2011-01-31

鶏の水炊き

肉も野菜もたっぷりとれるのに、支度が簡単で、味付けの種類は多いし、圧倒的にうまいし、酒にも合って、暖まって、最後のシメには、おじやだろうがうどんだろうが雑煮だろうが、何でも来い、鍋というのはほんとうに、ミニマル料理という観点からすると、とくに冬場は、これ以上のものは考えられないわけで、一人暮らしの人が、まず何を料理しようかと考えるとき、鍋はぜったい正解なのだ。

これから料理しようと考える人は、そうすると、初めにカセットコンロと土鍋を買おうとするのじゃないかと思うのだが、カセットコンロはよいが、土鍋を買うのは、ちょっと待ったほうがいい。
だいたい一人暮らしの人の場合、キッチンはかなり狭いはずなので、もしほかのもので兼ねることができ、なくてもすむものならば、ないほうがいいのだし、それに鍋をするのに土鍋というのは、意外に使いづらいというのが僕の考え。

一人暮らしだから、一人用の小さな土鍋でよさそうな感じがするが、小食な女性ならばいいのかもしれないが、男性ならば、一食分には小さすぎる。
これは鍋のやり方にもよるので、材料を皿に入れて、それをテーブルにならべ、一回に食べる分だけ少しずつ、鍋に入れていくようにするという、まあたしかに鍋をするなら、ほんとはそれが正しいというやり方をするのなら、鍋は小さくてもいいのだが、それだと狭いテーブルの上に、あれこれならべないといけないし、途中で何度もアクを取ったり、足りなくなった水を足したり、酒を飲んでだんだん酔っ払ってくることを考えると、かなり面倒くさい。

一食で足りるだけの分量がいちどに入る土鍋は、今度はかなり巨大になって、置くところなどあるわけがなく、それならフライパンで十分なのだ。
それにフライパンは、深さが浅く、底が平らで、材料をきれいにならべられるし、鍋をするにはかなり使いやすいと僕は思う。
まずはフライパンで、しばらくやってみて、それでもどうしても、土鍋が欲しいということになったら、その時点で初めて買うというのが、土鍋の購入については正解であると僕は思う。

しかしフライパンというのはほんとに便利で、焼いたり炒めたりということはもちろんだが、こうやって鍋もできるし、煮物をするにもうってつけ、蒸し物もOK、野菜をゆでたりするにもちょうどよく、鍋はこのフライパンと、もう一つ、ラーメンやうどんを作るときのための片手鍋だけあれば、とりあえず十分じゃないかと僕は思う。

ちなみにあと、なくてもいいと思える調理器具は、ザルとボウル。
これも戸棚の場所を食う代表選手なわけなのだが、ボウルはまず絶対いらない。
僕はボウルをもっていないが、ラーメンどんぶりで代用していて、それで困ったことは一度もない。
ザルはいちおうもってるのだが、これがないと絶対に困ると思われるのは、ゆでた素麺を水にさらすとき。
でも僕は、家で素麺を食べないので、ザルをつかうことはほとんどない。
もし今、これからザルとボウルを買おうとしている人がいたら、とりあえずやめて、なしでしばらくやってみたらいいと思う。

逆に、いらなさそうに見えて、絶対にあったほうが便利なものは、アク取り器。
アクはスプーンでも取れるが、それだとかなり面倒くさく、これは多用しています、僕は。

というわけで、前置きが長くなりましたが、昨日は鶏もも肉を買って、水炊き。

だし昆布をしいたフライパンに、肉と野菜をならべ、酒をドボドボと入れて、水を張る。
鶏肉は、昨日は湯通しをしたのだが、これはあとでアクをとる手間を省くためのはずが、分厚い鶏もも肉は、湯通ししたくらいではアクが抜けず、けっきょくふたたび、アクを取らないといけなくなったから、しなくてもよかったかもな。
豚バラのうす切り肉などの場合は、湯通しするとアクがきれいに抜けるから、最終的には手間が省ける。

あとはこれを火にかけ、アクが出てきたら取って、ちょっと煮れば出来上がりなのだが、僕はこれを、煮えたらすぐに火を止めて、冷めたらまた火をつけ温めながら、延々と2時間ほどかけてちょっとずつ食べる。
ぐつぐつ煮続けるというようにしてしまわなければ、時間がたっても、問題なくおいしく食べられる。

水炊きのタレは、醤油にレモン汁、青ネギ。
菊正宗は常温。
熱燗のほうがおいしいが、燗をつける手間を考えると、これでほとんど問題ないです。
昨日は3合。

蛇足だが、青ネギの保存について。
青ネギ一把を一人で食べるには、1週間や2週間は平気でかかるわけで、それをどうやって保存するかが問題になるのだ。
青ネギは切ってしまうと、1週間もたたずにダメになってしまうし、冷凍すると、使っているうちに霜がついて、くっついてしまう。
僕がいろいろやってみて、これがいちばんいいと思うのは、青ネギを一本ずつ切って、それはタッパーに入れ冷蔵庫に入れて、残りは切らずに、野菜室に入れておくこと。
青ネギは切らなければ、2週間くらいはもつ。
スーパーには、小口切りにした青ネギも売っていたりするが、これはもちろん、切らないものよりずいぶん高いし、たぶん保存のために薬品に浸けるのだと思うのだけれど、その臭いがするので、僕は使わない。

