2010-11-30
嵐 山
豚バラと豆苗の鍋
鍋というのは、何を入れて、どういう味付けにしようが、間違いなくおいしいという、なんとも凄いヤツなわけだ。それが何故なのかということについては、このブログでも去年から延々と、幾度にも渡って考察を行い、わかったと思ったら、わからなくなり、ということを繰り返していて、こんなに簡単な料理なのに、鍋というのはなんと奥の深いものであるのかと、僕も驚くばかりなのであるが、今これを書き始めて、このことについて改めて考えてみて、また一つ、新たな理論を発見した。
「鍋には出来上がりがない」のではないか。
そもそも鍋とは、いつ出来上がるものなのか。奥さんが台所で材料を切って皿に盛り合わせ、食卓に並べる。これはもちろん出来上がりではない。ご主人が材料を鍋に入れ、程よく煮えたところで「さあみんな、食べなさい」と言うとして、その時が出来上がりであると思いたくなるのだが、もし子供が「お父さん、大根まだ固い」と言ったとする。そうするとその答えは当然、「じゃあ大根はもう少ししたら食べようか」ということになって、さっきのは実は出来上がりじゃなかった、出来上がりはまだこの先にある、ということになるわけだ。
具を全部食べてしまっても、シメの雑炊があるから、鍋はまだ出来上がっていない。そうすると、雑炊が炊けて、ようやく鍋は出来上がることになるわけなのだが、その時にはすでに鍋の主要部分は終わってしまっているわけだ。
「うまい」とか「まずい」とかいう評価は、出来上がったものに対してされるものだろう。いつまでも出来上がらないものについては、評価は下せないのであって、そうすると、鍋を食べながら発せられる感想は、鍋に対する評価ではなく、自分の空腹が満たされることに対する、生理的な快感の表れなのであって、それが「うまい」ということばによって表現されていると。そういうことなのではないでしょうか。
と朝からまた下らないことに頭を使ってしまった。
そういう何をどうやってもうまい鍋だが、その中でも僕は、豚バラ肉の鍋が好きなのだ。これは単に僕が豚肉が好きだから、ということなのだが。
それで昨日は西友で、それほど安くはなかったのだが、国産豚バラ肉の切り落としを買って、それにいつも通り水菜を合わせようと思ったら、目に入ったのが豆苗なのだ。
あと昨日は、醤油も入れすぎた。醤油は、なんとなくたくさん入れれば、おいしくなるような気がしてきてしまうものなのだが、それは間違いなのだ。調味料はすべて直感で入れるから、時々直感が狂って失敗するが、失敗すればまた反省して直すようになるから、それでいいのだ。
豆苗は、さすがエンドウ豆の新芽というだけあって、エンドウ豆の味がして、おいしかった。でも安いと思ったのは気のせいで、売り場で手に取ったときには、水菜と変わらない大きさと重さがあったから、量も変わらないだろうと思ったのだが、だいたい下には水を含んだ分厚いスポンジが敷かれていて、さらに全体の三分の一くらいは、根の部分ということになって切り落とさなければいけないから、食べられるのはほんのちょびっとになってしまい、水菜一把の半分くらい。けっきょく値段は変わらない、ということなのでした。
2010-11-29
かれいはうす沙羅
外観、店内ともに、落ち着いた、品のいい造り。「おばちゃん」は一度ちょろりと顔を見せただけで、あとは厨房で料理をしているようだったが、娘さんなのか、若くて愛想のいい、丸顔のかわいいオネエちゃんが、心づくしの給仕をしてくれる。
味は、ひとことで言うとボンカレー系。レトルトカレーみたいに安っぽいという意味ではなく、系統として、ボンカレーのような味がするという意味。世の中には、ボンカレー系のカレーと、ボンカレー系ではないカレーとがある。何をどうしたら、こういう味になるのかよくわからないが、わりとあっさりしていて、辛味はけっこうあるが、スパイスの風味は弱め、酸味がけっこうあるのと、あとたぶん牛肉のだしがたっぷり入っているのじゃないかと思う。
カツは薄めの肉をかりっと揚げてある。全体としてさっぱりしていて、よくチェーン店のカレーを食べた後のように、胃がもたれるなどということは全くない。
普通といえば普通のカレーだが、店全体として、おばちゃんのもてなしの気持ちが溢れているのだな。
かれいはうす沙羅 (カレー / 二条駅、二条城前駅)
昼総合点★★★★☆ 4.0
湯豆腐、鶏もも塩焼き、水菜おしたし
湯豆腐は今までやったことなかったのだが、簡単にいうと冷奴の冬版なのだ。意味不明。要は単に、豆腐を温めて食べるということなのだな。だからあまり難しく考えずに、温めた豆腐を冷奴と同じタレと薬味で食べれば、十分うまいわけだ。
豆腐は煮るのじゃなく、あくまで温めるだけ。煮ちゃうと変になるからな、豆腐。だから火加減は、沸騰させないように、とろ火にしておく。こないだ一人用の土鍋を使ったのだが、かさが浅くて豆腐が水から顔を出してしまって、そこが乾燥して固くなってしまうということが起こった。だから昨日は、普通の片手鍋。
