2011-04-18

嵐山「森嘉」の豆腐

まあ僕もそろそろ仕事をしないといけないということは、前にも書いたとおりで、ハローワークで紹介されたところへ面接に行ったりなんだりしているわけなのだけれども、今週末からじつは改めて、自分のこれからの人生についてよくよく考えてみたわけなのだ。

僕はこれまで、まあそれは僕がこれまでずっと「勤め人」だったということだとおもうが、「自分の人生」というものについて、あまり深く考えたことがなかった。考えること自体は嫌いではなく、とくに自分に与えられた課題について、いろいろと考えるということは、もちろんこれまでもしてきたのだけれど、自分の人生そのものを考える対象にするということは、あまりしたことがなかったのだ。

というよりは、それは正確にいうと、考えてみたことはあったが、「とくに何も思い付かなかった」ということだ。しばらく考えても思い付かないから、それで考えるのをやめてしまっていた。そういうことは、「考えても仕方ないだろう」ともおもっていた。

でもこのごろ、原稿を書くようになって、何を書くのか考えるときに、初めは何も思い付かなくても、そのまま考えつづけていると、手がかりも何もないところから、徐々に何かが、ぼんやりと固まりはじめ、そのうちそれが、だんだん明確になっていくという体験を何度も重ねるようになり、そういう体験を踏まえてみると、今まで自分が自分の人生について、考えようとしたけど何も思い付かなかったというのは、ただ単に、考えつづけることをせず、途中でやめてしまっていただけなのではないかということに初めて気付いたのだ。

それで週末から、ネチネチと、いろいろ考えつづけて、ひとつの結論を得た。

自分が「やりたいこと」というのは、僕はまさにいま実践しているのだけれど、「仕事」という側面をふくめて考えたとき、僕はいま、「やりたい」というよりは、「やらなければいけない」と感じていることがあり、そのことと、自分がこれまでの経験のなかで獲得してきた「できる」ことや人脈とか、「機会があればやってみたい」とおもっていたこととかとが、今回つながったわけなのだな。

まだ細かいことはまだよくわからないところも多々あり、だいたいそれが仕事として成立するものなのかどうか、甚だ自信はないのだが、そちらに一歩踏み出すことに、もう決めてしまった。というか、予定していた面接を断って、そのことについて話をするために、いま約束の場所に向かっている。

人生は一回きりで、どうせいつかは誰でも死ぬのだから、それほど怖れることもないのだよな。

昨日の晩めしは、おとといもそうだったのだが、嵐山「森嘉」で買った豆腐を湯豆腐にした。

さすがにうまくて、スーパーで買う78円の豆腐とはエライちがいなのだけれど、森嘉の豆腐は「白豆腐」という、絹ごし豆腐一種類で、僕は今まで、絹ごし豆腐は敬遠してたのだ。

なぜかといえば、「箸で取りづらい」からで、僕は人生において、絹ごし豆腐を箸でうまくつかめたことが一度もない。それでいつも、木綿豆腐にしていたのだが、今回嵐山「西山艸堂」で湯豆腐を食べたときに、レンゲだとか、小さな穴あき杓子とかが付いてきたのを見て悟ったことは、絹ごし豆腐は無理に箸であつかわなくてよいのだな。そういうものですくって取ればいいわけなので、大きめに切った豆腐をスプーンで切り取って湯から出すようにしたら、なんとも快適、どうして今までそうしなかったのかと、僕の頭のかたさを嘆くに至った。

タレは醤油におかかをふり入れ、それだけだとすこし塩っぱいので、鍋の昆布だしで割る。器も平たいものにせず、「西山艸堂」で使われていたのとおなじような、横が垂直に切り立ったタイプのもの。こういう器だと、豆腐を箸で持ち上げなくても、器に口をつけ箸で押入れるということができるようになるというわけだ。

あとは鶏モモ肉の塩焼き。

それに嵐山で買ってきた佃煮と漬物。いかなごのくぎ煮と、椎茸昆布、菜の花漬。

酒は岩手の「あさ開」。