2011-09-30

あっという間に出来上がり 牛肉とゴボウのしぐれ煮


家の近くにあるグルメシティは、毎週木曜日は「モクモクモッくん」という特売日なんですよね。

そこでいつも、オーストラリア産の牛コマ肉が、100グラム98円とかで出されるのを買うことにしてるんですが、それで何を作ろうか、けっこう考えてしまったりする。

肉じゃがはもう飽きるほど作ったし、韓国風焼肉プルコギも、2回ほど作ったから、違うものが作りたいなと思い、毎週木曜にランチに行くことにしている「ikoi cafe」のママに、

「牛コマ肉があったら何を作る」

と聞いてみたら、

「ゴボウと炊くとか。生姜をきかせて」

とのこと。

「しぐれ煮」ですね。

というわけで、昨日は早速、しぐれ煮を作ってみることにしたのでした。



しぐれ煮とは、生姜を入れた佃煮のこと。元々は桑名で、名産のハマグリをたまり醤油で炒りつけたのが始まりだそうです。

「しぐれ煮」という名前は、江戸時代の俳人各務支考が付けたと言われているそうですが、その由来は諸説があるとか…。

  • 様々な味が、口の中を通り過ぎるところが、時雨(しぐれ)が通りすぎるのと似ているところから。
  • ハマグリの旬が、ちょうど時雨がよく降る時期だから(2月~4月ですね)。
  • 時雨のように、短時間でおこなう調理法だから

以上、Wikipediaより。



いちおうレシピを色々見てみたんですが、炒める方法と炒めない方法があるんですよね。

皆さんどうされるんでしょうか。

炒める意義って、どこにあるんでしょう。

肉じゃがにしても、炒めずに作っても、まったく問題ないですよね。

その辺がよく分からないということで、昨日は炒めない方法を採用。


カップ1の水で、まずは水にさらしたゴボウ、それに千切りの生姜を先に煮ておく。

牛肉って、あまり煮てしまうと固くなりますもんね。


そこに酒、みりん、砂糖を入れ、牛肉を入れて、煮ながら味を見て、醤油を足していく。

強火でガンガン炊いて、煮汁がほとんどなくなり、焦げ付く寸前までいったら出来上がり。

これほんとに、あっという間にできちゃいますね。



調味料の量をどうしたらいいかと思う人もあるかもしれませんよね。

僕のやり方は、まず酒はドバドバとたっぷり入れる。

酒の量は、肉や魚を炊く時には、多ければ多いほどおいしいですよね。

ただ塩分の入った料理酒じゃなく、アルコール100%の料理用の清酒か、安い日本酒を使わないといけません。

それからみりんと砂糖を、適当な分量、ジャバジャバ、バサバサ入れる。

そこに醤油を、味を見ながらちょうどいいと思える量まで加えていく。

みりんと砂糖が少なければ、あっさりした味付けになるし、多ければコッテリするという話で、どちらでもお好みしだい、ってことですよね。




昨日はあとは、ナスの塩もみ。


冷奴。


白菜の一夜漬け。


それらの肴をつまみながら、冷や酒を2合。

おいしい晩酌になりましたわ。



ちなみに昼は、「ikoi cafe」のランチ。


鶏唐揚げのタルタルソースがけ。



ikoi cafeには、店に備え付けの週刊文春を読みに行くというのも、目的の一つなんですが、昨日そのトップ記事が、

「日本は遅くとも5年以内に経済破綻する」

というものでした。

日本の国債とか、地方債を合計すると、それが、すべての日本人が持っている資産の合計と、ほぼ同じ額まで来てしまっているそうなんですね。

今のところ、日本の国債は、出すものは全部売り切れているそうですが、遠からず売れ残る日が来る。

まあそれで、大変なことになり、企業がバタバタと潰れ、失業者が街にあふれ、ということになるだろうと。

必ずしも日本が無策だからというだけでなく、世界経済全体が、戦前の大恐慌のような状態に、急速に近付いているのだそうです。

今ニュースを見ていても、いいことは一つもないですよね。

僕も感覚として、日本はこのまま、行くとこまで行っちゃうんじゃないか、って気がします。

経済の詳しいことは、分からないんですけどね。

そういう話をしたら、ikoi cafeのママ、

「いいんだよ、そしたら日本人は全員、農業をやるんだ」

だって。

まあそう簡単にいけば、いいんですけどね。


2011-09-29

ドヤ街のオアシス ダイニングバー「Kaju」

酒飲みというものは、事あるごとに、自分が酒を飲むことを正当化しようとするものだが、ある飲食店の「常連」になることは、しかしたしかに、意義あることだと言えると思う。(というのももちろん酒飲みの意見)。

僕は普段、晩酌のつまみは家で自分で作るし、ネットで自前のキャバクラもどきも確保しているから、この頃はあまり外で飲む必要性は感じないようになっている。

まあたしかに外で飲めば、それなりに新しい出会いもなくはなく、もちろん楽しいわけなのだが、でもそれだけのためにお金を遣うのなら、もっと他で遣いたいと思わないこともない。

しかしいくつかの飲食店に、何とはなしに義理を感じるところがあって、そこには定期的に通うようにしている。

定期的といっても、月いっぺんだけだから、「常連」などというのは口はばったいわけだが、店のほうでもそれなりに「そろそろ来るか」と待ってくれ、行けば喜んでもらえる。

飲食店は、当たり前の話だが、お客さんがいないと続けていくことができない。広島へ行ってつくづく感じたのは、広島のお好み焼き屋があれだけ多いのは、ただ広島の人がお好み焼きを好きだというだけではない。広島の人が、お好み焼き屋に通い続け、日常的に応援しているからなのだ。

お好み焼き屋は広島では元々、原爆によりご主人を失った女性が、女性一人が子供を抱えながらできる仕事として始めたのが、住宅地などの裏通りにたくさんの店ができたきっかけだったという。原爆で亡くなった人の数があまりに多かったから、お好み焼き屋が広島に特別多い理由なのだろう。広島の人は今でも、お好み焼きを食べることで、不幸な原爆未亡人を助け、応援する気持ちを、どこかに持っているのじゃないか。