上の写真では水を豆腐がかぶるくらいに張ったのだが、そうすると食べているうちに豆腐が減って、かさが減ると水面が下がるし、さらに水分は蒸発もするので、あとで水を継ぎ足さなくてはいけなくなったから、水はケチらず上までたっぷり張ってしまうのが正しいと思う。
だし昆布をいちおう入れたが、入れなくても不味くはないのじゃないか。料理の本に書いてあることとか、全部その通りやらないといけないような気がするが、やってもやらなくても大して変わらないことも多いのだ。
何より料理の本を見てしまうと、面倒くさくてやるのが嫌になってしまう場合がある。だったらそんなことは、無視したほうがいいのだ。だいたい料理の本というのは、自分の本に特徴を出そうと思って、余計なことが書いてあるに決まっているのだ。
だし昆布は、純粋にだし昆布専用というものと、食べてもおいしいものとがあって、食べてもおいしいだし昆布は、最後におかずにもなって一石二鳥。
肉はともかく、焼き過ぎか焼き足りないか、どちらかを選ぶとしたら、焼き足りない方が絶対うまい。逆に魚は、焼き足りないと生臭いから、焼き過ぎの方がいい。
2010-11-28
広 島
今度広島に用ができて、行くことになった。広島には1年8ヶ月いたが、ブログを本格的に始めたのも、食べ歩きを始めたのも、広島にいた時なのだ。
広島へ行って、まずはお好み屋を色々回ってみた。広島にはお好み屋が、市内で2,000軒、県内で3,000軒あるとのことで、実際商店街などでは全くない、住宅地の裏通りにも、けっこうな頻度でお好み屋を見かけ、それらは曲がりなりにも、経営が成り立っているわけだ。これはお好み屋というものが、これだけたくさん広島にできた経緯が、戦後原爆でご主人を亡くした未亡人が、小さな子供を抱えながら自宅の一角を改造して始めた例が多いということと、関係あるのだと思う。地域の人達がみんなして、そういう未亡人を応援するために、お好み焼きを買ったのだ。
おあばちゃんがやってる店が多いというのも特徴だ。それから居酒屋はもちろん、焼肉屋や寿司屋、喫茶店などでも、きちんと本格的にスープを取った、けっこううまいラーメンを出していたりする。広島の人に聞くと、ラーメンというのはあまりに当たり前すぎて、それが何ら宣伝に値いする、特別なものとは思えないと言う人が多いのだが、実際西日本というのは、ラーメン文化が地域に根付いている感じがする。逆に考えてみたら、その分、うどん・そばの店は少ない気がするな。
ここは今度も行きたいと思ってるのだが、先週連絡してみたけれど、電話に出ない。おばちゃん時々、風邪引いて倒れたりするからな。なんとか僕が行くまでに、回復していてほしい。
2010-11-27
法然院、ますたに
山寺のような素朴な雰囲気。南禅寺のように木々の一本一本までを計算し尽くして植えるというのとは、対極にあるとも思える、自然のそのままの姿を大事にしているといった様子。悪いとは全く思わないが、やはりまだ僕は修行が足りないのだな。
奈良へ行っても思うことだが、何物をも主張しない、あるがままの自然の調和というものは、ヒレよりロース、クラッシックよりハードロックが好きな僕にとって、どうも退屈なもののように感じられてしまう。あと10年くらい経てば、僕もそういうものが好きになるのか。それとも死ぬまで悟れなかったりして。
だからもしかしたら、このラーメンには隠し味として、味噌が使われているんじゃないか。ますたには背脂やら唐辛子やら、変わったものを入れることで味を作るところがあるから、醤油ラーメンに味噌を入れると考えたとしても不思議じゃない。ほんとのところはわからないし、聞いても教えてくれるわけないが、僕はそれで納得した。
アラ鍋
アラっていうのは魚を三枚に下ろすときに、切り落としてしまう部分なわけだが、骨の近くや腹の部分で、脂が乗っててやわらかくて、味的には切り身の部分よりむしろおいしかったりするのに、半端者の扱いを受けて値段は安く、僕はそういう、人が捨ててしまったお宝を拾うというのは大好きなので、よく食べるのだ。
なのだがこの冬、鍋を多投するようになり、アラというのはなんとなく、煮物ならともかく、鍋には合わない感じがして、あまり使っていなかったのだが、考えてみたらアラ汁というのがあるじゃないか。というわけで昨日、三条商店街の西友で、解凍物のアンコウが399円という信じられない値段で出ていたのには目もくれず、ぶりのアラを買ってきて、味噌仕立ての鍋に入れてみたというわけだ。
アラはさっと熱湯に通すのだが、どうやっているのかと思う人がいるからもしれないから、写真を載せてみる。
2010-11-26
南禅寺
方丈の庭もまたすごかった。
暗い廊下を曲がると、いきなり広がる鮮やかな風景。