2011-05-16

高木仁三郎 「いま自然をどうみるか」


僕が「原発の問題にとりくんでみたい」と相談したら、お世話になっている先生が、「まずこれを読んでみなさい」と教えてくれた、2冊の本のうちの、もう一冊。
「これがほんとにいい本なのよ」
と、いかにも惚れぼれとした様子で、先生はこの本のことを褒めていた。

アマゾンで注文したら、しばらく絶版になっていたものが、震災を機に注目がたかまり、つい最近再版されたとのこと。僕は以前から、自分が読むべき本が、まさに読むべきときに、次々と出版されるという、強運のもとに生まれていると自負している。幸せなやっちゃ。

ということで読んだこの本、実際すごい本だった。自分にとって、巨大な出会いで、これを僕は、これから繰り返し読む座右の書としたい。僕がまさに今、これからやりたいとおもっていることが、ほぼそのとおり、しかもはるかに明確に書かれている。これを僕にすすめた先生は、
「あなたがいま見つけたとおもっていることでも、他のひとが、ずっと前から取り組んでいるということだってあるんだから」
といっていたのだが、いやまさにそのとおり。やはりひとには、何でもきいてみるもんだ。

僕にとって、今回の東日本大震災、そして福島の原発事故は、人生において、ほんとうに巨大な経験だった。

僕はまず、震災の直後、これからこれを復興することは、「日本をあらたにつくり直すことである」というビジョンをみた。ひとがただ、自分勝手に、自分の利益を追求していくばかりでなく、おたがいに助け合い、慈しみ合っていく場所としての「日本」。震災後の一瞬だけ、固い大地が裂けるかのようにして、それは垣間みられたのだったけれど、いまはふたたび、開いた大地は閉じてしまった。でもひとびとの心の奥底に、そういう気持ちがあるということは、たしかに確認できたのだから、それをどうしたら、ふだんの生活のなかで、取り出していくことができるようになるかというのは、考えてもバチは当たらないだろう。

それからもうひとつ、そういう日本をつくっていこうとするときに、最大の障害となるものが、原子力発電所、およびそれを取り巻く、産官学の日本の体制、さらには核をめぐる国際情勢、そういうものであることもはっきりわかった。

原子力の危うさは、ただ「放射能が危険だ」ということにはとどまらない。それをけっして、中和したり、自然に帰したりすることができない、「放射性物質」という存在そのものについての危うさなのだ。それは「科学」というもののなかで生み出され、ひたすら自然を破壊するというところ以外には向かわない。巨大なエネルギーを管理するために、巨大な権力が必要とされ、その権力は、今度は人間のこころを蝕んでいく。ひとびとを甘い言葉でねむらせて、その間にどんどん、自分は大きくなっていく。映画やおとぎ話かとおもうような世界が、まさに現実だったのだ。

これから、それに立ち向かっていくためには、ひとりでも多くのひとびとが、科学者やら、政府やらのいうことを、盲目的に信じてしまわず、ほんとうにそれでいいのかということを、生活実感のなかで理解しようとし続けていくこと、それに尽きるのだとおもう。ひとりひとりが目を覚まし、関心をもち続けることが、けっきょくは世界を変えていく。そのためには「運動」が必要だ。僕はこれから、その運動を組織するということを、やっていきたいとおもっている。

などということを、震災以来、ぼつぼつと考えていたところ、高木仁三郎というひとは、それを何十年も前から、やってきたひとだったのだ。この「いま自然をどうみるか」には、その基本的な考え方が、くわしく書かれている。高木氏にとって「反原発」ということは、ただ反対運動だったのではなく、科学を批判的にとらえることにより、それを乗り越え、あらたな世界に至るための、象徴的であり、かつ具体的な課題だったのだ。僕はあまりに共感するところが多く、後半はもう一気に読んでしまった。

ただ一点だけ、高木氏はそれを、
「オルタナティブな科学」
と呼んでいる。「あたらしい意味での科学」とでもいうようなことかとおもうが、それはあくまで科学なのだ。高木氏にとって、目指すところは、ひとりひとりが「オルタナティブな科学者」になることなのだろう。

しかし僕は、科学者ではないわけだから、それは目指せないし、また目指そうともおもわない。科学者でもない、一般の素人が、自分の生活実感の全体に、科学を批判的に位置付けていく運動。僕はそれを、
「科学批評運動」
と呼んでみたい気がしている。

今週じつは、生前高木氏が代表をつとめた、「原子力資料情報室」へおうかがいし、話をさせてもらうことになっているのだ。それを踏まえながら、またぼつぼつ、いろいろ考えてみたい。