そういうわけで僕も、自分の好きな店を、自分ができる範囲で、応援したいと思っているのだが、その筆頭が、四条大宮上ルのあたりにある「Kaju」というダイニングバーだ。

四条大宮はなんとも中途半端な場所で、昔は京都の中心街として栄えたそうだが、阪急電車の「河原町」駅ができ、そちらに中心街を持っていかれてしまったから、現在は中心街から離れてしまっている。

京都のオフィス街は、河原町とこの四条大宮の間にある、「烏丸」が中心なのだが、四条大宮はそこからも外れている。

もっと離れて、四条大宮の先にある「西院」くらいまで行ってしまえば、今度は新興の飲み屋街もできたりするのだが、四条大宮は古い飲み屋街がいまだに多く残っているから、新しく発展のしようもない。観光名所も四条大宮の近くにはないから、観光客が来ることもあまりない。なんとなく、どん突きの吹き溜まりのような場所になっている。


しかしそういう場所だからこその良さもあるわけで、その最大のものは、四条大宮には、京都には唯一で、全国的にも少なくなりつつある、「ドヤ街」のような、古い飲み屋街が残っていることだ。

「寛遊園」という名前で、まさに終戦直後のような、小さな平屋の飲み屋が、細い路地の両側にぎっしりと軒を並べている。

いかにも昔のヤクザ映画にでも出てきそうな場所で、菅原文太やら梅宮辰夫やらが、今にも立ち回りを演じそうだ。


個々の飲食店にはトイレがなく、共同便所になっている。今どきこんな場所は、そうはないだろう。戦後にできて、それから大きくは手を入れられていないのじゃないか。

全国的にこういう飲み屋街がどんどん立ち退きにあい、ビルが建つ傾向にある現在、ここを昔のままの姿で頑張って残している、大家がエライ。



こんな場所だから、出入りする人たちがまた半端無いわけで、自称革命家やらヒモやら生活保護の受給者やら、怪しい人達がうじゃうじゃしているわけなのだが、「Kaju」はその一角にある。

中心街から離れた吹き溜まりのような地域にある、その中でもさらに吹き溜まりのような飲み屋街の中にあるから、知らない人がこの店をたまたま訪れることは、まずないだろうが、Kajuはその吹き溜まりの中の、さながら「オアシス」とでも言えるような店なのだ。



知らない街で飲み屋を探そうとする場合、中心街から少し外れた所にいい店があるというのは、よく知られた話だ。中心街だとどうしても家賃が高いから、お店も「儲け」を重視せざるを得ない。しかし中心街から少し外れることで、もう少し余裕のある経営が可能となる。

Kajuのマスターは元々、京都の銀座である「祇園」で、もっと大きな店をやっていたのだが、わざわざ辺鄙な四条大宮に移ってきた人だ。詳しい理由は聞いていないが、店を経営するに際して、ただ儲けを考えるのでなく、「自分自身が居心地がいい」ことを重視したのだろうと想像する。

カウンターのみ8席ほどの小さな店内は、暗く照明が落とされ、マスターが好きな古い映画だの芝居だののポスターがベタベタと貼られている。隅にあるテレビ画面には、マスターが好きな昔のフォークだの、ロックだののDVDがいつも流されている。まさにマスターの体内空間が、そのままとり出されたかのような場所になっている。

まわりを怪しい、凶暴な人たちが闊歩するドヤ街にあり、Kajuのマスターはそういう人の入店をすべて断ることにより、神聖とも言いたくなる空間を作り出している。お客さんの多くは20代から30代の男女、物静かな人が多く、黙ってDVDを見たり、マスターやまわりのお客さんと少し言葉を交わしたりしながら、ゆったりとした時間を過ごしている。

よくレストランやバーに対して、「隠れ家的」という表現がされることがあるけれども、ここはまったくほんとうの意味で「隠れ家」だ。特に何の宣伝もしていないのだが、口コミでお客が集まり、10時頃のピークの時間帯では、満席で入れないことも多い。

僕はこの店が気に入って、以前しょっちゅう通っていたのだけれど、一時自炊が本格的に楽しくなり、何ヶ月か顔を出さないことがあった。そしたらマスターは、やはり僕がちょくちょく通っていたスナックのママと二人で、「どうしたんだろう」と心配してくれたとのこと。べつにお仕着せがましいところは一切ないマスターだが、そうやって心配してくれるのがありがたく、それ以来、このKajuともう一軒のスナックには、定期的に顔を出すようにしているのだ。



Kajuは基本はバーだが、マスターの手作りによる料理も、得難い良さがあり、しかも安い。メニューはどちらかといえば、あまり一般的ではない、変わったものが多いのだが、すべてマスターの、思いが込められたものが選ばれているのだろう。

ここで僕が最もすすめるつまみはチャンジャ。


チャンジャとはタラのはらわたを韓国風に辛く漬けたものだが、下手な店へ行くと、おちょこにほんのちょっぴり入ったようなのが、600円も700円も取られることがある。しかしここではたっぷりの量が、400円。チャンジャはマスターが漬けたものではないが、味もとても良い。たっぷりの青ネギが添えられ、ゴマ油がかけられていて、それをよく混ぜて食べる。


マスター手作りの餃子もうまい。ニンニクが利いている。


チキンラーメン。ワカメやらカマボコやら、卵やらの具が載せられて、350円。

Kajuは多くの人が、2軒目としての利用をするが、1軒目として利用しても、安くお腹いっぱいになれる店だ。



昨日はこのドヤ街寛遊園の中に、新しくカレー屋ができているのを見つけたので入ってみた。


「よるカレー」とのことで、夜だけ営業するカレー屋らしい。

オーナーは30歳くらいの女の子で、やはり同年代の女の子2人と計3人で、交代で店を回しているようだ。

こういうドヤ街に、夜だけ営業するワインとカレーの店があるのは、たしかにオシャレ。ドヤ街のおっさんより、女の子に人気が出そうだ。


白ワインにカレーを食った。カレーはプレーンな欧風カレー。玉ねぎの甘味が味の決め手となっているタイプ。

ただ昨日は、煮詰まってしまったみたいで、ちょっと塩気がきつかったから、まだオペレーションが安定していないということなのだろう。



2011-09-28

家庭料理に見る「おばちゃん」の精神


昨日の晩酌は、もちろんうまいはうまかったんだが、おとといほどの幸せ感はなかった。

メニューはほとんど同じで、違いはおとといがイカだったのが、昨日はサンマになったという話なのだが、サンマは「甘い」というのとは、ちょっと違うからな。うまいはうまいが、「幸せ」とまでは行かなかった。

