2011-09-28

家庭料理に見る「おばちゃん」の精神


昨日の晩酌は、もちろんうまいはうまかったんだが、おとといほどの幸せ感はなかった。

メニューはほとんど同じで、違いはおとといがイカだったのが、昨日はサンマになったという話なのだが、サンマは「甘い」というのとは、ちょっと違うからな。うまいはうまいが、「幸せ」とまでは行かなかった。

あと塩サンマにしてみたのだが、塩サンマは生さんまに比べて、やはりちょっと脂の乗りが落ちるところがあるのかも。

しかし考えてみたら「甘くて柔らかい食べ物に幸せを感じる」って、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲むのが、まさに甘くて柔らかいものなのだもんな。だから人間は、甘くて柔らかい物を口にすると、本能的に幸せを感じるようにできているのかも。とすると、赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲みながら、まさに幸せに包まれているわけだ。おっぱいを飲むときの赤ちゃんって、たしかに幸せそうな顔してるよな。そういうことなのか。

赤ちゃんの時のそういう本能が、大人になっても残っているとしたら、面白いことだよな。「幸せ」って、何か抽象的な、難しいことのように思われているところがあり、哲学でも「幸福論」みたいなものが、いろいろな哲学者により書かれたりするわけだけど、何のことはない、「幸せとは赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲む状態のことだ」としてしまえば、こんなに簡単なことはないわけだ。



僕はどういうわけか知らないが、家庭料理が好きなのだな。

まあ一人で暮らしているから、家庭料理に飢えていることもあるのかもしれないが、いやべつに、料理を人に作ってもらわなくても、自分で作るにしても、家庭料理がいい。「好き」というより、「興味がある」と言ったほうがいいかもな。

家庭料理は、「おばちゃんが作る料理」と言ってもいいと思うが、僕はおばちゃんも好きなのだ。こちらは「興味がある」ではなくあくまで「好き」。いや好きといっても、変な意味じゃない。どんな意味だ。



広島で通いつめた大衆食堂も、おばちゃんが一人でやってる店だった。

おばちゃんの作る料理って、おっちゃんの作る料理と、根本的に違うところがあると思うのだよな。

どう違うか説明するのが、ちょっと難しいのだけれど、思い付くままにあげてみると、例えばお好み焼き。

広島のお好み焼きは、大きな鉄板でお好み焼きを焼いてくれ、その鉄板が、カウンター式のテーブルともなっていて、客は鉄板の端に並んで座り、お好み焼きが焼けるのを眺め、できたお好み焼きを鉄板の上で、コテを使ってそのまま食べることになる。

このお好み焼の焼き方が、男性と女性では大きく違うと思うのだ。

男性がお好み焼きを焼く場合、かちりかちりと作業の区切り区切りをしっかりと付けていくような、そういう動き方をすることが多い。

鉄板が汚れたら、すぐにそれをこそげ取って、鉄板をいつもきれいな状態に保つというのも、男性は多くの場合気をつかう。

ところがおばちゃんがお好み焼きを焼くと、そういうキチンキチンとした区切り目が、ない場合が多いんだよな。特に経験が長い、おばちゃんと言うよりおばあさんみたいな人のほうが、そうであることが多い。

例えてみれば、「太極拳」のような動き。動作に切れ目がなく、ある動きから次の動きへ、流れるように続いていく。動きが全体として渾然一体となっていて、一つひとつの動作の区切り目がない。

うまく言えないのだが、おばちゃんの作る家庭料理と、男性が作る料理とでは、それに相当するような違いがあるように思うのだな。



例えばおばちゃん料理の典型は、「煮物」だろう。

煮物というのは、何でもいいが、要は多くの材料を、区切り目を付けずに一つの料理として仕上げてしまうという言い方をしてもいいわけだ。

料理の仕方として、材料一つひとつを、小鉢として仕上げていくやり方も当然ある。料亭の料理とか、わりとそういう方向にあるかと思うが、煮物は、複数の材料を合わせていくのが基本だろう。

そういう、物事を一つひとつ区別しないやり方が、非常に魅力なんだよな。

おばちゃんは、まあもちろん、知らないおばちゃんじゃなく、お店のおばちゃんだが、話しかけてもすぐに仲良くなれる。いや勝手にこっちが仲良くなったと思っているだけかもしれないが、そう感じさせるだけのものを、おばちゃんが持っているわけだ。

