2012-02-29

連子鯛が安く手に入れば迷わずこれ。
「連子鯛のちり鍋」


季節はようやく、春に向かいつつある。

先週暖かかったところから、今週は一転してまた寒くなり、今日などは東京や東日本では雪も降っているそうだけれど、東京で大雪がふるのは、冬型の気圧配置がゆるみ、太平洋性の暖かく湿った空気が入り込んでくるようになった証拠だ。

僕は、夏がいちばん好きなのだけれど、好きなせいなのか、夏はあっという間に終わってしまい、すぐに寂しい秋がやってくる。

だから徐々に夏の気配が高まっていく、春がいちばんいい。



昨日は北野天満宮へ梅を見に行った。

梅が好きだった菅原道真にちなみ、北野天満宮は梅の名所となっている。

梅苑はとうにオープンしており、25日は梅花祭だったのだけれど、今年の冬は寒かったせいなのか、梅の開花が例年より遅れているらしい。

まだつぼみのままの木も多く、見頃はもうすこし先となるようだ。



夕方、このブログを本にしてくれるという編集者の人と、京都で打ち合わせをした。

編集者は、たぶん30代の女性、同行の編集長もやはり女性で、女性向けファッションのムック本を中心に作っている部署らしい。

ずいぶん忙しいみたいで、明け方の4時頃にメールを送信してきたりする。

7つの案件をかかえ、京都でも、3本の打ち合わせを掛け持ちしたのだそうだ。



ファッション系の本を作る人たちが、どういうわけで、こんなおっさんのレシピ本を作ろうと思ったのかはよくわからないけれど、編集者の人は、僕のブログを気に入ってくれたらしい。

かなり細かく読んでくれていて、ただレシピだけでなく、僕の書いたコラムをたくさん入れたいと言ってもらえたのはうれしかった。

9月の出版だと聞いていたけれど、6月に早まったらしい。

ページ割りの案もできていて、具体的な話をずいぶんした。



そこでおもしろかったのが、「鍋」についての話だ。

僕はご存知の通り、寒くなってからというもの、毎日鍋ばかり食べているのだけれど、ページ割りの案には「鍋」というコーナーがない。

どうしてなのか聞いたら、「一人鍋はウケない」という。

編集者の人も、しょっちゅう一人鍋をするから、一人鍋のよさは十分わかっているけれど、それを記事にすると、どうしても寂しい感じが漂ってしまうのだそうだ。



鍋を食べている本人と、それを記事として見る人との温度差は、僕もつねづね感じている。

本人がどんなに鍋を満喫していても、それを見る側としては、「あんなに鍋ばかり食べて、飽きないのか」と思うところだろう。

鍋は食べている本人にとっては、無限の可能性があるもので、具材や味付けを変えれば、様々にちがった味わいや楽しみがあるのだけれど、傍から見る人にたいしては、それがうまく伝わらず、「毎度おなじようなもの」に見えてしまう。

そう考えてみると、鍋はやはり「ライブ」なのだと思い至った。



音楽が好きな人にとって、ライブが最大の楽しみであることは、言うまでもないだろう。

演奏者と観客がおなじ場を共有し、たがいに呼応しながら一つの表現が生み出されていく。

ライブの興奮や感動は、CDやDVDでは決して得られないものであり、音楽がほんとうに好きな人は、ライブこそ音楽の醍醐味だと言うだろう。

しかしそのライブを、「ライブ映像」として見たときには、話はまったくちがってくる。



ライブ映像には、独特の「寂しさ」があるものだ。

演奏がどんなによく、また観客がどんなに盛り上がっていたとしても、それを「ライブ映像」として見る人にとっては、自分が一人、置いてきぼりをくらっている感じがする。

ライブは演奏者と観客とで、すでに完結したものであり、そのほんとうの良さは、ライブ映像からでは絶対にうかがい知ることができない。

観客の熱狂は、ライブ映像を見ている人の感動とは、次元の異なるものであり、ライブ映像を見る人は、自分とライブ映像のあいだに、決して埋めることができない溝があるのを自覚することとなる。