あと塩サンマにしてみたのだが、塩サンマは生さんまに比べて、やはりちょっと脂の乗りが落ちるところがあるのかも。

しかし考えてみたら「甘くて柔らかい食べ物に幸せを感じる」って、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲むのが、まさに甘くて柔らかいものなのだもんな。だから人間は、甘くて柔らかい物を口にすると、本能的に幸せを感じるようにできているのかも。とすると、赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲みながら、まさに幸せに包まれているわけだ。おっぱいを飲むときの赤ちゃんって、たしかに幸せそうな顔してるよな。そういうことなのか。

赤ちゃんの時のそういう本能が、大人になっても残っているとしたら、面白いことだよな。「幸せ」って、何か抽象的な、難しいことのように思われているところがあり、哲学でも「幸福論」みたいなものが、いろいろな哲学者により書かれたりするわけだけど、何のことはない、「幸せとは赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲む状態のことだ」としてしまえば、こんなに簡単なことはないわけだ。



僕はどういうわけか知らないが、家庭料理が好きなのだな。

まあ一人で暮らしているから、家庭料理に飢えていることもあるのかもしれないが、いやべつに、料理を人に作ってもらわなくても、自分で作るにしても、家庭料理がいい。「好き」というより、「興味がある」と言ったほうがいいかもな。

家庭料理は、「おばちゃんが作る料理」と言ってもいいと思うが、僕はおばちゃんも好きなのだ。こちらは「興味がある」ではなくあくまで「好き」。いや好きといっても、変な意味じゃない。どんな意味だ。



広島で通いつめた大衆食堂も、おばちゃんが一人でやってる店だった。

おばちゃんの作る料理って、おっちゃんの作る料理と、根本的に違うところがあると思うのだよな。

どう違うか説明するのが、ちょっと難しいのだけれど、思い付くままにあげてみると、例えばお好み焼き。

広島のお好み焼きは、大きな鉄板でお好み焼きを焼いてくれ、その鉄板が、カウンター式のテーブルともなっていて、客は鉄板の端に並んで座り、お好み焼きが焼けるのを眺め、できたお好み焼きを鉄板の上で、コテを使ってそのまま食べることになる。

このお好み焼の焼き方が、男性と女性では大きく違うと思うのだ。

男性がお好み焼きを焼く場合、かちりかちりと作業の区切り区切りをしっかりと付けていくような、そういう動き方をすることが多い。

鉄板が汚れたら、すぐにそれをこそげ取って、鉄板をいつもきれいな状態に保つというのも、男性は多くの場合気をつかう。

ところがおばちゃんがお好み焼きを焼くと、そういうキチンキチンとした区切り目が、ない場合が多いんだよな。特に経験が長い、おばちゃんと言うよりおばあさんみたいな人のほうが、そうであることが多い。

例えてみれば、「太極拳」のような動き。動作に切れ目がなく、ある動きから次の動きへ、流れるように続いていく。動きが全体として渾然一体となっていて、一つひとつの動作の区切り目がない。

うまく言えないのだが、おばちゃんの作る家庭料理と、男性が作る料理とでは、それに相当するような違いがあるように思うのだな。



例えばおばちゃん料理の典型は、「煮物」だろう。

煮物というのは、何でもいいが、要は多くの材料を、区切り目を付けずに一つの料理として仕上げてしまうという言い方をしてもいいわけだ。

料理の仕方として、材料一つひとつを、小鉢として仕上げていくやり方も当然ある。料亭の料理とか、わりとそういう方向にあるかと思うが、煮物は、複数の材料を合わせていくのが基本だろう。

そういう、物事を一つひとつ区別しないやり方が、非常に魅力なんだよな。

おばちゃんは、まあもちろん、知らないおばちゃんじゃなく、お店のおばちゃんだが、話しかけてもすぐに仲良くなれる。いや勝手にこっちが仲良くなったと思っているだけかもしれないが、そう感じさせるだけのものを、おばちゃんが持っているわけだ。

「区切る」と「区切らない」、どちらがいいと言ってるんじゃない。でもこのおばちゃんの、区切らない姿勢は、大変癒されるものがあるということだ。




ちなみに昨日は、魚屋のおばちゃんから、すだちをサービスしてもらった。

僕が行く魚屋のおばちゃんは、ほんとにいい人なのだ。

だいたい僕は、店へ行っても、何を買うかすぐに決めない。おばちゃんにあれこれ質問して、手間を取らせるだけ取らせて、しかも最終的にだいたい、いちばん安いものを買ったりする。

それでも嫌な顔ひとつせず、相手にしてくれるのだからありがたい。

僕は以前、仲間から「お前の本性はおばちゃんだ」と言われたことがあるのだが、やはりそういう僕の「おばちゃん性」が、おばちゃんと接すると、大きく反応し、引き出されてくるものなのかもしれないな。



ちなみに話しの本筋とは関係ないのだが、ていうか、べつにこのブログは、話の本筋などということ自体がないとも言えるが、「名古屋のおばちゃん」の話を思い出したので書いておく。



名古屋では、中心街に住み、洒落た店や、オネエちゃんのいる酒場にばかり行ってしまったから、あまりおばちゃんと接する機会はなかったのだが、と書いて、職場では大量のおばちゃんに接していたことを思い出したが、それは別として、おばちゃん体験として強烈なものが2つある。

一つは、名古屋では電車の中で、おばちゃんが他人に、平気で話しかけてくる。これはおばちゃんでなく、「おばあさん」なら確実だ。名古屋のおばあさんは、人を「知人」と「他人」の区別をすることが一切ないようだ。隣にいるおばあさんが、家族に対するのと変わらないような調子で、赤の他人に話しかけてくる。

