2008-04-16

味の素

ある年の正月を一人で過ごさないといけない羽目になり、せめて雑煮くらいは食べたいと、鶏がらの出汁を取ることを決意した。

子供の頃から料理は嫌いではなく、幼稚園の時代には得意のいり卵を作り、友達の女の子を招いて食べさせたこともある。それから腕前が上がることはなかったが、カレーとかラーメンとか、炒め物とか鍋物とか、そんな簡単なものにちょこちょこ手を出してはいた。

しかし出汁というものを取るのは初めて。よく洗った鶏がらを大鍋に張った水に沈め、とろ火にかけた。それから延々数時間、沸騰させないように気をつけながら、丁寧にアクを取っていると、それまで黒っぽく濁っていた水が、ある時すーっと白く澄んでいく。出来上がった鶏がらスープはまさに美味、雑煮にしたり、また鶏の水炊きに使ったり、さらにそれで茄子を煮てみたり、たっぷりと満喫した。

それから俄然、料理が楽しくなった。それまで料理を作るということは、レシピを見て作るものを決め、そこに書いてある材料を買い揃え、書いてある作り方の通りに作るものだと思っていた。しかし一旦おいしい出汁が取れると、その出汁を使って、今度は何を作ろうかと自分なりに考え始める。

とりあえず冷蔵庫にあるものを思い浮かべたりしながら、「茄子を煮てみようか」と思ったりする。でも「煮る」と言ってもそのやり方も知らないから、出汁に醤油だけを入れて煮てみたりする。出汁がおいしければ、ちょっとくらい変なやり方をしても、そこそこ食べられるものになる。食べてみて、ここはこうすれば、もっとおいしくなるだろうかと考え、次に実際それをやってみる。そんな風にしていくと、料理を内側から、自分自身で見つけていくという感覚になるのである。

もちろんレシピを見るのも嫌いではない。しかしそんな風に自分で料理を見つけられるようになると、レシピに書かれている材料や分量の意味、料理法そのものの構造といったものも、だんだんと読み取れるようになってくるのだ。

料理の本来の楽しさ、本来のあり方とは、こういうものなのではないかという気がする。人類の歴史100万年、その間を生きた全ての人間が、毎日物を食べるに当たって、ちょっとでもおいしいものを食べたいと思い続け、小さな工夫を積み重ねてきた。料理法とはそういったプロセスの集大成であり、人間の叡智の結集なのだ。レシピとはその表面だけを切り取ったものであり、本当はその背後に、そのレシピが成り立つに至る、人間の営みの巨大な領域が存在するのである。

レシピというものをそのように読み取れるならば、それは料理というものの全体を理解する大きな助けになるだろう。しかし、レシピの簡潔さを、それだけのものとして額面どおりに受け取ってしまうと、料理をただ表面からしか見られないということになってしまう。それでは少なくとも料理の面白さを知ることはできず、またおそらく、その本質に到達することもできないだろう。

そのような、料理の「簡便さ」というものの負の側面に思いを馳せる時、その中心に位置するものが、「味の素」であるという気がする。

長い時間をかけながら料理法が確立していくという時、どのようにして素材のアクやえぐみといったものを取り除き、うまみだけを引き出すのか、さらには複数の素材に由来するうまみをどのようにして融合し、調和させていくかということは、おそらく中心的な課題と言えるだろう。料理というものはもともとは、材料を全部水に入れ、そのまま煮て味をつけるというやり方が出発点だっただろう。実際このやり方は、どんな国の料理にも必ず存在する。このやり方では、料理の完成は即ち、出汁の完成でもある。料理をすることと出汁を取ることが分離していないのである。

そのうちそのプロセスが分割され、「出汁をとる」という作業が単独に取り出されることになる。さらにそれが科学の力によって推し進められ、出汁の構成成分のうち人間がうまみとしてを感じる成分のみを抽出し、粉末として取り出すことが可能になった。それが味の素である。

味の素を水に溶かせば、それだけで出汁ができてしまう。これほど簡便なことはない。しかしその時、「出汁をとる」ということが何なのかということは、全く見えなくなってしまう。それは即ち、料理ということが何なのかが見えなくなってしまうのである。

味の素はさらに、味の素の販売促進の一環として、味の素を使った料理の料理法を、レシピの形で世に広める努力をしていった。そしてその努力の結果、それが料理であると誤解する人間を大量に作り出すことに成功したのである。これはすでに重要な文化の破壊行為であるとも言える行いである。またそれが破壊行為であると一般には認識されていないことが、実はさらに深刻な問題なのである。