2011-09-10

「内なる自然」が科学の最大のフロンティアであるという件

僕は最近、このブログのタイトルを、「高野俊一の日記」というのから、「高野俊一のおっさんひとり飯」というのに変えたわけで、だいたい「高野俊一の日記」というのはひどいタイトルで、普通の人は「高野俊一」が誰だか知らないし、「日記」というのも「雑文」というのと一緒で、イメージとして何も伝えるものがないわけだから、この「高野俊一の日記」というのは、アピール力としてゼロだった。それよりは「高野俊一のおっさんひとり飯」というのは、「高野俊一」というのは相変わらず誰にも解らないだろうが、「日記」というよりはだいぶイメージが湧くものがあるから、この頃は料理のことばかり書いていたし、もし他に書きたいことができれば、別にブログを立ち上げたっていいわけだからということで、タイトルを変更したということなのだ。

タイトルを変更したことで、書くべき内容がより限定され、明確になって、料理のことについて、もっと気楽にサクサク書けるようになりそうなもんだが、実際には逆で、タイトルを変えてから、書く前に非常に長い時間考え込むようになった。これが何故なんだか、自分でもよく解らないのだが、以前の「日記」というタイトルだったら、何を書いても、まあ日記だからいいやと自分に言い訳するものがあったところが、タイトルがそれなりの体裁をもったものになったから、そのタイトルにふさわしい内容というものを、無意識に考えてしまうということなんだと思う。それで、ただあるトピックについてメモ書き的に書くということが、自分として許されないような感じがして、「自分自身」をそれなりにそこに投入したいと思い、そうすると最低でも1時間以上は、あれこれ思いを巡らせることになっている。


「考える」というのは面白いものだと、最近になって思うようになったのだが、今日も例えばこのブログを書くにあたって、材料としては、昨日飲みに行ったこととか、昨日の昼食った焼きそばのこととかがあるのだけれど、それがどうも今ひとつ、自分の書きたいことと繋がらないような気がして、ソファに寝そべって、考える体勢に入ることになる。ところがこれが、しばらくの間は何も浮かばない。あまりに浮かばなくて、笑ってしまう、というくらい浮かばないわけだ。僕はもう、ブログはやめたほうがいいんじゃないかとすら思ってしまう。ところがそのまま、半ばぼうっとしながら、考える体勢を続けていると、あるテーマが突如心に浮かび、それを色々ながめていると、今度はそれと関連する別のテーマが浮かび、それでそのまま、一つの結論に至ることもあるのだが、今日は頭の中がどんどんとっ散らかってしまい、収拾がつかない状態のまま、文章を書き始めるということに至っている。

しかしこうやって、自分の心の中に、何かが浮かび、それがふくらんだり、何かと関連していったりするというのは、僕などは、草木の芽が生え、生い茂っていくという、生き物の振る舞いと、まったく同じものであると思えるのだよな。人間だって生き物で、数十億年という生物の進化の歴史のなかで、あるとき自然によって生み出されたものなのだから、人間の心が、草木と同じような生き物の自然な振る舞いをするというのは、当然のことだろう。人間は誰でも、自分の中に大自然を飼っているのであり、よく「自然を大事にしよう」とか言うが、それは実は「自分を大事にしよう」ということと、イコールだったりするのじゃないかと思うのだよな。


僕は大震災の後、近所の神社などへちょくちょくお参りに行くようになった。この頃も朝の散歩のコースに、公園での体操と、神社でのお参りを取り込むようにしている。大震災で、あまりにもたくさんの人が亡くなって、多くの日本人もそうだったと思うが、僕もそれに対して、自分がどう折り合いを付けたらいいか、考え始めた。幾ばくかの募金はしたが、それだけでは足りないような感じがする。ボランティアも、まだ僕の出番じゃないような感じがしたし、どうしたらいいのか考えた時、「祈る」という所に行き当たった。奈良で寺を見物に行った時、大震災の募金の箱と、お賽銭箱とが並べて置かれており、自分の持った100円玉をどちらに入れたらいいかを考えた時、お賽銭のほうが、なんだか効果があるような感じがしたのだな。100円くらいを募金しても、何の足しにもならないと思ったということもあるが、祈るということが、あの悲惨な災害から立ち直るに際して、なんだか役に立ちそうな気がしたのだ。

それはただ、自分の心の問題だけの話で、実際のところ復興には何の役にも立たないと言われれば、たしかにその通りではあり、祈りなど所詮自己満足にすぎないと言えば、そうなのかも知れないけれど、少なくとも自分が、大震災でなくなった人達と、何らかの人間的な交信をしていることは確かなのだ。

僕は天国ということの意味も、今回初めて解った。亡くなった人に対しても、自分がその人達に人間的に接しようと思ったら、その人達のことを思い浮かべ、亡くなった人達が幸せになってくれるよう、願うしかない。人間というのは他人に対して、そのようにしか接せられないものなのだろう。それが人間の内にある大自然の仕組みであるようだ。もちろん亡くなった人は、物体としてはもう幸せになどなりようはないのだけれど、その人達を思い浮かべようとするこちらにとっては、亡くなった人達が幸せに暮らしてくれる場所がどうしたって必要で、それが天国であるということになるわけだ。

復興のための具体的な作業という意味では、祈るというのはたしかに何の役にも立たないが、しかし亡くなった人と人間的なつながりを持とうとすることが、悪いことであるわけはない。お金が必要なら、税金だって払うし、自分が必要とされるのならば、いつだって駆けつけるが、とりあえず今はなにもしていないけれど、祈ることだけ続けている人というのは、日本人のなかで意外に多いのじゃないかという気も僕はしている。