それから連休に自動車で、伊勢だかどこだかまで、名古屋から遊びに行った時のこと、高速のサービスエリアは、大混雑していた。

食券を持った人が、食堂のそばコーナーにずらりと並び、もう中で作るおばちゃん達は、さばききれなくなってしまって、マネージャーらしき男性が陣頭に立って指揮をしている。

「これ作って」「あれ作って」と、いちいち指示しているのだが、その指示の中で、

「○○さん、自分が作りたいものから作らないで」

というのがあり、心のなかで大爆笑した。

名古屋の食堂の、そばコーナーのおばちゃんは、食券が出された順番ではなく、その中で自分が作りたい順番に作ってしまうのだ。

名古屋の人がこれを読んでいたら、これは決して馬鹿にしているのではなく、あまりに痛快だと言おうとしていることは分かってほしい。

この物事に一切の優劣を付けず、あくまで自分にとっての、変わらぬ一つの世界として捉えようとするおばちゃんの姿勢に、感動することが多いのだな、僕は。




ナスのおしたし。これも京都三条会商店街の八百屋のおばちゃんから教えてもらったもの。

ナスのおしたしについては、もう何度も書いているのだが、ナスをおしたしにするって、知らない人も多いのじゃないかと思うから、もう一度書いておく。ってたぶん、また書くと思うが。

要はナスを丸ごと茹でて、それを水にさらさず空気中で自然に冷まし、よく絞り、あとは好きなものをかけるなり和えるなりして食べればいいという話。

昨日はおかかに醤油で食べたが、これも非常にうまい。すりごまに醤油でもいいし、ごまだれを作ってそれで和えてもいい。

ナスをゆでる時、八百屋のおばちゃんに「塩は入れるのか」と聞いたら、

「うーん、ほんーのちょっぴり」

という言い方をしていたのだが、これは色々やってみて、塩は入れないほうがいいのだな、たぶん。

ナスはゆでているうちに、大量のアクが出て、それでゆで汁が真っ青になってしまうわけだが、塩を入れると、これがナスに戻ってしまうのじゃないかと思う。そうするとナスの身が、青く染まってしまうから、それより塩はまったく入れないほうが、ナスの色がきれいになる。たぶん。

ナスのおしたしは、やわらかくて甘く、しかもほんとにさっぱりしているから、2本分くらいのナスは、一人で軽くイケてしまう。

ぜひ試してみてください。




朝飯は、これは完全に定番のうどん。うどんは冷凍。




昼飯は、これも完全に定番の塩焼きそば。

豚肉と野菜を炒め、そこに酒と少なめの醤油、それにすりおろしたニンニクとショウガのタレをジャーと入れる。続いて焼きそば麺を入れ、塩コショウして炒め上げる。

これは何度食っても非常にうまく、またビールが最高に合う。



2011-09-27

やはり日本人には日本の食い物


三条会商店街の魚屋で、スルメイカを売っていたから、どうやって食べたらいいか聞いたら、さっと焼くか湯がくかして、生姜醤油で食べたら良いとのこと。

以前は家のIHレンジでは、魚はうまく焼けなかったんだが、この頃はカセットコンロに焼き網を使うことにしたから、焼き魚も自由自在だ。




刺身にもできるスルメイカ。

さっと焼いてぷっくりと膨らめば、それでもう食べられるとのことだったのだが、いやほんと、やわらかくて、甘みがあって、それがさっぱりした生姜醤油となんともよく合い、これはたまらん。




それから八百屋で、万願寺とうがらし。

農家の人が八百屋に直接持ち込むとのことで、スーパーの3分の1ほどの値段で買える。

ナスやトマトも、京都産のものは、スーパーよりはるかに安いんだよな。

他の野菜も、全体としてスーパーより安く、八百屋がスーパーより高いと思っていたのは、完全に間違いだったな。




万願寺とうがらしは、じゃこと炊くのが一般的だが、かつお節で炊いてもいい。

農家のおばちゃんは、じゃこよりかつお節のほうが、とうがらしの身にピタリとへばりつき、食べやすいからいいと言っていた。

それに実際、じゃこよりかつお節のほうが、値段が安い。



鍋にかつお節、それに洗っただけのとうがらしを丸ごと入れ、1カップほどの水を入れ火にかける。

沸騰したら、みりんと醤油でコッテリめに味を付け、フタをして中火で20分ほど炊く。

万願寺は意外にかたくて、けっこう時間をかけないとやわらかくならない。

十分やわらかくなったら、フタを開け汁を煮詰めて出来上がり。




このくたくたになり、たっぷり味がしみたのが、たまらんのだよな。

これは中の種ごと食ってしまうんだが、種がまたちょっと酸味があるのが、ほろ苦い万願寺のよいアクセントになる。




それからナスの塩もみ。

ただ塩をふって絞っただけの簡単なものだが、これがまたやわらかくて甘くて、ほんとに死ねる。

前も書いたが、ただ塩もみしただけのナスがこれほどうまいのは、いつもじゃないんだよな。

今が旬だから、これだけうまいということなのだ。




三条商店街の豆腐屋で買った、自家製豆腐。

今まで何度も、大してどうと思うことなく食っていたんだが、昨日初めて、「ほんとにうまい」と思った。

豆腐の味って、僕のような馬鹿舌だと、あまりに淡くてよく区別が付かないんだよな。

でも何度も食ってるうちに、僕の舌もようやくうまいと悟ったようだ。

ひとことで言うと、透き通った、一点の曇りもないという味。

濃すぎず、堅すぎず、しかし存在感は十分。

今度からもう、豆腐はここのだけにするわ。

値段もべつに高くない。




あとは白菜の浅漬。

こないだ塩を振りすぎたからと思い、今回塩を少なめにしたら、今度はちょっと足りなかった。

しかし酒の肴には、辛すぎるよりちょっと足りないくらいのほうがいい。




昨日はこれだけのもので、冷や酒を2合半飲んだのだが、あんまり幸せで死ぬかと思った。



この「死ぬほどの幸せ感」なのだが、僕はべつに、晩酌の時、いつもそれを感じているというわけでもないんだよな。

昨日どんな時自分がこれだけ幸せを感じるか、よくよく振り返ってみたんだが、「甘くてやわらかい」ものを食ってる時であることに気が付いた。

昨日も甘くてやわらかいイカ。甘くくたくたに炊いたとうがらし。ナスも豆腐も、やはり甘くてやわらかい。

新福菜館三条店のラーメンも、僕は非常な幸せを感じるんだが、あれもやはり、ラーメンとしては珍しく甘い味がし、全体としてやわらかい印象がある。

こういうものをひと言でまとめると、「昔の日本」ということになるのかな。



最近の日本は、アメリカの影響なのじゃないかと思うのだが、「甘さをおさえ、歯ごたえがあるもの」を好むようになっているんじゃないか。

サラダとか、典型だよな。

ラーメンも、戦前の創業である新福菜館のラーメンは甘みがあるが、戦後のラーメンは基本的にすべて、甘みはカットされている。

僕は歯ごたえのあるサラダも、甘みのないラーメンも、べつに嫌いでも何でもなく、そういうものを食って育ってきているんだが、それほどの幸せ感は、感じなかったということだ。

