僕は毎日規則正しく酒を呑んでいるわけですが、普段はそれほどの量を呑んでいるわけでもありません。
だいたい2合弱。
150cc入るコップに2杯の日本酒です。
よく「休肝日を設けたほうがいい」とかいうわけですが、それよりは、毎日きちんと呑んだ方が、体にいいんじゃないかと思うんですよね。
だいたい酒を呑まないと、その日は眠れなくなったりします。
といって、酒がないとまったく眠れないというわけでもなく、眠れないのはその日か、次の日くらいの話で、3日もすれば眠れるようになる。
これは体が、毎日の習慣で酒が入ってくるのを待っているところに、こちらの都合で勝手に酒を呑まないと、体のほうは予定通り、普段ならアルコールを分解するのと見合うような、何らかの活動を、アルコールなしでしてしまうのじゃないかと思うんですね。
それで、普段なら重い荷物を積んで走っているトラックが、空荷で走るような状態になってしまい、ついスピードが出すぎて眠れなくなってしまう・・・。
そうやって、体のほうがアルコールを待っていてくれるなら、そりゃ呑んだほうがいいのじゃないか、というわけです。
酒を呑まない人は、酒呑みが何のために酒を呑むのか、わからないところがあるでしょうけど、僕も自分で、酒がなければ、自分の人生はどんなだったろうと思うことがあります。
だいたい、金がかかる。
僕はここ数年こそ、家で呑むようになっていますが、それまでは毎晩、外で呑んでいました。
そうすると、少なく見積もっても、ひと晩で3千円くらいのお金はかかるわけで、そうすると、1年でざっと100万円。
それを20年以上は続けてきていますから、数千万のお金を、酒を呑むのに使ってきているわけです。
家が建っちゃうという話ですね。
それでそれじゃあ、酒を呑んで、何かいいことがあるのかと言われれば、返す言葉はないのだから、まったく酒など、呑まない方がいいに決まっています。
しかしよく登山家が、「どうして山に登るのか」と聞かれて、「そこに山があるからだ」と答えるような話で、酒呑みが、「どうして酒を呑むのか」と聞かれると、「そこに酒があるからだ」と答えるしかない。
酒を呑む理由など、ないですね。
昨日は魚屋へ行ったら、天然物の鯛のでっかい切り身、ちょうど真ん中のあたりの、脂が乗っていて一番うまい部分、300円で売ってました。
鯛は「桜鯛」といわれて、春が旬なわけですけれど、今年は豊漁で、値が下がっているのだそうです。
それで早速買って帰り、塩焼きにしました。
それから、八百屋でスナップエンドウ。
これも今が出盛りです。
筋を取り、さっとゆでて、おかかにポン酢醤油。
こういうものを肴にして、日本酒を呑むと、日本人としての幸せを、つくづく噛み締めることになるんですね。
あとは豆腐屋で厚揚げを買って、味噌煮込みおでん。
みりんも砂糖も、まったく入れずに、甘みはなしでやったんですが、やはり肉のように、こってりしたものならそれでもいいけれど、こういうあっさりしたものを炊くには、すこし甘みを入れたほうがいいなと思いました。
だけどおいしかったです。
青ネギと、一味唐辛子をたっぷり振るのがポイントです。
日本人は、料理に砂糖を入れるわけですが、これって世界的に見ると、珍しいんじゃないでしょうか。
中国料理は、甜麺醤は甘いですが、一般にはそれほど、砂糖は使わないでしょうし、西洋の料理でも、砂糖はあまり使わないでしょう。
中国人に言わせると、これは昨日亡くなった邱永漢も、それからウー・ウェンも、著書の中で書いていますが、
「日本人は砂糖を使って、材料の自然の味を大切にしない」
となるわけですが、そんなことを言うのなら、こちらだって、
「お前らだって、ニンニクばかり使いやがって」
と言いたいところです。
まあしかし、日本人は歴史的に、肉は食べない、ニンニクは使わない、ということできているから、そこで料理のコクを出すためには、砂糖が必要だったということなのでしょう。
でもそれだけじゃなく、砂糖を「醤油」との組み合わせで考えると、料理に砂糖を使うことは、いかにも日本人らしいと思えるところもあるんですね。
醤油と砂糖の組み合わせは、他の調味料にはない、一種独特の不思議なところがあるのじゃないかと思います。
醤油はまず、まったく砂糖を入れなくても、おいしいのは言うまでもないわけで、料理にただかけてもいいし、すまし汁のように、だしに醤油だけで味付けしてもおいしい。
ところがこれが、砂糖を加えると、味が無限に変化することになるわけですよね。
人間の感覚は、甘みと塩味が相殺するようにできているでしょう。
砂糖と醤油を両方入れると、砂糖の甘みと醤油の塩味を別々に感じるのでなく、砂糖と醤油の割合に応じて、味を感じるようになっている。
砂糖をたくさん入れても、醤油をもっとたくさん入れれば、それは「塩からい」と感じることになるんですね。
それじゃあ砂糖をたくさん入れても、醤油を入れてしまえば、甘くなくなるわけだから、砂糖を入れる甲斐がないかといえば、そういうわけではない。
砂糖と醤油をたくさん入れると、塩辛さはおなじでも、「こってり」するというわけなんですね。
コクが出てくるということです。
ですから、砂糖をまったく入れない、お吸い物のような「うす味」のところから、砂糖と醤油をたくさん入れた、煮魚の煮汁のような「こってり」とした味まで、おなじような塩加減で無限のグラデーションができることになり、日本の料理は、この味の「濃さ」を加減することで、あらゆる料理に対応することになっている。
だしそのものを味わうときには、砂糖はまったく入れずに味をうすくして、野菜を炊いたりするときには、すこし濃くして、魚や肉などに対しては、砂糖をたっぷり入れてこってりさせて、というようにする。
この醤油と砂糖によって作られる味の「濃淡」だけによって、すべてをやり切ってしまおうとするところが、墨の濃淡だけですべてを表現し切る、「墨絵」にそっくりだと思うんです。
中国や西洋の料理では、そうではありませんよね。
やはり中国も西洋も、料理でも、たくさんの「色」を使うように思います。
中国にも、さまざまな種類の「醤」がありますし、西洋にも、トマトやら牛乳やら、調味料自体をいろいろに変化させる。
日本人って、たとえば道具などについても、1つのものの利用法を工夫することによって、すべてに対応しようとするところがあると思うんです。
調理器具でも、
「包丁一本サラシに巻いて・・・」
じゃありませんけど、できるだけ少ないもので、多くのことに対応できるのがいいという美学がある。
それに対して、西洋では、1つ1つの目的ごとに、道具をつくり出していくところがあるでしょう。
「スライサー」とか、ああやっていくつもの歯を取り替えながら材料を切るところを、日本人は、包丁1つでやってしまおうとするわけです。
そういう日本人の精神が、味付けでもまさに生きていて、日本人は、醤油と砂糖の味の濃淡だけで、すべての味付けをしてしまうということなのだと思うんですけど、それはそれで、ものすごく広くて深い世界があるのだと思います。
今朝の日の出。