2008-04-20

読売新聞

新聞は読売新聞を読んでいるのだが、四コマ漫画の『コボちゃん』に、三日に一度くらいの頻度でくすっと笑ってしまう。時々大笑いすることもある。コボちゃんは今日で9237回目、25年ほど続いている計算になる。連載初期ならいざ知らず、25年たった今でもここまで笑えるということに、正直驚く。

今日のコボちゃんも、それなりに面白かった。コボちゃんがお父さん、お母さんと歩いているところに、歩きタバコをしている男性が通りすがる。お母さんはお父さんに「注意しなさいよ」と促す。お父さんが「歩行禁煙ですよ」と意を決した顔つきで呼びかけると、お父さんに何やらヒソヒソと耳打ちする男性。立ち去る男性を背に「極秘の聖火リレーだって」と、嬉しそうなお父さん。「そんなわけないでしょ」と憮然とした顔でお母さん。

「歩行禁煙が極秘の聖火リレー」というアイディア自体もかなり面白いと思うが、さらにそれを四コマという流れの中にどう展開させていくかということが、漫画家の腕の見せ所だろう。コボちゃんのお父さんも、サザエさんのマスオさんと同じく、どうやら入り婿のようで、家庭内での立場は弱い。他人の歩行禁煙を、お母さんに言われて注意しに行くお父さん、というシチュエーションを背景にストーリーが進み、最後のお母さんの突っ込みで終わる。

この最後のお母さんの突っ込みだが、他の漫画で慣れたセンスからすると、ちょっと余分な感じもする。「極秘の聖火リレー」というアイディア自体が十分面白いのだから、それを出したらその後にはあまり続けず、せめて登場人物にずっこけさせるくらいにして、さくっと終わらせるというのが定石なのではないだろうか。でもここで敢えて憮然とした顔のお母さんに「そんなわけないでしょ」と突っ込ませることで、ただアイディアの提示に終わらない、コボちゃん家族の日常の風景が見えてくるのである。ここに、コボちゃんの面白さの秘密があると思う。

読売新聞は読み出して半年ほどになるのだが、その前は数年、日経新聞を読んでいた。その前はやはり数年、毎日新聞、そしてその前が朝日新聞。その前、結婚して自分で選んだ最初の新聞が、読売新聞だった。

読売新聞というと、どちらかというと「インテリじゃない人が読む新聞」に分類されるのではないかと思う。実際スポーツに興味のないぼくには、読売ジャイアンツについての大量の記事は全く意味がない。また家で主婦が読むことを考えてのことだろう、家庭欄も充実しており、だから読売新聞の紙面の半分は、ぼくはほとんど読まない。

さらに最近、読売新聞は「メガ文字」という、どの新聞よりも大きな活字を採用した。 これは高齢者を対象にした戦略だろうから、これもぼくにはあまり関係ない。要は読売新聞というのは、ジャイアンツ好きという、どちらかというと保守的な男性と、主婦と、そして高齢者を相手にしたものなのだ。

今ぼくの年齢くらい、四十代くらいの、仕事をバリバリやる人たちが中心的に読んでいる新聞と言えば、日経新聞だろう。駅の売店で買って、行きの電車で読むというのが定番だ。「株屋の新聞」と揶揄された時代もあったようだが、今は「世界経済と企業経営」を中心テーマに据え、将来は社長か重役に、と密かに思う、若いキャリア達の心をぐっとつかんでいると思う。そういう人たちの目から見えれば、電車で少年ジャンプを読む人間は、負け組みの典型だろう。そんな趣旨の広告も、たしか日経新聞は打っていたと思う。

ちょっと前ならたぶんそういう人たち、社会の中心的な担い手のうち、問題意識を持ち、何事にも前向きに取り組んでいくような人たちは、朝日新聞を読んでいたのではないだろうか。ぼくより一世代上の団塊の世代くらいの、大学生時代に学生運動に熱心に取り組んだような人たちは、たぶんみんな朝日新聞だったのではないかと想像する。しかしおそらく今、朝日新聞はその座を日経新聞に明け渡したのだ。それは冷戦下のイデオロギーの時代が終わり、グローバル社会の中での熾烈な競争の時代に突入したことの、一つの表れなのだと思う。

新聞の役割は、一つにはもちろん、様々な出来事を速報するというところにある。またその時、「中立である」という、出来事の当事者のどちらの側にも与することなく、客観的な記述をすること、が求められているだろう。