水炊きの残り汁は、朝うどんにして堪能しました。
汁はキッチンペーパーでこし、淡口醤油で味付けする。

2011-01-30

名古屋めし

新年会に呼ばれて、名古屋にやってきた。
行きつけの飲み屋でうまいものをたらふく食い、そのあとはカラオケに行き、朝方までハメを外したわけなのだが、そのほかに今回は、名古屋めしをけっこう食べた。

まずは昼過ぎに名古屋に到着し、昼ビール。

つまみは手羽先。

スパイスのピリっときいた、甘辛いタレに漬け込んだ手羽先を揚げたもので、これがあると、ビールがいくらでも飲める。
名古屋は鶏料理にかんしては、本場中の本場なわけで、これもその一つということなのだろうな。

名古屋駅新幹線口の地下街「エスカ」にある「風来坊」で食べたのだが、店を出たら目の前に、「スガキヤ」があったので、ラーメン。

スガキヤのラーメンは、名古屋のソウルフードといわれていて、同行した友人は、これまでにこれを500杯は食べたと言っていた。
500杯というのは、まったく考えられない数字なのだが、スガキヤはだいたい、地域のスーパーのイートインのコーナーにあり、小さなころから親と行き、少し大きくなると友達と行きということを、毎週のように続けていると、こういうことになるらしい。

スーパーにあるスガキヤは、ラーメン一杯380円で、そのほかに甘味がいろいろ揃っていて、またそちらも人気ということなのだが、ここは駅前にあるから、サラリーマンや観光客を相手として、ラーメン中心の、ちょっと違った品揃えになってるみたいだ。
ラーメンは一杯530円、そのかわりチャーシューが、すこし高級になっている。
先割れスプーンが有名なのだが、こちらはふつうに箸とレンゲだった。

塩味の豚骨スープに、かつお系の和風だしがブレンドされているという、ダブルスープになっていて、友人はラーメンというのは醤油味だと思っていたところに、このラーメンが白かったのが、斬新だったと言っていた。

名古屋のラーメンは、塩味か、そうでなければ激辛味が中心で、全国的には主流であるはずの、醤油味が少ない気がするのだが、これはどういうことなのかな。
こってりと甘辛い、味噌味が好きだというのは、醤油味をそれほど好まないということと、つながりがあったりすることなのか。

ラーメンを食べて、喫茶店に入ったら、そこで思わず小倉トースト。
バターをタップリとぬったトーストに、つぶあんがのせられているというものなのだが、これはじっさいたいへんうまく、名古屋以外でほとんど見ないというのが、不思議なくらいなのだ。

日本で菓子パンの王者といえば、なんといってもアンパンなわけで、これはパンとアンコが黄金の取り合わせであることを、たしかに意味しているだろう。
だからトーストにアンコというのも、当然ながらよく合うわけだが、これを名古屋以外で、ほとんど見ないというのは、なぜなのか。
それが広がらない、何かの理由があるということなのか、それともたんに、そこまでやってみたことがないというだけのことなのか。

あんかけスパゲティ。
これもほんとに、名古屋独特の食べ物。
昔ながらの、ちょっと太めのスパゲティーに、赤ウィンナー、ハム、マッシュルーム、玉ねぎ、ピーマンを炒めたものがのっていて、そこにミートソースがかかっている。
このミートソースが、なんとも独特で、ひとことで言えば、いわゆるふつうの、トマト味のミートソースに、カレー味をくわえたというもの。

名古屋の人というのは、ちがったものを足し合わせるというのが、好きなのだよな。
チキンカツなどに、ドミグラスソースとタルタルソースを両方かけるというのは、けっこうふつうの食べ方で、じっさいこれはけっこううまい。

という感じで今回、名古屋めしをそこそこ堪能したわけなのだが、名古屋の店は、やはり店員のオネエちゃんが楽しい。
生ビールを頼むのに、僕がオヤジ丸出しで調子にのって、「ぬあまビールください」というと、若いオネエちゃんだが、「ぬあまビールですね」と、そのまま真似して返してくる。
「とぅえばさき、ください」というと、「とぅえばさきですね」。

喫茶店のオネエちゃんに、「いや小倉トースト、おいしいですね」というと、「ありがとうございます」と、ここまでは日本全国、どこの店員も言うと思うが、僕を県外の人間であると見たのだろう、「ぜひまた名古屋にいらしてくださいね」と重ねてくる。
こういうやりとりを重ねることで、名古屋の人は、濃い人間関係というものを、つくっていくということなのだろうな。

2011-01-29

さわら塩焼き、ピーマンとじゃこの炊いたん

ミニマル料理」ということば、じっさい僕が考えついたことはたしかなのだが、グーグルで検索してみたら、ほかにも使っている人が、2件ばかり見つかった。
こちらの人は、ミニマルというのを「粗末な」という、ちょっと自虐的なニュアンスで使っているみたいなのだが、もう一人、こちらの人は、僕とほぼ同じ考え。
いるものなのだな、同じことを考える人って、やっぱり。

昨日はグルメシティ、何の特売の日にも当たっていなくて、そういう場合、特売をやっている別のスーパーへ行くという考え方も、当然あるわけなのだが、だいたい寒くて、自転車にすら乗りたくなく、遠くのスーパーへ足をのばす気にならないということもあるが、特売をやっていない日のスーパーというものは、いつもはあまり買わないようなものを、試してみるいい機会にもなる。