戦後生まれの僕の体内にも、日本人の血が脈々と流れているということなのだな。

不思議な感じがするな。




昼飯は、素ソーミンチャンプルー。

ソーミンチャンプルーはほんとならニラとか、キャベツとか長ネギとか、野菜を一緒に炒めるんだが、昨日は野菜を買い忘れていたから、ツナ缶だけで炒め、青ネギをふりかけた。

これもけっこうイケたですよ。


2011-09-26

一人暮らし料理は出汁を自分で取るのがポイント

しかし主婦の人達が料理を作るってのは、大変なことだと思うんだよな。家庭によって違いはあるかも知れないが、主婦は家族のために料理を作ることに対して、責任を負うことになっているわけだ。専業主婦なら、料理は仕事になるわけだよな。仕事として料理をするのは、僕などは一度もやったことがないから、どんなに大変なことかは想像もつかないが、少なくとも僕のように、毎日気楽に好きなものを作ることとは、大きな違いがあるだろう。

自分が作ったものを、ご主人がきちんと褒めてくれれば、やる気も湧いて、楽しくもなってくるかもしれないが、そうでなければつらいよな。ただ義務としてだけやる仕事ほど、苦しいものはないわけだ。考えてみたら僕も母親が作る料理に対して、文句ばっかり言ってたわけで、今になって思うと申し訳ない。元妻の料理を、それほどけなしはしなかったとは思うが、あまり褒めてやった記憶もない。


僕が料理を始めたのは、一人で暮らすようになってからだ。それまでも料理はわりと好きで、子供の頃からちょこちょこ作っていたのだが、あくまでレシピを見て、そこに載っている材料をその通りに買い揃え、書いてあるやり方通りに作ることしか、やったことがなかった。そういう料理は、手作業としての面白さはあるのだけれど、本当に面白いものではないんだよな。

これはこのブログに、もう何度も書いていることだから、以前から読んでくれている人は、「またかよ」と思うかもしれないが、正月に雑煮を作ることにしたのだ。それで元妻がやっていたやり方を思い出し、鶏がらで出汁を取ってみた。元妻のお母さんは九州出身だから、雑煮は鶏がら出汁のすまし汁なのだ。

絶対に沸騰させてはいけないと聞いていたから、4~5時間、鍋の前に張り付いて様子を見ていた。鶏がら出汁を取るところなど、ずっと見続ける人は少ないと思うから、これはあまり知られていないのじゃないかと思うが、あれは火をかけ始めると、まず水が黒っぽくなるのだな。これはアクとは違い、どんなに掬っても取れないのだが、それじゃあ何なんだろう、いまだによく分からない。そうして4~5時間たつと、黒っぽかった水がある時一瞬にしてさっと澄んで、まあそれが、鶏がら出汁の完成ということになるわけだ。

そうして数時間にわたり、全精力をかけて出した出汁だから、愛着があるわけだ。雑煮を作ったのはもちろんだったが、せっかくだから、このおいしい出汁で、何か他の料理もできないかと考え始めるようになる。それで鶏の水炊きをやり、ちなみにこの鶏の水炊きは、家に招待した、件の韓国エステの女の子3人に食わせてやったのだが、あとはナスをその出汁で煮たりしてみた。味付けの仕方など、ろくすっぽ知らないわけだが、出汁がうまければ、ただ塩やら醤油やらで味を付けただけで十分うまい。

この時が僕が、レシピを見ずに料理を作った、初めての経験だった。何を作ろうかを、冷蔵庫にある材料などを考えながら、自分の頭で考え、それをその通りやり、実際食ってみる。それがいかに楽しいことかを、その時初めて知ったのだな。

それから一気に料理にハマり、もちろん料理の本もいろいろ買って、そこに書いてある通りに作ることも何度もしたことはあるが、基本的には料理をつくる時にはレシピは見ずに、自分勝手に考え、その通りに作るようにしている。


ただこのやり方は、自分が自分だけのために作る料理だから、できるのかもしれないと思うところはあるのだな。何故かというと、世の中のやり方を尊重せず、自己流に作ってしまうわけだから、失敗も多いのだ。

だいたい初挑戦の料理は、失敗することが多い。たしかに一回失敗してしまえば、失敗の原因を考えることで、2度目や3度目にはちゃんとうまくいくようにはなるのだが、これがもし主婦が、口うるさいご主人がいたりすると、失敗など許されないことになるだろう。だから自己流料理の楽しさは、一人暮らしだからこそ、できるものじゃないかと思ったりするわけだ。

一人暮らしの男は、僕も何人も友達でそういうのがいたが、だいたい料理をしない。コンビニでつまらないものを買ってしまうか、そうでない時には居酒屋へ行ってしまうのだ。自分で料理を作っても、なかなかうまくできないし、一人分の料理を作ると材料も余してしまうことになる。さらに自分のためだけに料理を作り、それを一人で食うのは寂しい。そういうことが理由だろう。

しかしこれは、なんとももったいない。一人暮らしという、自分勝手に料理を作る楽しさを満喫できる機会を、みすみす逃してしまうのだ。僕はこのブログをやることで、そういう一人暮らしの人が、料理をする一つの機会になればいいなと、実は思っているのだが、そんな一人暮らしでありながら、まだ料理をしていない人にぜひ薦めたいのが、「出汁を自分で取る」ことなのだ。

