汁に入れるというのを思い付いた。アンコウの肝と一緒で、煮汁に入れるとコクが出るんじゃないか。
ただ生臭くなりそうな気もするわけで、普通はどうするのかと思わないわけでもない。しかしネットを検索してレシピを調べたりするのも面倒くさいし、失敗してもいいやと思って、はらわたを煮汁に入れることに決めた。
ちなみにイカと里芋の煮付けを作ったことがない人のために、僕がどうやって作ったのかを簡単に説明すると…。
里芋はたわしで洗い、皮がついたまま4~5分塩ゆでし、水にさらしながら皮をむく。皮は包丁を使わなくても、衣かつぎを食べる時の要領で、指の腹でこすり落とすようにすると、わりかしすんなり剥ける。でも30個の里芋の皮を剥くのは、けっこう面倒くさかった。
イカは頭の部分と足の部分を分ける。袋に指をつっこみ、頭と足を固定してあるところを指でぷちっと切れば簡単に外れるはずなのだが、どこを切ったらいいのかよく分からず、これはけっこうオタオタした。結果として外れたが、今でもどこを切ればいいのかよくわからん。
頭の方に骨なのか神経なのか、硬い細長いものがあるので、それを外す。足は目の下で切り、足の根元のところにくちばしがあるから、それを指でちぎり取る。
はらわたは、一番先端に黒い墨の袋があるんだが、それは今回は捨てた。真ん中の黄土色のものが、いわゆる塩辛に使うはらわただ。
フライパンに下ゆでして皮を剥いた里芋と、ブツブツと切ったイカを入れ、そこにはらわたを袋からしぼり出す。
あとはいつもの煮付けと同じ要領で、酒と水を半々にしたものを1カップ、砂糖とみりんをたっぷり入れ、煮ながら徐々に醤油を足して、こってりと味を決めていく。あくは一切取らなかったが問題なかった。
落し蓋をして強火で煮るが、イカの場合、すぐ固くなってしまうから、煮時間が問題だ。煮時間について、広島で僕がよく行っていたスーパー「マダムジョイ」の鮮魚コーナーの兄ちゃんが言っていたのは2~3分。京都のグルメシティ鮮魚コーナーの兄ちゃんが言っていたのは、それでは味が付かないから、7分とのことだった。今回はグルメシティの兄ちゃんに従い、7分煮た。
7分たったら、イカは取り出す。そして里芋だけを残し、煮汁を煮詰めていく。かなりドロッとするまで煮汁が煮詰まったら出来上がり。皿に盛り付けて、煮汁を上からたっぷりと掛けて食べる。
これはですねえ、死にました。やはりイカのはらわたはエライ。さすが塩辛にするだけのことはある。煮汁にほんとにコクが出て、こんなにうまいイカの煮付けは、食ったことがないというくらいうまかった。生臭みはまったくなし。
また言うまでもなく、はらわたのコクのある味が、里芋にたっぷりとしみ込んでいるわけだ。酒も進みまくり。今回は神様の助言に従って、ほんとに良かった。神様ありがとう。
しかしイカのはらわたがこれほどうまいとなると、これを他にいくらでも利用できることになるわけだ。今度はイカの焼きそばとかやってみようと思っている。もちろんハラワタをタレに入れる。