昨日はさわら、半身で400円くらいして、ちょっと高いが、おいしそうだったので買ってみた。
これを塩焼きにしようということなのだが、僕はいまのマンションに越してきたばかりのころ、フライパンでこのサワラを焼いて、あまりにおいしくなくて絶望し、やはり魚焼き器を買おうかと本気で悩んだということがあったのだ。
その後フライパンで魚を焼くのは、基本的にはうまいやり方を会得したので、それで果たして、あんなにまずかったサワラが、美味しく焼けるかどうか、試してみたいということもあった。

フライパンで魚を焼くには、1にも2にも、最大のポイントは、フライパンをよく熱してから魚を入れるということなのだ。
油をちょっとしいて、手をかざしてじゅうぶん熱いとなってから、皿に置くとき上になる方を下にして、表裏に塩をふった魚を入れる。

それで、火加減は、僕のIHレンジでは最大。
普通のガスコンロだったら、強めの中火くらいだと思うのだけれど、火が弱いと魚は水気が飛ばず、水っぽく、煮えたようになってしまうのだ。

フタをして、そのまましばらく、こんなに焼き続けて大丈夫なのか、と思うくらい焼く。
魚は肉より、だいぶ水分が多いのだと思う。
肉を焼く感覚だと、これは真っ黒焦げだろうと思うくらいやって、魚の場合はやっとちょうどいいくらいなのだ。

裏も同じように焼いたら出来上がり。

これはですねえ、ふっくらホクホクの仕上がりで、バッチリでした。
皮も焦げ付かず、臭いも気にならず、この焼き方で、基本は大丈夫ですね、やっぱり。

あとはピーマンとじゃこの炊いたん。
ピーマンは以前、どうやったて食べたらいいのか、サラダに入れるか、ピーマン肉詰めにするか、くらいしか思いつかなかったのだけれど、これはわりときちんと火を通すと甘くなって、それが醤油の味と、なんともよく合うわけなのだ。
だからただ塩ゆでして、そのまま冷まして、おかかと醤油をかけて食べれば、じゅうぶんおいしいのだけれど、今日は京都風、というわけでもないかもしれないが、じゃこといっしょに炊いてみた。

ピーマンとじゃこを鍋に入れ、ここにジャバジャバと酒をふりかけ、ヒタヒタくらいに水を張る。
これを火にかけて、フタをして5分くらいか、やわらかくしたければたくさん煮て、かためにしたければあまり煮なければいいわけなのだが、

そしたらここで、淡口醤油を入れる。
ここで注意しないといけないのは、これから汁を煮詰めていくから、くれぐれも、醤油を入れすぎないことなのだ。
醤油をじかにかける場合の量を思い出し、それと同じくらいの量、入れるようにする。

それであとは、フタを外して火を強め、汁がほんのちょっぴり残るくらいまで、煮詰めていく。

やわらかく煮たピーマンって、どうかと思う人もいるかもしれないが、甘くてほっくりして、かなりうまい。
歯ごたえ重視のいまの世の中だが、こういう昔ながらの、やわらかく煮たおかずというのが、またいいものなのだよな。

水でなく、だしを入れれば、もっとうまいに決まっているが、じゃこからだしが出るから、それでじゅうぶん味が尽くし、家ではつくる料理は、ただおいしさを追求するというだけでなく、シンプルなつくり方をするということも、料理の楽しさを味わう上で、大事なことだと僕は思う。

あとは湯豆腐。

タレは醤油にレモン汁、青ネギとおかか。

菊正宗の冷酒を2合。

2011-01-28

生命本紹介 「生物記号論」 (川出由己)


「生きているとはどういうことか」に興味があるという場合、科学において、「生きている」ものをあつかう分野、生物学をひもといてみるというのが、当然王道にはなるはずなのだが、現在、生物学の主流となっている分子生物学について、いろいろ触れてみても、どうも今ひとつしっくりこない。

分子生物学は、生き物を「分子でできた機械」と考えるもので、生き物の最小単位である、目にも見えぬほど小さな細胞というものが、DNAやら、タンパク質やらといった様々な分子が、いかに巧妙に組み合わさることにより、全体として「生きる」ということを実現しているのかということについて、驚くほどたくさんのことを明らかにしていて、細胞というものが、なんともうまく出来ているものだと感心するとともに、それを次々と明らかにしていく生物学者の力量にも、舌を巻く。

しかしそれに触れれば触れるほど、わき起こってくる疑問があり、それについて納得のいく説明が、どこにもされていないということに、気づくことになるわけなのだが、それは「そんなにすぐれた機械を、誰が何のために、どのようにつくったのか」ということだ。

たとえばここに時計があり、時計というものを知らない人が、それを理解しようとする場合、もちろんその時計のフタをあけて、一つひとつの歯車がどうなっていて、それが他の歯車とどのように組み合わさって、全体としてどのような働きをするのもなのかをくわしく調べるということは、当然やってみるべきことなのであるが、それだけでは時計というものを理解したことにはならない。
時計というものが、「時刻をしめす」という目的のためにつくられたものだということがわからなければ、時計の仕組みについて、どんなにくわしく知ったとしても、何もわかったことにはならないし、さらには、もともと時計というものが、こういう形で発明され、それがどのように発展して、今の形になったのかということも、知るべき大事なことだろう。