鍋は、まさにライブだ。

鍋には、「完成」という段階がない。

食べる人により、鍋に材料が次々と入れられていき、煮えたと同時に、完成する間もなく食べられることになる。

あえて言えば、鍋の完成は、シメの雑炊や、うどんを食べるときだろう。

しかしそれは同時に、鍋の「終了」を意味するものでもある。

鍋のおいしさや感動はつねに、鍋を作り、また食べる人との関わりのなかに存在するものであり、それを外から見る人には、ほんとうのところは伝わらない。

鍋は料理の「原型」ともいえるものだと思うけれども、しかし料理が鍋にとどまらず、さまざまな一品料理を生み出すにいたったことは、料理が「ごちそう」として、食べる人との直接の関わりなしに存在するために、不可欠であったということができるのだろう。






と言いつつ、昨日も鍋。

スーパーへ行ったら、連子鯛が300円しない値段で売っていた。

連子鯛は小さいし、沖合でとれるため鮮度も落ちるから、刺身などにはできないが、塩焼きにしたり、鍋に入れたりすると、非常に味がいい。

連子鯛は、安いとはいえ養殖ではなく、あくまで天然だからだ。

安く手に入る真鯛は養殖だから、どうしても味が、ちょっと濁ったところがある。

しかし連子鯛の味は、それとはちがい、さすが天然、澄み切っている。



この連子鯛を、まずサッと焼く。

これは池波正太郎流のやり方なのだけれど、魚の臭みがとれ、香ばしい風味がつく。

鍋に入れるから、べつに中まで火が通らなくても、かるく焦げ目がつく程度でいい。



焼いた連子鯛を、昆布だしに酒をタップリとふり入れた汁で、5分ほど煮る。



あとは豆腐やら、長ねぎやらエノキやらを入れ、ひと煮したら出来あがり。



ポン酢に青ねぎを入れたタレで食べる。



鯛のだしがたっぷりと出た残り汁に、塩と醤油で味付けしてうどんにしたが、ほんとうはこれは、雑炊が一番うまい。



2012-02-28

魚屋で教えてもらった生節料理2品。
「生節おろしポン酢」「生節豆腐」


おっさんの第一の特徴は、「若い人を見ると説教したくなる」ことだそうだけれども、僕はまさにその特徴に当てはまる。

最近は、若い人と接する機会も少なくなっているから、それほど説教することもないけれど、たまに「飛んで火に入る夏の虫」のような人が現れることもある。



最近、2年しばりが終ったイーモバイルを切り替えて、ポケットWi-Fiにしたのだけれど、下りで最大42メガ出るという触れ込みだったのが、使ってみると、1メガいかないことも多い。

500キロくらいのこともあり、そうなると最大値の100分の1ということになる。

もちろん42メガの最大値が出るとは、思ってはいなかったけれども、悪くても10メガくらいは出るのだろうと思うところだろう。

ところが500キロというのでは、自宅の光ファイバーを解約して、イーモバイル一本にしようと思っていた予定が狂ってしまうことになる。



それで調べてもらったら、「利用者が多いから回線が混み合っていて、基地増設も予定がないし、仕方がない」とのこと。

「それじゃ解約したいと思うから、2年しばりの解約違約金なしで解約できるようにしてくれ」と頼んだら、「検討する」と言って、昨日折り返しの電話があったという次第。

結果は「できない」とのことで、まあそう簡単に契約が変更できるわけもないから、それは仕方がないと思ったけれど、担当者の応対が気に入らなかった。

男の子で、たぶん20代だと思うのだけれど、理系の子なのだろう、早口で、いかにも「原稿を読んでいる」という調子、口先だけで、「早く厄介払いしたい」という気持ちがミエミエだったから、それから30分ほど、説教オヤジの出番となった。



説教の趣旨は、「言い方が悪い」というもので、「もっとゆっくりしゃべれ」という話し方指導もあり。

後半は、態度がすこし改善したので、ちゃんと褒め、最後は「ありがとう」と言って電話を切ってやった。

若い頃には、「おっさんは面倒くさい」と思っていた、その通りのおっさんに、いま自分がなっている。

ほんとうは自分も、若者の一員でありたいと思っているのだが、年齢はそれを許してくれないということだ。






近所の商店街に行きつけの魚屋があるのだけれど、そこへ行くのは一種の「賭け」となる。

そう大きな魚屋でもないから、入荷するものも毎日決まっていないし、売り切れになることも多い。

こちらが事前に献立を思い描いて行っても、その通りのものがあることはまずなく、かといって何も買わずに店を出るのは、お店のお兄ちゃんやおばちゃんと仲良くなってしまった手前、できにくい。

