2008-07-04

今日のあれこれ

『カレーライスの謎』(水野仁輔著)という本を読んだ。副題が「なぜ日本中の食卓が虜になったのか」となっている。



著者は「出張調理ユニット」というものを結成し、年間に100種類くらいのカレーを作るのだそうだが、ある時市販のカレールーを使って作ってみたら、めちゃくちゃおいしくて、改めて感動してしまったのだそうだ。
このカレールーとは何者なのか、そしてまた、何故カレーは、日本の国民食と言われるまでになったのか、明らかにしたいと思い、研究を始め、この本を書いた。

途中まではそれなりに面白く読んだのだが、結論が、それって、結論になっているんだっけ、と思うような感じだった。
要は、ヱスビー食品とか、ハウス食品とか、江崎グリコとかのカレールーのメーカーが、綿密に市場調査をし、スパイスの調合・配合に研究に研究を重ね、生産技術の革新をし、広告宣伝をし、頑張って営業活動をし、たがいに競争し、そういうことを何十年も続けてきた結果、小さな子供から大人まで、男性も女性も、あらゆる日本人が大好きになり虜になるような、そういう素晴らしいものが出来てきたのだ、という話。

うーん、いいんだっけ。莫大な数の人間が莫大な時間、費やしてきた結果生まれてきているものだから、一人の調理人や一つの店がちょっとくらい頑張ったって、敵うわけがない、ということにもなり、著者はカレーの料理人だから、敗北宣言にも近い内容とも言える。
ぼくは家のカレーが店のカレーよりおいしいのは、全部をぐつぐつ煮るというプロセスにあると思っていたのだが、そうではなく、ルーが凄かったのだ、ということだ。
外国の料理人や、インド人までもが、日本のカレーは大変美味しいと言うのだそうだ。

ある実験のことが書いてある。主婦4人がカレーを作る。3人はベテラン主婦で、それぞれ自分なりに色々な材料を入れてみたり、隠し味をつけてみたりする。1人は新米主婦で、箱に書いてある作り方の通りに作った。
それを食べ比べをしてもらった結果、箱の作り方の通りに作った、新米主婦のカレーが、いちばん美味しかったのだそうだ。
余分なものを入れてしまうと、メーカーの考えた味の調和が崩れてしまう、ということだそうだ。

うーん。どうも釈然としないのだが、何が釈然としないのかもよく分からないので、この話題はこの辺で。

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再びさざんかでお好み焼きを食べた。
僕が行ったら誰もいなくて、おばちゃん、暑くてバテていたみたいなのだが、行くとまた色んなこと、ずーっと話しをしてくれて、帰る頃にはずいぶん元気になっていたみたいだった。
お客さんと接することが、ストレス解消なのだ。まさに天職なのだろう。



ここのお好み焼き、たぶん50年前、おばちゃんが焼き方を習った頃のやり方を、そのまま頑固に続けているのだろうと思う。
鉄板に生地を丸く敷いて、かつお節の粉をまぶして、まず焼きそばの麺を袋から取り出して、ちょこっとソースをつけて鉄板でちゃっちゃっとやって、それを載せてしまう。
その上に、キャベツ、もやし、青ネギのざく切り、豚三枚肉。そしてひっくり返す。
普通は揚げ玉を入れるのだけれど、おばちゃんは入れない。とろろ昆布なんかを入れる所もあるが、もちろん入れない。

ひっくり返したその上から、コテを2つ使って、両手で上から、ずっと押さえている。押しつぶすという感じではないのだが、ただ触っているというのでもない。
揚げ玉というのは、たぶん要は火を加えることでそれが溶けて、野菜に油が行き渡り、火が通りやすくなる効果があるのだろう。また小麦粉によって、キャベツのホクホク感を出すことにも役立っているかもしれない。
それを入れないわけだから、きちんと押さえないと、うまいこと火が通らないのだと思う。

卵を割って、コテで黄身をつぶして、火を通した本体を載せ、ややしばらくしてひっくり返す。
オタフクソースを塗って、味の素をひと振り、白ゴマをかけて、完成。青のりもこしょうもかけない。

キャベツがけっこう大きく切ってあって、その柔らかく甘い歯ごたえが、きちんとキャベツを感じさせる。また同じオタフクソースなはずなのに、酸味や甘みが強く出ずに、コクを感じる。
余分な材料や調味料を一切使っていないから、その分素材の味、ソースの味、それが真っ直ぐ伝わってくるのだろう。

広島風お好み焼きとは、もともとこういうものだったのだろう。
そこに色んなものを加えることで、手早く、楽に作れるようになり、また豊かな感じはしていくが、何者だったのか、分からなくなってしまう所もあるかもしれない。
そうではなく、あくまで基本に忠実に。手は抜かないし、人の気を引こうと余分なこともしない。
上品とは、そういうことだろう。
それがおばちゃんのお好み焼きなのだと思う。

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土日は松江。日記は更新できないかもしれません。

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