生き物というものは、これは当然、人間がつくったものではないわけだが、神様がつくったということも、今は信じる人は少ないだろう。
自然によって生み出され、何十億年という長い期間をかけて、育てられてきたものなわけなのだが、それでは自然は、これだけ様々な種類の生き物を、何のために、どのようにつくってきたのかということについて、現在の科学はどのように答えるのかといえば、自然や生き物に目的などはなく、原始の地球にたまたまあった、いろいろな種類の分子が、ただ偶然、よせあつまり、ランダムに変化しながら、まわりの環境にうまく適合し、たくさん増えることができたものは生き残り、そうでないものは死滅するということの繰り返しで、今のような複雑精妙な生き物までが、生み出されたきたのだという。
それは例えてみれば、サルにタイプライターを打たせていれば、いつかシェイクスピアのような、立派な文学作品ができるだろうと期待するようなものであって、常識的にはまったく信じることができない。

シェイクスピアが時代をこえて、あれだけ人を感動させる作品を残せたということは、それなりの想いがあり、それを実現する才能があって、さらにそれをじっさいに努力して書き上げるということがあって、初めて可能だということは、誰もが認めるところなわけだが、現在の主流の科学は、それはあくまで人間についての話であって、自然はそういうものではないという。
自然には目的や思い、意思や努力などというものは、いっさい存在することはなく、ただ偶然生みだされた原因が、環境の作用を受けながら、ある結果を導きだすだけであると、言うわけなのである。

科学はもともと、キリスト教に対抗し、キリスト教が、すべては神が造りたもうたと言うのにたいして、そうではなく、神ということばを抜きにして、真実を明らかにしようというところから生まれたものだから、目的とか意思とか、そういうものについて、過敏に反応するというのは、わからないこともないのだが、しかしそういうものをまったく抜かして、これほど複雑精妙な分子の機械が、どんなに長い期間があったとしても、ただの偶然の結果として出来上がってくるというのは、素朴な常識的な感覚からすれば、ちょっと理解するのは難しい。

しかし科学者のなかにも、じつはそのように考えている人もいるのであって、この本の著者である川出由己もその一人。
川出は63歳の定年まで、京都大学で免疫について研究していたが、そのあいだずっと、生き物をただ物理的な機械が、偶然の産物として生み出されてきたと考えることになじめず、大学を退官後、それでは生き物を、どのように理解したらいいのかということについて、自分の頭で考え始めた。

いろいろな本や論文を読み、人の話を聴くうちに、ある日出会ったのが「生物記号論」。
記号論というのは、人間のことばのふるまいをもとに、それを抽象し、一般化したもので、生物記号論は、生き物もただ物理的な側面ばかりでなく、記号的な側面をもつと主張する。
目的や意思をもち、主体的なふるまいをするものであると考えるものなのだ。
もちろんこれは、主流の生物学とは、真っ向から対立するものであって、生物記号論を真剣に研究する人は、ほんとに少数派であるわけなのだけれど、川出は十数年にわたって、自分の頭で考え続け、その末にまとめられたのが、この「生物記号論」。

これはまったくよくできた本で、まず書かれている日本語が、とても平明でわかりやすい。
学者の書いたものというと、どうしても難しく、わかりにくくなってしまいがちだが、この本には微塵もそういうところがない。
もちろんマンガや雑誌を読むのにくらべれば、たしょうの骨は折れるが、「生きているとは何か」を真剣に考えたいと思っている人であれば、専門知識のまったくない、ずぶの素人であったとしても、最後まで読み通すことができるようになっている。

内容については、まったく納得ができる。
生き物が記号という側面をもつということについて、これだけの根拠をしめしながら論じられれば、ふつうなら誰でも、まったくその通りであると、思わざるを得ないだけのものとなっている。
議論に飛躍したところもない。
一歩一歩ていねいに、踏み外さぬようゆっくりと進んでいく。

著者の結論は、「生き物はすべて、心の次元をもつ」ということだ。
それは現在の一般常識からすれば、ちょっと奇妙な感じはするのだが、一般常識から反することが、なにもまちがいであるとはかぎらない。
相対性理論や量子力学が、どれほど一般常識と反する理論を打ち立てたのか、思い出してみるがよい。

この本は、現在の主流の生物学がまったく無視する、しかしなくてはならぬ重要な側面について、現時点で望みうるかぎり、もっともわかりやすく、そしてバランスよく、書かれたものである。
「生きているとは何か」を知りたいと思う人には、専門家であるとないとにかかわらず、必読の書であることは疑いがない。

ミニマル料理のすすめ。(鶏もも塩焼き)

鶏もも肉にただ塩をふって焼いただけというものは、料理の本にのっているのを見たことがないわけで、おそらくこれは、あまりに簡単すぎて、料理の本にのせる価値がないということなのだろう。
じっさい僕も、これを料理と呼ぶには、ちょっと気がひける。
しかしこの鶏もも塩焼きに、青ねぎとレモン汁をふりかけただけのものを、週に一度のペースで食べ続けている僕の経験によれば、これはまったく飽きることがなく、食べるたびに心の底からうまいと思い、週にいっぺん食べるというのも、べつにそう決めているというわけではなく、一週間くらいたつと、これを食べずにはいられなくなるということなのだ。
まあ僕が、20代のころ毎日のように焼き鳥屋に通い、そのたびに焼き鳥の塩という、これにほぼ似たものを食べ続けたおかげで、おそらく僕にとって、これが食べ物の基本として刷り込まれてしまっただろうということを、割り引いて考えたとしても、これだけ食べてそのたびうまいということは、これはじっさいにうまいのだ。