そこで店で、一発勝負で買うものを決め、それで何を作るかをその場で考えないといけないことになる。



昨日も予想通り、思っていたものはなかったけれど、「生節」があったので、それを買うことにした。

生節は生のカツオを蒸し上げたもので、僕は京都へ来てはじめて見たけれど、全国に流通しているらしい。

どうやって食べたらいいか、当然わからないのだけれど、そこは魚屋、きけば親切に教えてくれる。

生のままで食べるのが一番おいしいのだから、2切れのうち1切れを、大根おろしにポン酢で食べ、残りの1切れは、それで豆腐を炊いたらいいとのことだった。



まずは生節おろしポン酢で酒を飲む。

シーチキンとちょっと似たところもあるのだけれど、それよりはるかにプリプリしている。

カツオは「たたき」もそうだけれど、ただ生のまま刺身で食べるより、すこし火を入れた方がうまいということなのだろう。

しかも値段は安いのだから、まさに庶民の食べ物だ。



あとは酒を飲みながら、豆腐を煮る。

だしは昆布と削りぶしでとっておく。

これはやはり、ほんだしなどではダメだろう。

せっかくの生節が、かえってまずくなってしまう。

だしに酒とみりん、醤油で味付けした煮汁で、大きめにほぐした生節をサッと煮る。

これは「生節はもう火が通っているのだから、煮過ぎるとパサパサになる」と、魚屋のおばちゃんに念を押された。

4~5分で火を止めて、生節はこのまま、煮汁につけて味をしみ込ませる。



生節を煮た煮汁を別の鍋にとり分け、今度は焼き豆腐を煮る。

魚と何かを炊き合わせるとき、いっしょに煮ずに別に煮るのは、京都の人の得意技だ。

生節は、本当にサッと煮ないといけないし、豆腐はゆっくり煮ないといけないから、いっしょに煮てはいけないというわけなのだ。

豆腐は強い火で炊くとスがはいるとのこと。

沸騰するかしないかくらいの火加減で、30分くらい煮た。



最後に水菜を入れ、だしにひたしておいた生節をもどし入れれば出来あがり。

「野菜は、白菜などを入れると、水が出て汁がうすまるから、入れるとしてもせいぜい水菜」というのも、魚屋のおばちゃんの指導。



七味をふって食べる。

炊いた生節は、ホクホクになって、またうまい。

味がたっぷりとしみた豆腐も絶品。



残っただしでうどんを煮たが、そうめんを入れてもまたおいしいとのことだった。




2012-02-27

品数をしぼって骨付き肉を入れる変わりおでん。
「大根と鶏のおでん」


池波正太郎が、

「人間は死ぬために生きている。その生を精一杯充足させるために、真剣に食べるのだ」

というようなことを書いている。

この池波の、「人生の目的は死ぬことである」というのは、池波一流の、やや強すぎる言い方であるとは思うけれども、しかし人間が、誰でもいずれ死ぬことはまちがいない。

年ももう50を目の前にし、これまで生きてきた期間より、これから生きる期間のほうが短いということになってくると、立つ鳥跡を濁さずではないけれど、自分がどのように死ねるのか、思いをいたらせずには得ないところがある。



死がいつやってくるのかは、誰にもわからないことだけれど、死に方の理想としては、おそらく誰にとっても、「ポックリ死ぬこと」なのではないか。

前の日までは元気だったのに、次の日になったら死んでいる。

あまり苦しんだりすることも、それほど他人に迷惑をかけることもない。

「あらー、この人、昨日まではあんなにピンピンしてたのに、今日になったら死んでるわ」

などと言われるようだと、言うことないだろう。



僕はタバコを吸うから、タバコが「百害あって一利なし」だという人から見れば、健康管理は0点だということになるのかもしれない。

しかしタバコを吸うことで、10年や20年寿命が縮まったからといって、それで悪いともあまり思えない。

このあいだニュースで、「日本人の死因1位であるガンを減らすために、タバコを規制する」というようなことが書いてあった。

もちろん、タバコを吸いたくない人が、他人の煙を吸わなくてはいけないことについては、対策を考えなければいけないだろうけれども、タバコが好きな人が、好きなだけタバコを吸って、その結果肺ガンで早死したとしても、それはそれで、幸せな人生だったのではないかとも思える。



