2011-09-06

新福菜館三条店大盛りラーメンの最高に死ねる食い方


このブログを見てくれている人は、新福菜館の、しかも本店じゃなく三条店などという、ローカル極まりないラーメン屋のことについて、毎週なんやかんや読まされることになってしまっているわけだ。ほんとなら僕も、もっと誰でもが知ってることについて書きたいと思う気持ちもないではないのだが、この新福菜館三条店のラーメンは、あまりにうまくて、しかも毎週、食べるたびに新たな発見があり、どうしても書きたくなってしまうというわけなのだ。

しかし一週間にいっぺん食べないと気が済まないラーメン屋って、聞いたことあるか。これは決して、僕が進んで食べたいと思っているわけではないのだ。僕だって本当は、どうせ週にいっぺんラーメンを食べるのなら、もっと違う店へ色々行ってみたい。でもそれが、許されないのだ。

いつもラーメンを食べる週末に、新福菜館三条店のラーメンを食べないと、もう月曜日には、食べたくて仕方なくなる。火曜日には、もうどうにも我慢ができないような気持ちがしてきて、水曜の定休日を乗り越えることはどうにも不可能であるように思えて、結局火曜日に、新福菜館三条店へ行ってしまうことになる。僕はそれが何度か続いて、ああ、僕はもう新福菜館三条店から逃れられないんだと覚悟を決めて、今日に至っている。

だから決して、僕は新福菜館三条店へ行くにあたって、前向きな気持ではない。どちらかと言えば、「行っておかないと、後で面倒なことになるから」的な、後ろ向きな気持ちなのだ。ところがこれが、いざ行って、ビールを飲み、キムチを食べ、ギョウザを食べ、としていくうちに、テンションが徐々に上がり、最後にラーメンを食べると、幸せの極致で死亡する、ということに至る。そしてそのたびに、新たな発見がある。このラーメンは何なのだろう、どうしてこんな感動があるのだろうと、その謎を解き明かしたいと思いながらも、その答えが見つからないままに、新福菜館三条店のラーメンを食べ続けているわけだ。



しかし考えてみれば、ほんとうに一流のものって、そういうものなのだろう。僕は去年、奈良興福寺の、有名な阿修羅像を見た時に、1時間ほど、目が釘付けになってしまい、その場を動けなかった。同行者がもう先に出ていたので、僕もその場を後にしたが、一人で行っていたら、もっと長く見ていたかもしれない。

人間誰でもそうだと思うが、阿修羅像を見ながらも、僕のなかで、それについて何らかの結論を自分なりに得たいという気持ちがあるわけだ。「あれは、こうだよ」などと、自分なりに納得し、自分なりに心を落ち着ける、何らかの言葉がほしい。ところがそれが見つからない。どんなに見続けていても、阿修羅像を評するに値すると思える言葉は、一切浮かんでこないのだ。

しかしだからこそ、千年以上の長い時にわたり、多くの人が阿修羅像を見続けてきたということなのだろう。見なくても解ってしまうものなら、もう見る必要はない。しかしどんなに見続けても、それが何なのかが解らないからこそ、人はそれを見続けることになるのだろう。

しかしあの阿修羅像というのは、ほんとうにすごいんだ。僕は興福寺の宝物や仏像をひと通り眺めたが、他のは大したことがない。阿修羅像は、8体がセットになった仏像のうちの一つなのだが、他の7体はそれほど大したことがない。あの阿修羅像だけが、特別すごい。

有名な仏師が作ったということではないような感じだったが、阿修羅像がどのように作られたのかということも含めて、想像が頭の中をかけめぐってしまって止まらないんだな。



という、新福菜館三条店のラーメンは、僕にとっては阿修羅像にも匹敵するという話なのだが、こないだの日曜は、この大盛りを食ったのだ。

僕は初めのうちは、新福菜館三条店では大盛りばかりを食っていたのだが、ある時並をたのんだら、並の方が味がきりりと引き締まり、うまいということに気が付いた。それでそれから並ばかりを食べていたが、先週になり、僕はもしや大盛りの食い方を間違っていたのじゃないかということに、ふと思い至り、今回は、正しいと思われる食べ方で食べてみようと思って、再び大盛りを注文したのだった。

新福菜館では、並のラーメンには、チャーシューと青ネギだけが入っている。そこに大盛りになると、麺とチャーシューの量が増えると共に、もやしと生卵という、並盛にはなかった具が追加されることになる。

僕はこれまで、この生卵を、一等最初かられんげですくってもやしにまぶしつけて食べていたのだが、そうしてしまうと、卵が溶け出して、味が変わってしまったスープを、初めから食べることになってしまう。

しかしこの大盛りを考案した人は、そうやって初めから味を変えてしまうのではなく、まずは普通に、卵をスープに溶かしてしまわずに、並盛と同じ味を味わい、半分くらいはそれで食べ、だんだん飽きてきたら、卵を溶かし込み、味を変えて楽しんでもらいたいと、そう思ったのじゃないかということに気付いたのだ。


それでまさに、そのようにして食べてみたら、これは並盛以上に死んだ。並盛のきりりとした味をしばらく味わい、それからおもむろに、卵と、卓上に唐辛子にんにくが置いてあったりするから、それもスープに溶かし込んで食べてみた。するとこれが、味の変化により、感動が加速するのだな。

いやまあしかし、新福菜館三条店、ほんとに奥が深いです。

ちなみに何度も書きますが、この感動は、新福菜館の本店や、河原町店、丸太町店などでは味わえません。三条店だけです。



昨日はスーパーへ行き、何か目先の変わったものが食べたくなったのだ。僕はいつも醤油味ばかりで、それを不満に思うわけでもないのだが、たまにそういう気持ちになることがある。目先の変わったものというと、まず初めに思い付くのがカレー味なのだが、あれは僕は、酒に合わないと思うんですが、どうでしょう。インドは酒を飲まないから、食い物を酒に合わせるという概念がないのじゃないかと思うのだな。

ということでトマト味。家に鶏肉が買ってあったので、それを使ってトマト鍋にすることにした。


ぶつ切りにした鶏もも肉は、軽く塩を揉みこみ下味をつけ、たっぷりのオリーブオイルで焼く。表裏をサッと焼いたら、続いて野菜を入れ炒める。野菜は昨日入れたのは、玉ねぎにじゃがいも、にんじん、椎茸、それに油揚げとピーマンは、炒めずに後から入れる。


野菜も軽く炒め、油が回ったら、ここにトマト缶をどぼどぼと投入。さらに同量の水を入れる。

ここにまず、チューブのにんにく。そしてほんとうは韓国唐辛子を入れたかったところだけれど、切らしていたので鷹の爪。これ鷹の爪は、入れるなら、オリーブオイルで炒める時に入れないと、辛味が引き立たないんだよな。間違えました。にんにくも、チューブじゃなく自分で切ったものを入れるなら、やはり初めに炒める時、オリーブオイルで炒めるようにしないと、香りが引き立たないですね。

あと味を見ながら、塩をふる。


ちょっと煮込んだら、油揚げ、そして最後にピーマンを投入。ピーマンは、シャキシャキの歯ごたえを残したいので、ひと煮したくらいのところで火から下ろす。粉チーズを大量にふりかけて食べる。


これはですね、まあ前も作って知ってたんですが、かなりイケます。すこし残しておいて、翌日うどんを入れて昼飯にするつもりだったのだけど、あまりにうまくてぺろりと平らげてしまいました。