スパイスをきかせたり、トマトのソースをかけてみたり、それはそれで、もちろんいいと思うが、一人暮らしの人で、自分も料理をしてみようかなと思って、まあ当然そういう場合、料理の本を買って、いろいろやってみることになるのだと思うが、鶏もも肉というものは、そうやっていろいろ手をかけないとおいしくならないと思ってしまって、そうするとスパイスやら、トマト缶やら、買ってみたりするわけだ。
だいたいスパイスなどというものは、一回使ったらそれきり使わず、台所の肥やしになるというのがオチなわけだし、トマト缶だって、一人分だと一度でぜったい使い切れない。
そうすると、残りは冷蔵庫で腐らせてしまうということになるわけで、さらにこのチキンソテーに、つけあわせにニンジンとブロッコリーなどと書いてあったとして、そのレシピ通りにニンジン一本とブロッコリー一把を買うと、それもそのまま、余らせてダメにしてしまうことになる。
そんなことをしているうちに、一人暮らしのナイーブな男性は、やはり料理は面倒くさい、自分ひとりのために料理をつくるのは効率が悪いと思ってしまって、外食にもどってしまうのだ。

そこで僕は、「ミニマル料理」というものを提案したい。
これは僕の造語だが、「ミニマル」というのは、「必要最小限」という意味で、音楽や芸術、建築などで、「ミニマリズム」といって、装飾を取り払い、必要最小限の形式を追求するという運動があったりするわけだが、料理にだって、そういう考え方があってもいい。
料理の本が、本の見栄えをよくするために盛り込む、不必要な装飾をとりはらい、必要最小限の料理の姿を追求する。
まずは考えうる最も単純なやり方で、料理をしてみて、それでうまければ、それでよし。
もしイマイチだったら、その時点で初めて、もう一手間かけてみる。
家族がいたりすると、「なんだよ、また同じものかよ」とか、「こんなしょぼいものじゃなく、すこしは気をきかせよ」とか、言われてしまったりして、そういうことにはなかなか挑戦できにくいわけだが、その点一人暮らしの人こそが、思う存分、それを探求できる、恵まれた環境にいるわけなのだ。

ただこれには、ちょっと注釈が必要なのだが、ミニマル料理は「手抜き料理」とはちがう。
いや結果として、手間はかけないということだから、同じものになるのかもしれないが、「手抜き」というと、どうもことばの感じが、マイナスのイメージがあってよくないし、じっさいほんとは必要なのだけれど、あえて省略する、というニュアンスがある。
ミニマル料理はそうじゃなく、必要のない手間をはぶき、シンプルな料理の姿を追求するという、前向きな姿勢だ。
それこそが本来、毎日食べても飽きない、日常食のあるべき姿なのだ、という、ちょっとした主張も含んでいたりする。

それから、ミニマル料理は「粗食」ともちがう。
べつに健康に気をつかって、何かを我慢して、からだにいいものだけを食べることを心がけよう、ということではない。
脂身上等。
好きなものはガンガン食べるが、そのとき、いらない手間はかけない、ということだ。

これどうでしょうか。
一人暮らしの人、自分もやってみたいという方は、ぜひいっしょに探求してもらえたらと思います。

とずいぶん熱く語ってしまいましたが、鶏もも塩焼き。

これはやり方、何度も書いているけれど、このブログは今日初めてこれを見ている人もいるわけなので、同じことでも何十回でも書くわけなのだ。
前から見てくれている人、ごめんなさい。

鶏もも肉は、表裏に塩をすり込み、この塩の量は、表裏それぞれ、4本の指でひとつまみ、というくらいなのだが、何度かやっているうちに、だんだん加減がわかってくるのだ、これを油をちょっとしいた冷たいままのフライパンに、皮を下にしてのせ、弱火にかける。
そのまま時間にして15分か20分、ちょっと持ち上げてみて、皮がこんがり茶色で、これ以上焼くと黒く焦げそうだな、というくらいになったら、ひっくり返す。
そして今度は10分くらい。
そうやって弱火でやると、皮はパリパリ、中はモチモチの、最高にうまい焼き加減になる。

ここでポイントは、焼き上げた鶏もも肉を切ってみると、ときどき赤いことがあるのだ。
しかしこれは、あまり気にしないことが大事。
鶏肉は弱火で火を通すと、火が通っていても、赤いままのことがある。
また肉は焼きすぎてしまうと、とたんにモソモソして、まずくなるから、焼き過ぎるか、焼き足りないか、どちらかを選ぶとすれば、焼き足りないことを選ぶことが、うまいものを食べるという観点では、正しい。
鳥インフルだって、人間には感染しないわけだし、そんなに心配することないと思う。

これは青ねぎとレモン汁をかけて食べる。
わさびとか、柚子胡椒とかを添えてもいいが、添えなくても何の問題もなくうまいから、僕は添えない。
レモン汁は、ポッカレモン100が、安いし日持ちもして便利。

白菜のおしたし。
白菜はほんとに安くて、グルメシティでは、1/8カットというのが48円で売っていて、これは水菜が198円することを考えると1/4の値段なのだが、一人で食べるにはちょうどよい量。
塩をふった湯で好きなだけゆで、水にさらして冷やして、よくしぼる。
おかかと醤油をかけて食べる。

あとは湯豆腐。
だし昆布を入れ、水を張って、コンロで温める。
湯豆腐は、豆腐を煮るのではないのだ。
基本は温めるだけ。
豆腐は煮ると、かえってまずくなってしまうからな。

いっしょに昨日あまったタケノコ水煮も入れてみた。
タケノコは、昨日は5ミリくらいの厚さに切ったのだが、今日はもっと薄くしてみたら、鍋にもバッチリ合うことがわかった。