「区切る」と「区切らない」、どちらがいいと言ってるんじゃない。でもこのおばちゃんの、区切らない姿勢は、大変癒されるものがあるということだ。




ちなみに昨日は、魚屋のおばちゃんから、すだちをサービスしてもらった。

僕が行く魚屋のおばちゃんは、ほんとにいい人なのだ。

だいたい僕は、店へ行っても、何を買うかすぐに決めない。おばちゃんにあれこれ質問して、手間を取らせるだけ取らせて、しかも最終的にだいたい、いちばん安いものを買ったりする。

それでも嫌な顔ひとつせず、相手にしてくれるのだからありがたい。

僕は以前、仲間から「お前の本性はおばちゃんだ」と言われたことがあるのだが、やはりそういう僕の「おばちゃん性」が、おばちゃんと接すると、大きく反応し、引き出されてくるものなのかもしれないな。



ちなみに話しの本筋とは関係ないのだが、ていうか、べつにこのブログは、話の本筋などということ自体がないとも言えるが、「名古屋のおばちゃん」の話を思い出したので書いておく。



名古屋では、中心街に住み、洒落た店や、オネエちゃんのいる酒場にばかり行ってしまったから、あまりおばちゃんと接する機会はなかったのだが、と書いて、職場では大量のおばちゃんに接していたことを思い出したが、それは別として、おばちゃん体験として強烈なものが2つある。

一つは、名古屋では電車の中で、おばちゃんが他人に、平気で話しかけてくる。これはおばちゃんでなく、「おばあさん」なら確実だ。名古屋のおばあさんは、人を「知人」と「他人」の区別をすることが一切ないようだ。隣にいるおばあさんが、家族に対するのと変わらないような調子で、赤の他人に話しかけてくる。

それから連休に自動車で、伊勢だかどこだかまで、名古屋から遊びに行った時のこと、高速のサービスエリアは、大混雑していた。

食券を持った人が、食堂のそばコーナーにずらりと並び、もう中で作るおばちゃん達は、さばききれなくなってしまって、マネージャーらしき男性が陣頭に立って指揮をしている。

「これ作って」「あれ作って」と、いちいち指示しているのだが、その指示の中で、

「○○さん、自分が作りたいものから作らないで」

というのがあり、心のなかで大爆笑した。

名古屋の食堂の、そばコーナーのおばちゃんは、食券が出された順番ではなく、その中で自分が作りたい順番に作ってしまうのだ。

名古屋の人がこれを読んでいたら、これは決して馬鹿にしているのではなく、あまりに痛快だと言おうとしていることは分かってほしい。

この物事に一切の優劣を付けず、あくまで自分にとっての、変わらぬ一つの世界として捉えようとするおばちゃんの姿勢に、感動することが多いのだな、僕は。




ナスのおしたし。これも京都三条会商店街の八百屋のおばちゃんから教えてもらったもの。

ナスのおしたしについては、もう何度も書いているのだが、ナスをおしたしにするって、知らない人も多いのじゃないかと思うから、もう一度書いておく。ってたぶん、また書くと思うが。

要はナスを丸ごと茹でて、それを水にさらさず空気中で自然に冷まし、よく絞り、あとは好きなものをかけるなり和えるなりして食べればいいという話。

昨日はおかかに醤油で食べたが、これも非常にうまい。すりごまに醤油でもいいし、ごまだれを作ってそれで和えてもいい。

ナスをゆでる時、八百屋のおばちゃんに「塩は入れるのか」と聞いたら、

「うーん、ほんーのちょっぴり」

という言い方をしていたのだが、これは色々やってみて、塩は入れないほうがいいのだな、たぶん。

ナスはゆでているうちに、大量のアクが出て、それでゆで汁が真っ青になってしまうわけだが、塩を入れると、これがナスに戻ってしまうのじゃないかと思う。そうするとナスの身が、青く染まってしまうから、それより塩はまったく入れないほうが、ナスの色がきれいになる。たぶん。

ナスのおしたしは、やわらかくて甘く、しかもほんとにさっぱりしているから、2本分くらいのナスは、一人で軽くイケてしまう。

ぜひ試してみてください。




朝飯は、これは完全に定番のうどん。うどんは冷凍。




昼飯は、これも完全に定番の塩焼きそば。

豚肉と野菜を炒め、そこに酒と少なめの醤油、それにすりおろしたニンニクとショウガのタレをジャーと入れる。続いて焼きそば麺を入れ、塩コショウして炒め上げる。

これは何度食っても非常にうまく、またビールが最高に合う。