誰だって明日死ぬ可能性がある以上、人生の過ごし方としては、「今をどれだけ充実させられるのか」ということにしかならないだろう。

これはあまりに当たり前のことで、今さらいう必要もないようなものだけれど、こう日本人が長生きするようになると、自分も長生きしないと、損したような気がするのかもしれない。

たしかにみんなが得をしているところで、一人だけ損をするというのは、あまり気持ちのいいことではない。

しかし「損して得とれ」ということが、日本人の昔からの美徳というものなのではないか。



福島には現在でも、多くの人が住んでいる。

子どものいる人は、多くが県外に避難しているそうだけれど、さまざまな理由から、福島に残る選択をしている人もいる。

福島に残っている人も、一度は県外への避難を考えたことだろう。

しかしその上で、福島にとどまることを決めたということの重みを、僕たちは考えなければいけないように思う。



人間にとって、「生きる」と「死ぬ」とは、決して切り離すことのできない、表裏一体のものだ。

「死」をはっきりと思い定めるからこそ、「生きる意味」が生まれてくる。

「どのように死にたいか」と、「どのように生きたいか」は、まったくおなじ問いだろう。

日本人はこれまで、なんとなく「自分は死なない」のではないかと、思ってきたところがあるように思うけれども、死はほんとうは、誰にとっても、すぐ身近にあるものであることを思い起こすことは、これからの日本を考えるにあたって、決して無駄なことではないように思う。






鍋はすぐに火が通るものを、サッと煮て食べるのもうまいけれども、大きなままの材料を時間をかけて煮るのもまたたのしい。

材料が大きくなると、鍋は「おでん」と呼ばれるようになるのだけれど、おでんはすでに様式化されていて、入れる材料も地域や家庭によって、決まっていたりもするだろう。

しかしおでんに入れるより材料をしぼり、おでんにはあまり入れないようなものを加えてみるのも、また気分が変わっていいものだ。

このときスペアリブや鶏手羽元など骨付きの肉を入れると、いいだしも出るし、いつものおでんとは、まったくちがった感じになる。



だしは昆布と削りぶしでとる。

簡単にやろうと思ったら、「おでんだしの素」を買ってくればいいけれど、自分でだしを取るのもそれほど面倒くさいものではないし、だいいちおでんだしの素より断然うまい。

水にだし昆布1枚と削りぶし1つかみを入れ、中火にかける。

煮立ったら火を弱くして、アクをとりながら、コトコト3分ほど煮る。

あとはザルにペーパータオルをひいて濾す。

ここにまず酒をジャバジャバと入れ、みりんを、自分が好きなだけ入れる。

最後に味を見ながら、醤油かうすくち醤油を、辛さがちょうど良くなるまで入れる。



大根は、好きな形に切って、15分ほど下ゆでし、箸がすっと通る程度のかたさにしておく。



手羽元と、下ゆでした大根、それに厚揚げでもゆで卵でも好きなものを入れ、弱火でコトコト、30分くらい煮る。



最後に水菜でも入れれば出来あがり。



カラシを添えて食べる。

おでんとまったく同じことなのだが、鶏のうまみが出ているのがまたうまい。



だしをすこしうすめて、うどんを入れるのもいい。




2012-02-26

豆腐は煮ないのが京都流。
「ハマグリの湯豆腐」


土曜日には、馬鹿の一つ覚えみたいに、スーパー銭湯でサウナに入り、そのあと決まったラーメン屋へ行って、ビールにキムチ、餃子、それに大盛りラーメンの卵入りという、決まったものを食べることとなっている。

そのあと家に帰って、2~3時間昼寝するのが、毎度の完全に決まったコースになっていて、昼寝から覚めるとたいへん幸せな気分になる。

土曜日は、とくべつ予定が入っていなければ、完全オフの日と自分で決めているのだが、休みに気分転換するのならば、何かちがったことをした方が、新しい刺激があって良さそうな感じもするけれど、そういうことには何故かならない。

前日の金曜日から、翌日のサウナとラーメンを心待ちにしてしまう。



しかしこれには、まったく理由がないことではなく、サウナにしても、ラーメンにしても、サボったり浮気したりすると、後悔することになる。

サウナについては、サボりの影響はてきめんで表れる。

真冬で寒かったりして、家からちょっと離れたところにあるスーパー銭湯まで行くのが面倒だからと、近場の銭湯ですませたりしていると、すぐに疲れがたまって、明け方目が覚めたりするようになる。