タレは醤油にレモン汁、青ねぎとおかか。
ポン酢でもいいのだが、それより醤油と酢をべつべつにしたほうが、好きな味にできてよい。

酒は菊正宗の冷酒。
昨日も2合で満足。

2011-01-27

たらちり鍋

昨日は、ほんとはおととい買った鶏もも肉が冷蔵庫に入っていて、それを焼いて食べるつもりだったのだが、スーパーに行ったら北海道産の生たらのアラ、150円で売っている。
しかも400~500円で売ってる切り身より、量が多かったりするわけだ。
こういうのを見てしまうと、僕は買わずにはいられなくなってしまうわけで、これで昨日はちり鍋をすることにした。

いっしょに入れる野菜だが、白菜、豆腐は当確として、先ごろ読み終わった「檀流クッキング」に、ちり鍋を初めとして、いろいろな鍋に、タケノコを入れるというのがあって、それはどうなのかと思っていたこともあり、中国産のタケノコ水煮、198円、これを入れてみることにした。

アラだからやはり、さっと湯通しして、水で洗う。
あとはだし昆布をしいた鍋に材料を全部入れ、多めの酒と水を張り、火にかけるだけ。

タレは醤油にレモン汁、薬味は青ネギと、もみじおろしといきたいところだが、面倒なので、大根おろしに韓国唐辛子。

というわけで食べてみたが、たらはもともと淡白な魚で、アラだからもっと脂がのっているかと思ったら、これも意外に淡白。
ふつうにうまかったが、やはり僕は、まだ若いのだな、だいたい豚バラや鶏ももが好きだというくらいなのだから、魚もクセがあっても、もうちょっと脂っこいもののほうがいいですな。

タケノコは、悪くはなかったが、これもこういう、だしに味を付けない鍋には、それほどよいものでもなかったかも。
切り方がちょっと、大きすぎたのかな。

とたしょう疑問符がつきながらも、これを肴に菊正宗の冷酒2合、おいしくいただきました。

2011-01-26

月見うどん

昨日は夜中におじやなど食べて、しかもちょっとだけ食べて残りは朝にでも食べようと思って食べはじめたにもかかわらず、あまりのうまさに残らず完食、これは太るなと思っていたら、今日は昼になってもまったく腹が減らず、3時ごろになってようやく小腹が空いてきたので、うどんを食べた。
人間のからだって、よくできてるものだ。
だいたい現代人は食べ過ぎなのであって、そんなに一日何度も食べなくったって、人間生きていけるものなのだ。

このごろ僕は、1日2食になっていて、だいたい夜中まで飲み食いしているものだから、朝起きてもまだ腹など減っておらず、オレンジジュースと紅茶、それにチョコレートでとりあえず頭を目覚めさせ、昼過ぎまでいろいろやる。
それでようやく腹が減るから、食事して、だいたいビールも飲んで、そのあとちょっと昼寝。
昼寝から覚めたら、また9時ごろまでいろいろやって、あとは風呂に入って、酒を飲んで、寝るという、そういう周期で一日がまわっている。

会社に勤めていたころは、自分が食べたいか、食べたくないか、などということより、朝だから食べる、昼だから食べる、ということで一日が過ぎていっていたわけだが、こうやって一人になって、たいした制約もなく、生活するようになってみると、自分のからだというものについて、目が向くようになっておもしろい。

このごろは、がまんするということが、マイブームになっていて、食事にしても、ほんとに腹が減るまでは食べない。
腹が減っても、さらにがまんして、しばらく食べない。
そうすると、腹が減ってる自分にたいして、もう一人の自分が、「えへへ、腹が減ってるのか、まだまだダメだぞ、ぐふふふ」などと、いじめてみたりもするようになって、ちょっとした一人SMプレイを楽しんでいる。

タバコも同じで、吸いたくなってもすぐには吸わない。
一人SMプレイをして、しばらくがまんさせていると、そのうち吸いたかったことを忘れてしまって、それを何度かつづけると、吸わずに数時間がたっていたりする。
しかしそうやって、ちゃんと腹が減ってから食べ、吸いたくなってから吸うようにすると、いざ口にした食事やタバコがほんとにうまいわけなので、それでいいのだ。

ちなみに最近は、二口三口吸って満足してしまったタバコを、押しつぶして消さずに、火種だけきれいに落として置いておき、つぎにはそのシケモクを吸うという技もおぼえて、タバコ代の節約が、さらに加速するということになっている。

うどんはだしパックでとっただしに、淡口醤油で味をつけ、そのだしで冷凍のうどんを温めて、という具合につくるのだが、ご存知の方も多いと思うが、冷凍のうどんというのは、かなりうまい。
グルメシティで売ってる、3個入り158円というやつでも、下手なうどんやよりよっぽどうまいし、これが加ト吉のうどんだったりすると、よっぽどの店じゃないと、かなわないのじゃないか。
うどんというのは冷凍するのに適しているということだろうと思うが、ゆであげて水で冷やした、その瞬間の、モチモチとした状態が、そのまま保存されている。

僕が外であまりうどんを食べないのは、そうやって家で十分うまいやつが食べられるからということもあって、じっさい以前広島のうどん屋の店主は、昔は手打ちをしていたけれど、冷凍ものを食べたらあんまりうまくて、バカバカしくなって手打ちはやめたと言っていた。
それでその店主は、既製品ではうまく味が出せないラーメンを、自分でつくるようになったのだけれど、うどん屋というのはたしかに、こうやって世の中の技術がどんどん進歩してくると、ずいぶんと厳しいことになっているのだろうな。