しかし新聞の役割はそれだけではない。個別の出来事の背後にある、「社会全体と」いうものについて論じ、それがこれからどのようになっていくと予想されるのか、また社会の構成員たる一人一人がそれに向けてどうしていくべきなのか、について、読者が考える機会を与えなければいけない。それは新聞というものの社会的な使命だろう。

ところがこれは、実は大変難しい問題である。社会の「全体」となった瞬間に、個別の「出来事」の時には可能であった、「当事者と報道する側の切り分け」ができなくなる。報道する側も、社会全体を構成する当事者の一員になってしまうからである。

朝日新聞はおそらく、それをあくまで認めず、社会は個別のみならず全体としても、客観的に分析し、論じることが可能であると信じた。それはまた共産主義の思想が信じたものでもある。社会を科学的に分析可能な対象物としてみなし、その分析結果に基づいて「共産主義社会」が理想のあり方であると提案する。しかし共産主義社会が見るも無残な独裁国家に成り果て、そして没落していった経緯が、それが幻想であったことをはっきり示している。朝日新聞の凋落は、それと軌を一つにしている。

それに対して日経新聞は、「社会全体を論じる」ということを巧妙に避けている。自分たちはあくまで「経済についての新聞」である、という理屈だろう。日経新聞は社会の全体的な問題についても、常に「経済」とか「経営」とかいう視点からのみ、物を言う。それが独自の歯切れよさを生んでいる。

しかし本当は、それは欺瞞である。社会が経済とそれ以外の世界にはっきりと分けられるわけではない。今の経済活動の大前提となっているグローバル社会の今後というものは、経済という視点だけからでは絶対に考えられない。そのような重要な問題を置き去りにしておきながら、あたかも自分がオピニオンリーダーであるかのような振る舞いをすることは、社会にとっては本来、百害あって一利なしである。

この問題について、読売新聞というのは、ひと言で言えば「ナベツネ」なのだ。読売新聞は社会全体について、一般誌として朝日新聞と同様、また日経新聞とは異なって、かなりはっきりとした主張をする。ところがその内容は詰まるところは、ナベツネ個人の主張なのである。

あのナベツネという人、好きかと言えば好きではない。自分が好き、という感じで、見るからに暑苦しい。以前、日経新聞の『私の履歴書』にナベツネが登場していたが、いかに自分が素晴らしいかを一ヶ月に渡って延々と書き続けており、正直げんなりした。しかし結局、全部読んでしまったが。

ナベツネは政治にも積極的に介入する。『私の履歴書』にも、これまで様々な政治的な局面において、政治家同士の会談を設定するなど、自分が一定の役割を果たしてきたことが自慢げに書かれている。全くもっていけ好かないおやじなのだが、でもありもしない幻想を抱いたり、本当はしないといけないことをしないで、さらにそのしていないことが、もともと存在すらしなかったというような顔をしたりするよりは、ましだと思うのだ。

まぁこういうことを書いたからって、ぼくが新聞にたいして取り立てて何かの期待をしているというわけではない。これから読売新聞を読み続けると、決意しているわけでもない。だいたいナベツネが死んだら、読売新聞はどうなるのだろうと思うし。ただこういうことって大事だよなと、書きながら自分に言い聞かせているのである。

ちなみに今日の読売新聞の書評欄に、面白い書評が載っていた。
小倉紀蔵評 『テロリズムを理解する』(F.M.モハダム、A.J.マーセラ編)
「テロとはらっきょうのようなもの」だそうだ。「外側からいくら皮をむいても、結局中身は逃げてしまうのだ。それは、学者たちが自分をテロの外側に置いているからだ。自分の内面とテロリズムが実はつながっている、という自己破壊的な自覚から出発していないからだ」という。誠に同感である。

またこれも面白かった。
米本昌平評 『精神疾患は脳の病気か』(エリオット・S・ヴァレンスタイン著)
多くの医学書に「精神疾患は脳内の神経伝達物質のバランスの欠如に因る」と書いてあるが、それが患者本人、家族、製薬会社、医師、保険会社など、関係者によって好都合であるために、実際より過大に喧伝されているということなのだそうだ。同じようなことに「胃潰瘍の原因はピロリ菌である」というのがあると思うのだが、こちらはどうなのだろう。

あとこれも。
土居丈朗評 『現代の金融政策-理論と実際』(白川方明著)
政治の駆け引きの中で、図らずも日銀総裁になってしまった白川氏だが、この自著ではバランスの取れた主張をしているそうである。今後白川総裁は、活躍できるのだろうか。