2011-12-02

鍋がうまいのはなぜなのか。
「鶏の水炊き」「牡蠣のソテー」



「鍋のよさ」などというものは、あらためていう必要もないようなものなのだけれど、しかしこうやって鍋を食べていると、いいものはいいのはまちがいない。

鶏の水炊きなんて、まったく簡単にできるもので、鍋に昆布だしを煮立てて、そこに酒をたっぷり注ぎ、材料をいれるだけなわけだけれど、それをポン酢で食べるのは、なんともうまい。

これは日本人だからなのかと、ちょっとおもったりしなくもないが、いやしかし、べつにそんなことはないだろう。世界の多くの国に、ただ煮て、調味料をかけたりつけたりして食べる料理はあるのだから、これが料理の原型の一つであるといっても、差し支えないようなものなのだろう。

料理はやっぱり、まず第一に素材が大事だろう。季節のものや、新鮮なものは、ほとんど手をかけなくてもうまい。刺身などその典型だ。魚をただ切って、醤油をつけただけで食べるなどというのは、究極のシンプル料理なわけだけれど、魚が旬で脂がのって、新鮮でありさえすれば、これほどうまいものはない。

漁師の料理も、手のかからない、単純なものが多いけれど、それも魚が獲りたてだから、うまいと思えるということだ。新鮮じゃない魚を、そうやって手をかけずにたべてしまったら、箸にも棒にもかからないものになってしまうだろう。



しかしもちろん、あれこれやってみたいとおもうことは、人間の性のようなものだ。どんなにうまいものだって、毎日食べていれば飽きる。うまければ、飽きずに食べ続けられるのだったら、どんなに簡単かとおもうけれど、残念ながら人間は、そのようにはできていない。そこでいろいろ工夫することにより、さまざまな料理法が開発されるに至るわけだ。

開発された料理法は、もちろんひとつひとつが、人間の工夫の結晶であり、素晴らしいものではあるけれど、でもやはり、時々は、原点にもどってみたくなるものだ。材料をただ煮て食べることの良さを確認することで、ふたたび前へ進む力が湧いてくる。


池波正太郎流の鶏の水炊きは、鶏は安い細切れ肉。それに長ネギ。豆腐。それから細切りにしたニンジン。白菜や春菊など、いかにも水炊きに入れそうなものは入れない。この4品は、おそらく池波が考えぬき、試行錯誤のすえ、たどり着いた結論であり、適当に選ばれたものではない。

それがどのような思考経路をたどったものなのか、わからないのだけれど、それを想いながら、水炊きを食べるのもま楽しい。




中身を食べ終わったら、その汁をどのように扱うかが、鍋料理の肝になる。池波はこの汁に、塩コショウをふり、白めしにかける。昨日はうどん。鶏肉や、長ネギ、それにニンジンのだしがたっぷりと出た汁は、この世のものとは思えぬほど、うまい。

池波が水炊きに、白菜や春菊を入れず、代わりにニンジンだけを入れるところや、またこのだしをご飯にかけるのに、醤油をつかわず、塩とコショウで調味するところなど、なんとはなしに、洋食のセンスを感じるところだ。

水炊きなど簡単な料理だから、それをどう扱おうと、同じようなものだとおもうところだが、このちょっとしたところに、それを考えぬいた人のセンスが、見え隠れするというのが、楽しい。




魚屋でおととい買った牡蠣が、まだ半分ほど余っていたから、これをどうやって食べようか、いろいろ考えた末、広島の友人が教えてくれた、ソテーにしてみることにした。

やはり牡蠣は広島が本場だから、広島の人たちがどうやって牡蠣を食べているのか、知りたい気持ちになる。

広島の人は、牡蠣フライも、人気の食べ方の一つのようなのだけれど、このソテーは、フライのように油をたくさん使う必要がなく、手間がかからないし、またヘルシーだから、その友人は、フライではなくこのソテーを、よく作って食べるのだそうだ。




牡蠣は水で洗い、その水をよく拭いとったら、コショウだけふる。塩は、牡蠣にすでに塩味がついているから、ふらなくてよい。


これを小麦粉を入れたビニール袋に入れて、よく振って、牡蠣に小麦粉を、まんべんなくまぶしつける。牡蠣が袋のなかでくっつき合ってしまうと、その部分に小麦粉がつかなくなるから、牡蠣を叩くようにしながら、ビニール袋をふる。


バターと、それにバターだけでは焦げ付くから、オリーブオイルをフライパンにひき、牡蠣を焼く。途中であまり触ると、小麦粉の衣がはがれてしまうから、あまり触らないよう注意する。

ポン酢と、みじん切りしたニラか、または青ネギ、それに七味唐辛子をふって食べる。

なるほど、これは手軽にできるのに、さっくりとした歯ごたえが、たいへんうまい。



牡蠣で日本酒をのみながら、水炊きをつくり、それを食べたら、最後はシメのうどん。これでかれこれ、食事の時間が2時間ほどもかかるのだが、それがなんとも至福のひとときとなるのだから、時間の無駄だなどと、おもってはいけないのだ。