絶対おすすめのキムチチゲレシピ

僕はキムチチゲをよく作るのだけれど、これは以前僕が韓国にホームステイしたときのホストのオンマ、64歳のベテラン主婦がつくっていたやり方をおぼえてきたもので、日本の韓国料理屋などではまず食べられない、絶対におすすめのやり方なのです。

キムチチゲというと、イメージとしては、辛く味付けした鍋にキムチを入れる、というものだと思うのですが、これはそうじゃなく、煮込み料理なのだ。
しかも味付けは、コチュジャンなどは一切入れず、キムチと塩だけ。
キムチは食材であると同時に、調味料でもある。

以前韓国人の友達に、「キムチクッパ」という食べ物があると聞いたことがあって、ただのクッパやら、カルビクッパやらなら聞いたことはあるけれど、キムチクッパというのは初めて聞いたから、どんなものかと思ったら、要はキムチだけが入ったクッパだということで、貧乏人が食べるものなのだとか。
日本でいえば、日の丸弁当みたいなものなのだな、たぶん。
日本ではキムチというと、ずいぶん高いものになるのだけれど、韓国ではキムチは自分で漬けるし、最も安い食べ物ということなのだろう。
それをそのまま食べるのはもちろんのこと、炒めたり、煮込んだりして、様々な形でつかうのだな。

キムチは今回、近所にある韓国食材を売ってる店で買ってみた。
1キロ入りのカットキムチが700円。
汁もたんまり入っている。
スーパーで売ってるキムチも、けっこうおいしいのがあると思うが、100グラム100円くらいはするし、だいたい汁が、あまり入っていない。
料理につかうには、このキムチの汁が、おいしさのポイントになるわけなのだ。

肉は豚バラのブロック肉。
西友がえらいのは、この豚バラブロック、100グラム97円でいつも置いてる。
500グラムだと多いので、半分つかって、あとは冷凍庫に入れておく。

これをザクザクと、ちょっと厚めに切って、鍋にならべる。

ここにキムチをこんもりとのせ、汁があれば、それをたっぷりとふりかける。
このキムチが、味付けのすべてになるわけなので、ケチらずたっぷりつかえば、当然味はおいしくなる。



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これをこのまま、10分か20分、放置するのだが、肉に下味をつけるという意味があるのだと思う。
韓国では肉を料理につかうとき、かならず汁に浸け込み、しっかりと味をつけるのだよな。
韓国というのは肉食の歴史が、日本よりずいぶん長いから、肉の扱い方については、やはり一日の長がある。

つぎに鍋にフタをして弱火にかけ、やはりこれも10分か20分、蒸し焼きにする。
肉に火をとおして、臭みをとるということと同時に、キムチの白菜にしみ込んでいたおいしい汁が全部出てくるから、この汁でさらに、肉にしっかりと味をつけるという意味もあるのだと思う。

そしたらここに、水を入れる。
この水の量は、鍋というにはすこし少ないかな、というくらいの加減にしておく。
もしあとで、やはり足りないということになれば、いつでも足せるわけなので、味付けがキムチだけなので、水が多すぎると味が薄まってしまうのだ。
それでまたフタをして、30~40分、肉がやわらかくなるまで煮る。
これだけ火をとおすと、キムチはトロトロになるわけで、それがなんともたまらない。

最後に塩で味をつけ、好きな大きさに切った木綿豆腐を入れ、ひと煮したら出来上がり。
もし味が薄かったら、コチュジャンや味噌、ニンニク、ショウガ、などで味を足してもいいのだが、そうでなく、シャバっとしたままの味で食べるというのも、いかにも日常食という感じがして、僕は好き。
最後にゴマ油をたらし込んでも、悪くないと思うのだが、僕はいつも入れずに食べるが、それでも十分おいしい。

これにご飯を入れて、おじやにすると、また死ぬかと思うくらいうまいわけで、昨日は菊正宗の冷酒、2合飲んで、シメにおじやにしようと思ったら、この辛い味のおじやが、また日本酒になんともよく合い、もう一合おかわりしてしまった。
夜の10時から酒を飲み、12時も近くなっておじやを食べるって、肥満対策としてはかなりどうかとは思うけれど、うまいのだから、しかたないのだ。

2011-01-25

料理本紹介 「檀流クッキング」 (檀 一雄)


この本はもう、「いわずと知れた」といっていい、たいへんな名著なわけで、料理について書いた本はあまたあれど、これの右にでるものはないと言いきってしまって、ほぼまちがいない。
サンケイ新聞に昭和44年から毎週一回、約2年間にわたって連載されたもので、作家檀一雄が、一般の主婦にむけて、料理の手ほどきをするという内容になっている。

まず驚くのは、檀一雄の料理にたいする造詣の深さで、家庭の事情で子供のころから、家族のために料理をつくっていたとのこと、カツオのたたきやレバニラ炒めから始まり、寿司やら鍋やら、梅干・らっきょの漬け方、カレーライスも西洋式、インド式、さらにはトンポーローだのパエリアだのボルシチだの、古今東西、あやゆる料理が登場する。
しかもそれらが、通りいっぺんのものではなく、これはまちがいなく、自分で何度もつくってみて、試行錯誤をして、その末、こうしようと結論したのだろうということがはっきりわかる、微にいり細にわたる書き方なのだ。