出汁を取ることが、料理の楽しさを知ることに、大きく役立つことは、絶対間違いない。僕の知り合いで料理が異常にうまい男性がいるのだが、その人も、やはり自分で出汁を取ったことが、料理にハマったきっかけだと言っていた。別の友人には、そいつは料理をしたことがなかったのだが、出汁を取るのを薦めてみたところ、嘘のように一気に料理にハマっていた。


出汁を取ると何がいいかといえば、他の何をどう失敗しても、出汁がうまければ、それなりにおいしく食べられるようになることが一つだろう。自分で料理してみて、失敗し、まずいものを食わなきゃいけないとなると、どうしても料理をやる気が萎えてしまうものだ。でも出汁をちゃんと自分で取ると、それが最小限に抑えられる。

それから出汁は、「料理の中心」とも言えるものだということが、もう一つの理由だ。出汁がすべての基本なのであり、出汁をちゃんと自分で取っていると、料理全体の構造が見えてくるようになる。一つ一つの料理だけでなく、すべての料理に共通の、普遍的なあり方が、出汁という料理の中心を抑えることにより、見えやすくなるのだな。

たとえばカレーとシチューと、豚汁、けんちん汁は、表面的にはまったく別の料理で、料理の本にも別のものとして書いてある。ところがこれらは実は、細かい違いはあるにせよ、根本的には同じもので、味付けがちがうだけなのだ。肉と野菜を炒めて、水を入れて煮、味を付けていくというやり方は、これらの料理で共通だ。

料理の共通性が見えてくると、料理はとたんに面白くなる。中国料理とイタリア料理も、非常にざっくり言えってしまえば、料理のやり方は非常に似ている。炒め物を中心とする作り方も似ているし、一皿の料理に肉から野菜から炭水化物から、全部を入れてしまうというのもそっくりだ。これは中国とイタリアが、シルクロードでつながっていたからなのかなとか、中国とイタリアといえば、古代の帝国の、東西の代表だろうが、そういう「すべてを一つにまとめる」帝国主義の考え方が、料理でも、「一皿に全てをまとめる」ものとして表れるのかなとか、色々考えたりする。べつに真偽の程は脇に置いておくとしても、料理をしながらそんなことを考えるのは、非常に楽しい。

というわけで、このブログを見てくれている、まだ料理をしていない一人暮らしの人は、ぜひ出汁を自分で取るところから、料理を始めてみてほしいと思うわけなのだ。



このごろ「漬ける」のが面白くなってきていて、昨日はグルメシティでスペアリブが安く売っていたから、それを自分でタレを作って漬け込み焼いてみた。豚肉には、やはり味噌味だろうということで、味噌に醤油、みりん、酒、砂糖、それにニンニクとショウガをすりおろしたのを入れてみた。


2~3時間冷蔵庫に入れておいて、それを魚の焼き網で焼いてみたが、なかなかいい。漬けるというのは、どうしてもそれなりに時間がかかるものだが、この時間がかかるというところが、いかにも「自然が料理してくれる」感じがして、楽しいところなのだよな。


浅漬も、この頃は欠かさないようになっている。これもただ塩もみし、昆布に鷹の爪、それに酢をぶっかけ、冷蔵庫に入れておくだけだが、ちゃんとおいしく出来上がり、1週間ほど食べ続けることができる。


小松菜と油揚げの炊いたん。小松菜は昨日ようやく、98円という通常通りの値段に落ち着いていた。しかしほうれん草は、相変わらず398円。398円のほうれん草って、誰か買う人がいるのか。


こんなものを酒の肴に、昨日も酒を2合。酒を2合飲むのに、2時間近くかけちびりちびりとやるのが、なんとも幸せなわけなのだ。


2011-09-25

新福菜館三条店の大盛りラーメンと、ナスとにしんの煮付け


懲りもせず毎週新福菜館三条店へ通い、ラーメンを食べているわけなのだ。これはどれだけうまいんだと思うかもしれないけれど、明日地球最後の日が来るとしたら、僕はとりあえずこれを食って死にたい。だからどうしたって話だが、それだけうまいもんを毎週食べられるのは、幸せというものなのだ。

このラーメンがどうしてこれほどまでにうまいかについて、このブログで毎週のように、書いてきているわけで、このブログを続けて読んでくださっている人にとっては、「耳にタコとはこのことだよ」と言いたいところだろう。どれだけうまいかは、たしかに食ってみないと分からないことだが、そう言ってしまえば身も蓋もない。このブログを書いている意味もない。だからと言って、毎週同じことを書くわけにもいかないわけだが、このラーメンは、食うたびに新しい発見があるので、これまでついつい、毎週書かずにはいられない気持ちになってしまっているわけなのだ。

昨日はとうとう、この店で毎週同じものを頼むことも、新たな段階に入ったようで、店に入って席に着いたら、注文を聞きに来た男の子が、僕が注文する前から、すでにビールとキムチを手にしていた。


この店は、店員の雰囲気もすごくいい。よくラーメン屋で、店員が威勢よく「いらっしゃいませー」とか、声を揃えて言ったりすることがある。それはべつに、悪いこととは思わないが、店員としても、ただ命令でやれと言われているからやっているだけのことで、それ以上のものではないだろう。北朝鮮のマスゲームのように、統率がとれていることを示しているだけであり、大してどうと思うところもない。

新福菜館三条店の店員も、もちろんきちんと挨拶はするが、この店の店員の良さは、挨拶などにあるのではない。店員は、まず大将がいて、それから番頭らしい、若いお兄ちゃんがいるのだが、それ以外は全員中国人なのだ。20歳前後の若い男の子が3人、女の子が二人いるのだが、アルバイトなのだろう。聞くところによれば、もう何年も前から、中国の子たちの友人関係のネットワークで、誰かが辞めればまた新たに誰かを紹介してという具合に、代々受け継がれているものらしい。


その中国人のアルバイトの子達が、働く様子をカウンター越しに見るのが、大変楽しいわけなのだ。

昔の日本人も、こういうところがあったのだろうなと思うのだが、働くのがいかにも楽しそうで、活き活きとしている。働いていることそのものを、喜び、楽しんでいる感じがする。