それがサウナへ行くと、ちゃんと寝られるようになったりするから、「サウナさん、サボってごめんなさい」と反省するしかない。

おそらく家の風呂や銭湯では取れない、身体の中心部の疲れというものがあるのだと思う。



ラーメンについても、せっかくの休日だから、他のものを食べながらビールが飲んでみたいと思う気持ちがないではない。

それで別の店へ浮気をしたりすると、これもしっぺ返しがすぐにやってくる。

だいたいもう翌日には、いつものラーメンが食べたくなり、我慢できなくなって、けっきょくその店に、あらためて食べに行かないと済まないことになる。

その店のラーメンの、中毒になってしまっているわけだ。



そんなことがあるから、サウナにラーメンは、土曜日には欠かすことができないことになっていて、休日の行動の選択肢をいちじるしく狭めることとなってしまっている。

ブログを更新し終わって、昼からサウナへ出かけると、昼寝から覚めるともう夕方だから、それで一日が終わってしまう。

毎度まったく代わり映えのしない休日の過ごし方に、せっかく京都にいるのだし、どうかと思わなくはないのだが、仕方がないというわけなのだ。



ラーメン屋では、餃子やラーメンがおいしいことはもちろんなのだけれど、店員を見ているのも楽しい。

最近は大将が、土曜日は出てこないようになっているのが残念なのだけれど、修行僧を思わせる大将の、ラーメン作りに集中するたたずまいは、いくら見ても見飽きない。

その店は、ほかには番頭らしき30歳くらいのお兄ちゃんのほかは、全員中国人のアルバイトを雇っていて、その中国人を見るのもまた楽しい。

たぶんみな留学生で、学校の友達関係のなかで、誰かが卒業していなくなったら、また新しい学生を呼び入れて、という形で、代々そのラーメン屋のアルバイトを補充する仕組みとなっているらしい。

男の子たちも、今どきの日本人の若い子には見られない、溌剌とした感じがいいのだけれど、やはりおっさんの目から見ると、女の子がかわいい。

どうして中国人の女の子は、あんなにかわいいのだろうか。



中国が現在、まさに発展途上にあるということなのかとも思うのだけれど、とにかく素朴な感じがして、ラーメン屋での、日本人の若い子なら、たいして面白くもないと思いそうな仕事を、喜んでやっている様子が伝わってくる。

どんな仕事だって、仕事があるだけ幸せで、それを心を込めてやっていれば、喜びがわいてくるものだろう。

そんな当たり前のことを、あらためて思い起こさせてくれるところがある。



またこれは中国人の、女の子にかぎらず、男の子もそうなのだけれど、お客の目をまっすぐに見てくるところもいい。

いま日本では、人の目をまっすぐ見るということは、少なくなっているだろう。

知らない人の目ならなおさらだ。

それぞれ立場やら、システムやらのなかで動いているから、自分の「役割」を果たそうとがんばっているのはわかるけれども、人間同士の自然な交流は、どんどん希薄になっているところがあるように思える。

でも中国人は、もともと立場やシステムなどをあまり考えない国民性なのか、それとも祖国を離れて日本にいるからそうなるのか、とにかくまっすぐに、お客の目を見る。

若い女の子にじっと見られたりすることは、おっさんとしてはたまらず、ついヘナヘナとなってしまうというわけだ。






そういうわけで、土曜日は餃子とラーメンを腹いっぱい食べるから、夜は軽いもので済ませたい。

このところ、土曜の夜は、いつも湯豆腐だ。



今回、ネットで湯豆腐のレシピをいろいろ見てみたのだけれど、湯豆腐については、基本的に異なる2つの考え方がありそうだ。

それは、

「豆腐を煮るか、煮ないか」

という問題だ。



京都では、湯豆腐は豆腐を煮ない。

湯豆腐はあくまで、豆腐を「温める」もので、煮るものではない。

湯豆腐屋でも、豆腐の外側は熱くなっているけれど、中はまだ少し冷たいくらいで食べさせる。

ところがレシピを見てみると、湯豆腐を「煮る」としているものも少なくない。



池波正太郎もその一人で、「そうざい料理帖」を見ると、湯豆腐を「煮る」と書いている。

池波は生粋の下町っ子だから、もしかしたら湯豆腐を煮るのと煮ないのとは、東京と京都、または東日本と西日本のちがいなのか。

東京で育ち、長年を過ごして、今京都に住んでいる者の目から見ると、東京と京都、あるいは東日本と西日本では、ずいぶん大きな文化のちがいがあると感じるのだけれど、それはこんなところにも表れているということなのかもしれない。