檀は明治45年生まれ、明治の男が料理人でもないのに、自分で厨房にはいり、これだけの料理をこなしてみせるということが、なんといってもまずすごい。

しかしこの本のほんとのすごさは、そんなところにはないのだ。
檀はこれだけの料理をつくるようになるのに、もちろん料理学校などへ行ったのではない。
自分で食べて、それがおいしいと思ったら、つくり方をきき、自分でつくってみる。
それをひたすら、続けてきたということなのだ。

しかもそれが、都会のコジャレた料理屋などではなく、片田舎の老人がつくるものやら、またさらに日本だけではなく、朝鮮やら中国やら、ヨーロッパ、ロシア、モンゴルなどなど、その土地へ行き、ぶらぶらと歩いて、おいしそうなものがあるとそこに寄り、食べてみて、ということをしてきているのだ。
食べるということについての好奇心が、これほど旺盛な人というのは、ちょっとあまり、ほかにはいないのじゃないかと思う。

さらにだ。
それを文章にするということにあたって、文学者だからといって、こむずかしい単語を並べるなどということは一切なく、料理をめぐる背景などについて、いらぬウンチクをもったいぶってたれるなどということもない。
ただひたすら、自分の手で料理するということが、こんなに楽しいものなのかということを、読む人にたいして、おのずと伝えるような書き方がされている。

調味料の分量を、大さじ何杯などと書くことは、まったくない。
いくらでも、自分の好きなだけ、入れたらいいと書いてあるだけだ。
何度かやってみるうちに、自分の好みの味が決まってくると。
「自由」というのは、ありきたりにつかわれる、手垢のついたことばだが、この本ほどそのことばの意味を、生き生きと伝えてくれるものは、そうそうはないだろう。

僕はこの本を、ずいぶん前にいちど読み、今回あらためて読んでみて、自分が料理するということについての根本的な考え方を、この本から学んでいるということに気がついた。
僕が毎日、へぼい料理を、しかしすくなくとも、楽しみながら、つくることができているというのは、この本のおかげなのだ。

だからもし、料理をするということに興味がある人は、これは絶対読んだほうがいい。
また料理に興味がなくたって、これは読み物として、最高におもしろいし、しかもたぶん、これを読み終わったときには、自分も料理をしたくてたまらなくなっている。
僕のつまらないブログなどを読むよりも、この本一冊を読んだほうが、100万倍いいに決まっているのだ。

この本の最後は、とんでもなく凝ったやり方でつくるビーフシチューなのだが、それを読み終わると、なんともいえぬ感動がある。
それは檀から、ああ、自分もバトンを受け取ってしまったのだということに、はちきれんばかりの笑みを浮かべた檀に、やってみなよと思い切り背中を押されたということに、気付くからなのだ。

豚バラと水菜の鍋

僕は焼いて食べるなら、鶏肉がいちばん好きだが、鍋に入れるなら、なんといっても豚バラ肉なのだ。
牛肉ももちろん、きらいじゃないし、あの甘味のあってやわらかな、上品な味はさすがと思うが、豚肉のちょっとクセのあるところが、僕にはいいんだな。
焼いた豚肉も好きだが、焼いた豚肉は冷めると、ちょっとモソモソして、しかも脂が固まってきたりするから、酒を2時間もかけてチビチビと飲み、そのあいだ料理をちょっとずつ食べる僕としては、焼くならば、冷めても固くなったりしない鶏肉のほうがいい。

鶏肉は鍋に入れるのももちろんいいが、さっと煮た豚バラ肉の、あのプリプリとした歯ごたえはたまらない。
それをシャキシャキの水菜と合わせると、これはほんとに、ベストコンビだと思うのだよな。

スーパーに行って、豚バラ肉が安く出ていると、僕はまちがいなくいつも、買おうかどうか真剣に迷うのだが、昨日はグルメシティで、いつもは高い日本産の豚バラ肉、けっこう安く出ていたので買ってきた。
アメリカ産はずいぶん安いが、やはり日本産のほうが、モチモチしていてうまいのだよな。

水炊きにするか、それとも醤油で味を付けるか、かなり迷った結果、昨日は水炊き。
さっと湯通しした豚肉とだし昆布、それに水菜と豆腐を鍋にいれ、酒をジャバジャバとふりかけて火にかけるだけだから、ほんとに簡単。
昨日は数日前の、鶏の水炊きをしたときの残り汁が冷蔵庫に入っていたから、それを使ってみたのだけれど、ラーメンでも鶏と豚の両方のだしをつかったりするし、おいしくなるかとおもったら、かえって味がくどくなってしまって、ただ昆布だけいれるほうがよかった。

湯が沸騰して、アクでもとったら、あとはもう火は止めてしまう。
豚も水菜も、火を通しすぎると、歯ごたえがなくなって台無しになる。
その後は、冷めたらまたすこし温めて、というようにしていくと、2時間のあいだ、けっこうおいしく食べられる。
ほんとは小鍋で、食べる分だけ煮るというようにしたほうが、それはいいに決まっているのだけれど、そうすると狭いテーブルに、鍋のほかに、肉や野菜を置いておかないといけないし、しかも僕は、パソコンをパチパチしながら酒をのむので、いちいちまた煮たりするのが面倒くさくて、こういう食べ方をしているのだ。

タレは、醤油にレモン汁、それに青ネギと、おかかまで入れてみたが、鶏のだしで豚肉、それにおかかをつけて食べるというのは、ちょっとやりすぎでした。

あとは昨日買ったスグキ。

冷酒は菊正宗。
昨日も2合。