現代人が直面する問題というものは、まあ上げればいくらだってあるものだと思うけれども、そのひとつの大きなものが、「科学技術の進歩に人間が追いついていない」ということがあるんじゃないか。例えば原子力発電所のシステムにしたって、それを素人が、すぐに理解し、判断できるものじゃないことは言うまでもないが、それを設計したり、また操作したりする専門家の人達だって、もう解らないものになってしまっているのじゃないか。実際あれが津波でやられてしまったこと自体が、例えば非常用の発電機が簡単に水をかぶってしまうような場所にあったり、非常用の電源が一系統しかなく、また電源車のプラグと発電所のソケットが合わないものだったり、設計者が、発電所が津波をかぶってしまったらどうなるかということについて、よく把握できていなかったということを示している。

こないだ起こった、サブプライムローンの問題も同じだ。金融工学で、ローンを切り刻んで、それを他の金融商品に入れ込んで販売することが、計算上は問題なかったはずなのに、いざバブルが崩壊するということになると、どれほどの悪影響を与えることになるのか、誰にも解らないということになってしまう。専門家の手にすら負えないことになってしまうほど、原子力発電所にしても、金融工学にしても、巨大で複雑なものになってしまっているわけだ。

以前は自動車なども、ちょっと好きな人なら、多くが自分で整備して、プラグを磨いたり、取り替えたり、くらいのことは、自分でやってたものだろう。今でもプラグくらいは取り替えるのかどうか、僕は今車を持っていないから解らないが、最近の車はコンピュータで制御されるようになってしまっているから、何がどうなっているのか、素人には解りにくいものになってしまっているのは確かだろう。車が故障しても、それを自分で直そうとすることなど考えられず、整備工場へ持っていくしかない。整備工場でも、車を修理しようとすると、多くの場合コンピュータのチップをまるごと取り替えるとか、そういう形で対処することになる。

それと同じことで、社会の様々な場所にブラックボックスができてしまい、素人はもちろんだが専門家すら、その中身がよく解らないものとなってしまっている。中身など解っていなくても、大丈夫だとタカを括っていたところが、いざ大きな問題が起こってみると、それではどうにもならないということが明らかになる。

そういう問題に対処しようと思う時、それならいっそ、そんな危険なブラックボックスなど、全部なくしてしまえという考えもあるだろう。現代人の文明は、限界を超えて進みすぎてしまったのであり、一回立ち止まって、すこし引き返すくらいのことをしたほうがいいのじゃないか。

まあ確かにそれは一理あり、僕などもそうやってエアコンをできるだけ使わないようにしてみたら、夏でも扇風機で意外に暮らせることが、生まれて初めて解ったということはあった。過剰なまでに明るいネオンや照明も、なくたっていいものも多いだろう。考え直せるところは多いに違いない。

しかし時々、現代文明の根幹である「科学技術」の発展そのものを、否定しようとする論調に出会うこともある。文学者の人とかが、わりとそういうことを言いやすい傾向にあるようだ。その象徴として、原子力発電所を、今すぐすべて止めろ、みたいなことになったりする。

でも進みすぎた科学技術を、押しとどめ、例えばコンピュータが出現する以前のところへ引き戻す、なんてことができるんだろうか。例えばの話、みんなでコンピュータを使うのをやめようと、みなで提携したとすると、それに違反して、コンピュータを使った人が、一人勝ちすることになるだろう。進んでしまった技術を、以前の状態に戻すなどということがあるとは、根本的にはどうも思えないところがある。

たしかに今、科学技術と、人間の内なる自然とが、乖離してしまい、バランスを崩してしまった状態にあるのは、確かなことなのだろう。人間の理解を超えたブラックボックスが、社会のあちこちにできてしまい、それが制御できないことになっている。でもそのブラックボックスを全部なくしてしまうことなど、到底できる話でなく、さらに発展を推し進める形で、それに対処しなくてはいけないのじゃないかと思うのだな。

科学はこれまで、人間の外側の自然については、多くのことを明らかにしてきたけれど、人間の内なる自然については、まだほとんど何も解っていない。それは例えば「意識」とはなにかであり、もっと言えば「生命とは何か」について、科学は何の答えも見つけていない。まだ解っていないということなのだよな。

「人間の内なる自然」は、科学にとっての最大のフロンティアであることに間違いなく、まだそれをどのように理解したら良いのか、手がかりすらつかめていないのであったとしても、それを推し進めることが必要なのだよな。もしかしたらそのためには、科学そのもののあり方も、変わらなければいけないのかも知れないけれど、いずれにせよ、引き返そうとするのじゃなく、そうやって前に進もうとすることが、問題を根本的に解決することになるんじゃないだろうか。


と不思議なもんで、この文章を書き始める前に、とっ散らかった頭の中に、脈絡もなく浮かんでいたいくつかのことが、実際に文章を書き始めてみると、それなりの順序にならんで、ひとつながりになったりする。料理も同じなんだが、こういうことが、内なる自然のダイナミズムであり、それを料理を作ったり、ブログを書いたりしながら体験するというところに、21世紀の最大の知的楽しみが、あると言えるんじゃないかと思うがな。



昨日の昼飯は、ビールに焼きそば。昼にビールと焼きそばを食うというのは、ほんとにたまらん。しかも30分くらい昼寝をすれば、頭はしゃっきりと回復するから、問題は何もないのだ。