だいたい今の日本人の若い子は、あのような洒落てもいないラーメン屋で、アルバイトをしたりはしないだろう。新福菜館三条店も、何も好き好んで中国人を雇っているというよりは、アルバイトを募集しても、日本人の応募がなくなったということなのじゃないか。日本人の若い子は、おそらく、もし時給が同じだったとしても、このようなありきたりなラーメン屋でバイトするよりも、洒落たカフェバーでバイトすることを選ぶんだろう。

まあしかし中国人にとっては、あの新福菜館三条店でも、十分洒落ているのかも知れないが、いずれにせよ、楽しそうに働く若者を見るのは気持ちがいい。手が空くと、店員同士ムダ話していたりもするのだが、そういう様子を見るのも楽しい。その素朴な様子が、前にも書いたけれど、いかにも「昭和の日本」という感じで、昔のテレビドラマの「時間ですよ」とか「寺内貫太郎一家」とか、そんなものを眼前で見せられているような気がする。


今日も大盛りラーメンを食べたのだが、いつも通りあまりのうまさに死亡したのは言うまでもない。先週も書いた通り、どんぶりの底にある麺を上に持ってきて、からまっている麺を食べやすくするのと同時に、上にトッピングしてあったもやしをスープに沈め、スープの味を染みさせるというやり方は、もう絶対に間違いない、新福菜館三条店大盛りラーメンの基本的な食べ方といえるだろう。

こうやってしばらく、麺とスープ、チャーシューと青ネギだけで、新婦k菜館三条店のベースの味を楽しんだあと、やおら卵を溶きほぐし、スープの味を変えるとともに、ここで味のしみたもやしを初めて、食べ始めることにするわけだ。


この時好みにより、一味唐辛子と「ヤンニンジャン」を入れるといいことに、この食べ方を知って初めて気付いた。

新福菜館三条店には、調味料が三種類、卓上に置かれている。コショウ、一味唐辛子、そしてヤンニンジャンだ。コショウは好みで最初にふりかければいいわけだが、一味とヤンニンジャンの存在意義が、今までよく分からなかった。これまで一味やヤンニンジャンを入れて食べたこともあったのだが、どうもピンと来なかったのだ。

ところが卵を溶きほぐしてスープに混ぜると、甘辛いスープの味とあいまって、ちょうどすき焼きのような味になるのだが、人によってはこの味が、ラーメンとしては刺激が足りないと思うことがあるだろう。ここに一味と、さらに唐辛子とニンニクを練り合わせたものであるヤンニンジャンを入れると、味が一気に引き締まることになる。

要は新福菜館三条店は、調味料の使い方についても、そこまで計算されているということなのだ。にも関わらず、そのこだわりは一切、言葉として伝えられることがない。

東京のラーメン屋ならば、間違いなく、「大盛りラーメンの食べ方」という説明書きを作り、それを客席のいたるところに貼り出してあると思うのだ。ところが新福菜館三条店では、そのようなことは一切されない。毎週通っていたにもかかわらず、1年半もの長い間、自分でそれに気が付くまで、放っておかれることになる。

「商売」という意味では、こうして新福菜館三条店が、おいしいラーメンの食べ方をお客に知らせないことは、明らかにマイナスになっているだろう。しかし1年半たって食べ方を自分で発見したお客は、創業者に抱きつきたいほどの感動を覚えることになる。その感動こそが、商売より大事であると、新福菜館三条店は考え、食べ方をお客に指導しないということなのだろう。しかしその考え方こそが、まさに僕をこの店の中毒にさせている原因なのだろうと思う。



京都は「にしん」をよく食べる。「にしんそば」は京都の名物にもなっているが、要は京都は、新鮮な魚がなかなか手に入りにくい土地柄だったから、干した魚をよく利用したということなのだろう。

干した魚の中でも、他の魚と違い、にしんだけは、煮物に使うことができた。肉じゃがを見ればわかるが、煮物は「おふくろの味」という趣きを持つものであり、だからこのにしんも、京都でおふくろの味的な、独特の地位を占めているのではないかと想像する。

にしんは普通は、「身欠きにしん」を使うものだろう。しかしおそらく、冷蔵技術の発達により、身欠きにしんほどカチカチに干し上げてしまわなくても、北海道から京都まで、にしんを輸送できることになり、それで生まれたのが「ソフトにしん」なのだろう。ソフトにしんは、ちょうど普通の一夜干し程度の干し加減となっている。

ソフトにしんはグルメシティには置いていないが、魚屋や、京都ローカルのスーパーには置いてある。にしんをナスと煮付けるのは、京都の郷土料理のひとつであり、今せっかくナスがうまい時期だから、やってみることにした。

魚屋のおばちゃんによると、ソフトにしんはゆでこぼし、ナスも下ゆでして、ソフトにしんをこってりと炊いたその汁を少し薄めて、別鍋でナスを炊くのだそうだ。この別鍋でナスを炊くというのが、一口のIHレンジしかない我が家では、どうにも面倒くさい感じがして、魚屋のおばちゃんにせっかく教えられながらも、いまだちゃんと言うことを聞いたことはない。でもそれ以外はおばちゃんのいう通り、ゆでこぼし、下ゆでをして作ってみた。


これはほんとに素朴な、おふくろの味。限られた材料に手をかけ尽くして味わうのが、京都の料理なのだよな。食べながらしみじみとした気持ちがしてくる。



八百屋で京都山科産のトマトを買った。180円とちょっと高かったが、京都の露地物のトマトは、そろそろ終わりだというから、今のうちにちゃんと味わっておかないといけないだろう。京都産のトマトは、スーパーに売っている熊本産などのトマトとは、比にならない甘さがある。



あとは漬物と冷奴で、冷や酒を2合半。


2011-09-24

韓国人のユキちゃんに作ってもらったプルコギ


別居した直後は、言うまでもないことだが、寂しくてやりきれなかった。今まで家族がいた家に、一人きりで住んでいる。ついこないだまで聞こえていた子供たちの声が、今はもう聞こえずしんと静まり返っている。これにはさすがに耐え切れず、しばらくは激しく飲み歩くこととなった。