しかし今は、京都に住んでいるのだから、湯豆腐は煮ないで作る。

昆布を入れた鍋を中火にかけ、沸騰しかけた頃に、昆布をとり出す。

そのまま沸かして、酒を少しふり込んだら、まず砂出しし、よく洗ったハマグリを煮る。

ハマグリの口が開いたら、エノキを入れ、豆腐をすべり込ませ、火を落とす。

あとは鍋を決して沸騰しないように火を調節し、豆腐が温まったら食べる。



タレは醤油に、削りぶしと青ネギを入れる。

タレが辛すぎるときは、鍋のだしですこし割る。



ハマグリのうまみがたっぷりと出ただしは、タレで割って飲んでも、醤油で味を付けうどんにしても、たいへんうまい。



昨日は思い立って、酒を鍋に入れて温めるようにしたら、わざわざ台所まで燗をつけに行く手間がはぶけたおかげで、つい飲み過ぎてしまった。



2012-02-25

やはりこれは1つの定番。
「イカとアサリのトマト鍋(ワタ入り)」


今週、風邪を引いてしまった。

先週土曜日、スーパー銭湯へ行ってサウナに入り、そのあと休憩室でしばらくのんびりしてから、寒風吹きすさぶ屋外へ出たりしたので、湯冷めしてしまったのだと思う。

家に帰ってパンツ一丁で昼寝して、さらにやはりパンツ一丁で夜寝もしたら、朝には咳がでて、身体がだるくなっていたという次第。

パンツ一丁が好きで、夏は家にいるときには一日中、冬も夜寝るときはパンツ一丁の僕なのだが、さすがに今週は、パンツ一丁は自粛した。



今週の後半は、いよいよ春の気配が到来し、気持ちよい陽気の、暖かな日がつづいたが、そうなると今度は眠くなる。

「春眠あかつきをおぼえず」とはこのことなのか、夜は日頃ならありえない、ノンストップでの9時間睡眠をし、にもかかわらず、昼間もうつらうつらと意識がうすれてくる。

おかげで今週は、まったく仕事がはかどらなかった。



仕事といえば、今度このブログの内容が、本になることになった。

編集者の人が、このブログを見てくれて、おもしろいと思ってくれたらしい。

年末に連絡があり、電話で2回ほど話し、来週打ち合わせすることになっている。

このブログが、本になったらいいなと、ひそかに夢見てはいたものの、それがほんとうに実現するとは、誠にうれしい。

少しでもいいものになるように、できる限りのことはしたいと思う。



昨日は「イカとアサリのトマト鍋」を作った。

このところスーパーや魚屋で、スルメイカをちょくちょく見かけてはいたのだけれど、どうやって料理をするか、イマイチぴんとこなかった。

しかしイカといえば、やはり「トマト味」がひとつの定番だ。

そこでトマト鍋に入れることにした。



魚屋に顔を出してみたら、たまたま、その日の朝に市場から仕入れたスルメイカがあったから、イカワタも使うことにした。

イカワタは、猛烈なコクがあるから、入れるとうまくなるのだけれど、鮮度がよくなければ使えない。

魚屋で一晩持ち越してしまったものは、身は問題ないけれど、ワタを使うのはやめておいた方がいい。



イカは、さばかないといけないのが、多少めんどう臭いのだけれど、べつに難しいことはない。

初めのうちは、魚屋やスーパーでさばいてもらって、そのやり方を横で見ていると、たいへん参考になる。



まず胴と中身がくっついているところがあるから、左手の指2本で胴をもちあげ、ここに右手の指をさし込んで、「ぷちん」とはずす。

胴と中身がくっついているところに沿って、骨がはいっているから、これをはがしてひっぱり出す。

左手でエンペラのあたりをもち、右手で中身をもって、ゆっくりと、まっすぐに引っぱっていくと中身がぬける。

これは引っぱると、千切れてしまうのじゃないかと心配になるのだけれど、まっすぐ引っぱればだいじょうぶだ。



目のちょうど真ん中のところに包丁を入れ、ゲソを切りはなす。

足の根元にクチバシがあるから、それをむしり取る。

黄土色のイカワタの先に、青い墨袋がついている。

墨は、色が悪くなるから取りはずす。

