2013-06-02

池波正太郎 『食卓の情景』

池波正太郎『食卓の情景』

料理に興味がある人間として料理本を読むのはもちろんのことだが、もう少し広く、「食」についてのエッセイにも興味があり、色々と探して読み漁ったことがある。

料理本としては、檀一雄 『檀流クッキング』 が圧倒的におもしろいと思うのだが、「食のエッセイ」とすると、この『食卓の情景』は、それと匹敵するほどおもしろい。

『檀流クッキング』 と 『食卓の情景』 が、ぼくにとっては金と銀、食についての自分の師匠になっていると思える。





まず何がいいといって、池波正太郎の筆がいい。
元々新国劇の脚本を書いていただけあり、文章に独特のリズムがある。
このリズムに絡め取られると、もう池波正太郎の世界から抜け出せなくなってしまう。

そのリズムのある文体によって紡がれるものは、自宅での食事から、全国津々浦々の料理屋での食べ歩き、昔食べたもの・・・。

いずれもまざまざと目に浮かび、涎が出そうなほどおいしそうに描かれており、池波氏の筆の力はもちろんのこと、池波氏の食へのこだわりのほどが窺われるものになっている。



しかしこの 『食卓の情景』 は、単に食についてのエッセイにとどまらない。

食を通して、池波氏の生活や、友人との出会い、昔の思い出・・・、などなど、池波氏の人生そのものを現すものとなっている。

であるからして、そこにははっきりとした、池波氏の主張がある。



以前知り合いの、ぼくと同年代の女性に、この 『食卓の情景』 を薦めたことがあった。

彼女はこの本を一応は本屋で買い、パラパラとページをめくってみはしたが、けっきょく読み通すことができなかったらしい。

「私はダメだわ、あれは・・・」

ぼくはその理由をはっきりとは聞かなかったが、何とはなしに、分かる気はした。



『食卓の情景』 の中の、「大阪から京都へ」というエッセイの中に、ぼく自身が「最も印象的である」と思う一節がある。

池波氏は京都で偶然であった若い友人「片岡君」と、京都の料亭で食事をする。

見事な料理を食べ、「どうだ、うまかったかい?」と池波氏に聞かれた片岡君、

「でもぼくはほんとうは、納豆と味噌汁が食べたかった・・・」

はにかんだようにうつ向きながら言うのである。

片岡君の奥さんは、「納豆と味噌汁など下等だから」と、毎朝ハムエッグにトーストしか食べさせてくれないのだそうだ。

それを聞いた池波氏、舌打ちして啖呵を切った。

「君のような若いのを、おれは二人も三人も知っている。
食べたくないものが出たら食卓(おぜん)を引っくり返せ。
そうでないと、一生、食いたいものも食えねえぜ・・・」



知り合いの女性が引っかかったのは、おそらく池波氏のこういうところであったのではないかと思っている。

池波氏は、「男が自分の食べ物を、自分で考える重要性」を、『食卓の情景』 で強く主張する。

しかしそのとき、池波氏がとるやり方は、上のようにお膳をひっくり返すことであったり、また奥さんとお母さんの「二人の女」を、叫び、怒鳴り、叱り、脅すことによって屈服させることであったり・・・。

それらのことは現代から見れば、男尊女卑、封建主義、戦前文化の悪しきことの典型であり、現代の女性が受け入れられないのも、もっともなこととも思える。

食事が気に入らず、ご主人がお膳をひっくり返しでもしたら、今なら奥さんに即、離婚されるのは、まちがいのないところだろう。



池波氏も、現代がそのような時代であることくらい、言われなくても分かっていたにちがいない。

しかしそれを、敢えて主張したのが、この 『食卓の情景』 なのだとぼくは思う。

「一部の反感があったとしても、言っておかなくてはならないことがある・・・」

池波氏はそのように考えていたのではないかと、ぼくには思える。



『食卓の情景』 はそのような本だから、すべての現代の男性が、読んで得るところがあるのではないかとぼくは思う。

またおそらく女性も、興味深く読めるのではないか・・・。



「おっさんはお膳をひっくり返すの?」

チェブラーシカのチェブ夫と『食卓の情景』

いや、だからぼくは、自分で作るんだ。






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※ 池波正太郎氏その他のオススメ本

『そうざい料理帖 巻一』

『そうざい料理帖 巻二』



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