職場のあった渋谷で、仕事仲間と飲むにとどまらず、自宅があった蒲田でも、あっちの店こっちの店と、夜な夜な渡り歩いた。


蒲田は東京の最南端のどん詰まりにあり、JRの駅に加えて、東急池上線、目黒線の始発駅ともなるちょっとしたターミナルなのだが、JRで急行に相当する東海道線が、品川から蒲田を通り越して隣の川崎まで行ってしまうためか、垢抜けたところがない街だ。最近駅ビルが改装されてきれいになったが、依然として駅前は、東口も西口も、古い雑居ビルが所狭しとならび、サラ金の看板とパチンコ屋がやけに目立つ。

西に京浜工業地帯の小さな町工場群を抱え、歴史的にそこの労働者が飲みに来る街だったのだろう、ガード下やら細い路地やらに、小さな飲み屋が密集している。タクシーの運ちゃんに聞いた話だが、飲み屋の軒数としては、蒲田は新宿より多いのだそうだ。

今はもう、新しく東京都の条例ができて、そんなことはなくなってしまったのだが、10年ほど前までは、夜9時頃蒲田の駅を降りると、駅前にふんわりとしたパーマをかけた長い髪に、濃い目のメークをばっちりと決め、ロングドレスを着た、背が高く痩せたお姉さん方が何人も、駅前で待機して客引きをしていたものだ。さらにその向こうには、今度は中国人のお姉さん方が、マッサージの客引きをしていた。

そんな怪しい街に住んでいたものだから、別居の寂しさから、そのお姉さん方のいる店の一軒一軒を訪ねることになってしまったのは、仕方が無いことだっただろう。


その中で一軒、特に通いつめたのが、韓国エステの店だ。西口のロータリーから小さな路地を入ったすぐのところにある、雑居ビルの3階にあったのだが、その店のユキちゃんという女の子に、僕は完全にハマってしまった。

ユキちゃんは当時29歳だったのだが、韓国人の女の子は、時々ものすごく若く見える顔立ちの子がいて、どう見ても23、4にしか見えなかった。韓国のホテルで美容院を経営していたが、それに失敗して負債を抱え、まだ幼稚園に小学生だった娘二人を韓国の親戚に預け、日本へ出稼ぎに来ていたのだ。

日本に来たばかりの頃で、僕が初めての客だったとのこと、泥酔した僕を慣れない手つきでマッサージしてくれたのだが、寂しい男は、隙のないプロより、素人臭い女に惹かれるものだ。それからというもの週に2~3回のペースで、その韓国エステに出かけ、ユキちゃんにマサージを受けるようになった。


それだけ常連になると、店に行くとマッサージだけでなく、ユキちゃん手作りの韓国料理を出してくれたりするようになる。さらにユキちゃんとは、店に内緒で個人的に付き合い、家に呼んだりもするようになったから、その時にもずいぶん、韓国料理を作ってもらった。

もう忘れてしまったものも多いのだが、作ってもらった韓国料理のうち、強く印象に残っているものの一つがプルコギだ。ニラが欲しかったユキちゃんは、「ニラ」という日本語が分からず、「細長くて緑色の野菜」というから、青ネギを買ってきて手渡したら、「これは違う」と言いながら、けっきょくその青ねぎを使っておいしいプルコギを作ってくれた。

不思議とそれから、自分でプルコギを作ることはなかったのだが、先週10数年ぶりに作ってみて、ちょっと失敗したから、昨日もう一度作ってみたというわけだ。



材料はまず牛肉。薄切りの肉なら何でもいいが、グルメシティでは木曜の特売日で牛コマ肉を安く出すので、昨日はそれを使った。それからニラ、玉ねぎ、ニンジン、昨日はそれに加えてシメジを入れた。プルコギに普通何が入るのか、ユキちゃんは当時何を入れたのか、ちゃんと覚えていないが、ニラと玉ねぎは間違いない。昨日はこれに彩りのニンジン、食感のシメジで、全く問題なかった。

調味料は、まず砂糖。韓国料理は、意外と思う人もいると思うが、砂糖を多用するのだ。それから醤油。酒とみりん。ここまでは日本の調味料と全く同じことだから、肉じゃがを作るのと同じような感覚で、ジャバジャバと入れていく。

しかし韓国料理だから、当然ここにニンニクが入る。ユキちゃんがプルコギを作っていた時にも、びっくりするほど大量のニンニクを入れていたのだが、今回も株になっているニンニクの半分ほど、5かけくらいを入れてみた。でも食べてみたら、この肉と野菜の量なら、もっと入れても良かったかもしれない。あとはゴマ油をだらりだらりと振りかける。


以上の材料をフライパンに全て入れ、これを手でよく混ぜ合わせる。手を使うのが、韓国料理独特のやり方なのだよな。両手を使い、野菜と肉に、調味料を揉み込むようにしていく。韓国では、料理の味を、「オモニ(お母さん)の手の味」と表現したりもするそうだ。

あとはこのままフライパンを強火にかけ、肉に火が通り、野菜がしんなりしたら出来上がり。火にかけると、すぐに大量に水が出てくるので、プルコギが日本語で「焼肉」と訳されるわりには、焼くというより蒸し焼きのような形になる。焼肉屋などでは、ジンギスカン鍋のような、中央が丸く盛り上がった鉄板を使い、汁がまわりに垂れることにより、肉と野菜がきちんと「焼ける」ように工夫していたりもするが、ユキちゃんはフライパンでやっていたから、家庭ではこれでいいんだろう。


前回プルコギを作った時は、ショウガを入れてしまったために、プルコギだかショウガ焼きだか分からないものになってしまったのだが、今回はちゃんと、完璧なプルコギ。この作り方で、きちんとプルコギになるのは間違いない。

プルコギは、肉と野菜から染み出してくる汁が、また非常にうまい。この汁をご飯にかけて食うと最高なのだが、今日はご飯がなかったのが残念だった。



昨日はあまりにいい天気。しかも休日だから、街ものんびり静まり返り、ほんとは色々やろうと思っていたのに、全くヤル気にならなかった。



朝飯はいつも通りのうどん。



昼飯は、これもいつも通りの、ビールに塩焼きそば。これは何度食っても、ほんとにたまらん。酒に風味づけ程度の醤油、ニンニクとショウガ、それに塩コショウで味付けする。