ワタ袋にそって、縦に墨の管がついているから、これも指で取りはずす。

ワタ袋に縦に包丁をいれ、イカワタをしぼり出しておく。

袋が混ざってしまってもかまわない。

あとは胴を1センチ幅程度の輪切りにし、ゲソも2本くらいずつに切りはなせば、イカの解体は完了という次第。



昨日はトマト鍋を、わりとイタリア風に、ていねいに作ってみることにした。

まずトマトだが、いちばん簡単で、しかも安いのは、まちがいなく「カットトマト缶」を使うことだ。

フレッシュトマトが、1個100円程度はするところ、2個分ほどの分量が入ったのが、90円くらいで売っている。

だからふつうの人は、これを買うのがいい。

ただカットトマト缶には、何度も書いているけれど、致命的な欠点があって、濃厚なコクが、日本酒に合わない。

だから日本酒に合わせたい場合には、フレッシュトマトを使うことになる。



フレッシュトマトは本当は、2個くらいは使いたいところだけれど、昨日は1個128円もしたから、1個で我慢して、そのかわり冷蔵庫に瓶の4分の1くらい残っていたトマトピューレーを足すようにした。

でもやはりそれだと、ちょっと物足りないものはあったから、フレッシュトマトを使うなら、思い切って2個使ったほうが、うまいのはまちがいない。

フレッシュトマトは、ヘタを抜き上に十文字の切れ目を入れて、沸騰した湯につけ湯むきをし、細かく刻んでおく。



まず鍋にたっぷりのオリーブオイルをひき、ニンニク1かけと玉ねぎ中2分の1程度のみじん切りを、中火でていねいに、たしょう透き通ってくるまで、5分ほど炒める。

ここにイカワタをいれさらに炒め、それからトマトを加えてさらに炒める。

写真は、ちょっと順番が逆になってしまった。

ここにスープを入れる。

鶏肉でも入れるのなら、スープはそれだけで十分だけれど、イカとアサリだと、それだけではやっぱりうまみが足りない。

いちばん簡単なのは、固形のコンソメでも入れてしまうことだけれど、昨日は昆布と削りぶしのだし。

これでもまったく問題ない。

分量は、たとえば全体で800ccにするとしたら、トマト缶が300ccなら、残りの500cc分ということになる。

塩で味付けし、コクが足りないようなら、みりんと醤油を大さじ1杯くらい加える。

ローリエを入れて、5分くらい、クツクツと煮ておく。



入れる野菜は、やはりぜひほしいのは、ジャガイモとキャベツ。

あとは何でもいいけれど、昨日は油揚げにシイタケ。

まずジャガイモとキャベツを5分くらい煮て、それから油揚げとシイタケ、それに砂出ししたアサリを入れる。

アサリの口が開いたら、最後にイカ。

イカは、新しいものなら、お造りでも食べられるのだから、煮るのはほんの10~20秒程度。

表面が赤くなったら、もうそれで火を落とす。

それほど新しくないものなら、5分くらい煮ると、それもまた味がしみるので悪くない。。



パセリと、それに粗びきの黒コショウをふって食べる。

イカワタのコクに、さっぱりしたトマトの味が、大変いい。

このわりと濃厚なスープに、あっさりとしたイカが、また非常に合う。

味を変えたくなったら、タバスコや粉チーズをふるのも悪くない。



うどんもいいし、パスタを入れても悪くないのかも。

ご飯を入れてリゾットにするのも、もちろんいい。





2012-02-24

梅干しの風味でさわやかなアクセント。
「豚の梅鍋」


梅干しは、日本人にとっては、最も身近な食べ物だといってもいいだろう。

もちろんまずは、日本人にとっては、白めしが食事の中心なわけだけれど、おかずに何を食べるかということになれば、梅干しはかなり上位にランクインされるのではないか。

日の丸弁当は、日本人のお弁当の代表だ。

まあそれは、梅干しがご飯が腐るのを防ぐ効果があることも、弁当に梅干しが入れられるようになった理由なのだろうけれども、おかずとして身近であったことも間違いないのだろう。



梅干しは、きちんと漬けられたものは、100年たっても腐らないのだそうだ。

現存する最も古い梅干しは、1576年に漬けられたものだという。

水上勉「土を喰う日々」に、恩師が漬けた53年前の梅干しを食べる話が書かれている。

初めの舌触りは塩辛いが、あとは甘露のような甘さとなったという。



梅干しは、料理にもいろいろ使われるわけだけれど、鍋に入れてももちろんうまい。

カツオと梅干しは、「梅かつお」ということばもあるくらいで相性がよい。

梅干しが、だしの味を引き立てながら、さわやかにしてくれる。

鍋に梅を入れるのは、自分で思い付いたものではあったが、ネットを見たら、すでにたくさんレシピが載っていた。



先日やった、「鶏の梅鍋」もうまかったし、今回の豚肉の梅鍋も、やはりうまかった。

それに間違いなく、イワシのつみれなど、魚介類にも合うと思う。

梅干しが、肉や魚の脂っこさや臭みを消してくれる。

合わないものが、ちょっと思い付かないくらいだ。



ふつうに、昆布と削りぶしのだしを取る。

これに酒とみりん、うすくち醤油で味付けする。

梅干しにはけっこう塩気があるから、醤油を控えめにしておくことがポイントだ。



梅干しは、包丁でよくたたき、ペースト状にする。

800ccのだしに対し、小さめの梅干し10個を使った。

けっこうたっぷり使うのがいい。

梅干しはべつに、好きなのを何でも使ったらいいと思う。



あとは何でも好きな材料を煮て、最後に梅干しペーストを載せる。

だしに溶かし込んでから材料を煮るようにしてもかまわないけれど、こうしたほうが見栄えがいい。

またなんなら水炊きにして、タレの方に梅干しを入れるようにしても、また悪くないとは思う。



七味などはかけないほうがいい。



うどんもうまい。






長いあいだ疑問に思っていた、「鍋」と「汁」のちがいが、最近ようやくわかったような気がした。

鍋も汁も、だしで具をグツグツと煮て、煮た具を汁といっしょに味わうという意味では、まったく同じともいえるものだ。

明らかなちがいと思えるのは、汁は台所で作り、それをお椀によそって食卓へ運ぶのに対し、鍋は食卓で調理をし、その鍋から各自で直接よそって食べるということだった。

それでは、たとえば豚汁を食卓で作れば、材料が同じでも、「豚鍋」になるのかと思うところだろう。



しかし鍋と汁のちがいは、どこで調理するかによるものではない。

そうではなく、

「具と汁のどちらを優先させるか」

を示したものだったのだ。

これは「煮物」と「おでん」とを、いっしょに考え合わせてみることによりはっきりする。



まず最も具が優先されるものは、「煮物」だ。

煮物の汁は、具に味を付けることだけを目的としていて、汁を飲むことをまったく考慮に入れていない。

煮汁には濃い味が付けられ、さらに煮詰めて濃厚になったりもするから、その煮汁はそのままでは飲めないこととなっている。



「おでん」の煮汁は、煮物にくらべると、だいぶうす味となっているから、飲めないこともない。

しかしおでんも、ふつうは具を味わうもので、汁を飲むのは少数派といえるだろう。

おでんが平たい皿に盛られることが、「煮汁は飲まない」ことを示している。



煮物、おでんと並べば、次に来るのが、「鍋」だというわけだ。

鍋は、具と煮汁の両方を味わう。

具と煮汁の、どちらが主役ということはない。

それに対して、「汁」は、明らかに煮汁の側に重点があるだろう。

汁は文字通り、その汁を味わうものなのだ。

だから具は、だいたい小さく刻まれていて、しかも鍋にくらべると、量も少ない。

具をたくさん入れる場合は、「具だくさんの味噌汁」などのように、わざわざ注釈が必要だということとなる。



だから、鍋をやる場合、やはり具をきれいに並べることが重要なのだ。

鍋で煮るときも、またそれを器によそうときも、具の一つ一つをきちんと区分けして、混ぜないようにしないと、どうも鍋らしくならない。

鍋や器に、具が混ざり合ってしまっていると、とたんに「汁」のように見えてしまうのだ。

「具の存在感が際立っているかどうか」

が、鍋を汁と区別するポイントだといえるだろう。