2011-09-05

「人をたらしこむ技術」は、もっと一般に認知されなきゃいけないんじゃないか

一昨日から昨日にかけて、台風12号が猛威をふるい、京都市内はちょっと風が強いくらいで大したことはなかったのだが、奈良や和歌山では数十人という死者や不明者が出たそうだ。数十人というと、東日本大震災と比べてしまうと、なんだか少ないような感じがしてしまうが、平時の感覚でいうと大被害で、伊勢湾台風に次ぐ被害だろうと言われているという。

人間は誰でも、自分の人生について、とりあえずは大丈夫だろうとタカを括っているわけで、それがある日、思いもかけない洪水やら津波やらで、命を断たれてしまうことがある。今回命をなくした人たちだって、まさに「寝耳に水」だったのだろう。自然災害が起こるたびに、人生は無常であり、運命は人の才能や努力などとは、まったく関係のないところで決められていくことに、思いを致すことになるわけだが、日本人が自然災害が多発する場所に暮らしてきたために、この無常を基底とした独自の人生観を発達させてきたと言われれば、たしかにその通りなのかなとも思う。

世界では、広大な砂漠が広がるというような場所に暮らす人も多いわけだ。そういうところで生き延びるために必要なのは、おそらくは必死の努力であり、弱肉強食であり、そこから生まれる人生観が、日本人とは異なったものになるというのは、これまた当然ということだ。


台風というと思い出すのは、学生時代のアホな経験だ。

東京が激しい台風に見舞われた時、悪友と僕とは、新宿歌舞伎町へナンパに行くことにした。台風で帰れなくなる女の子が出るだろうから、車で乗り付ければ、そんな女の子を簡単に拾えるのじゃないかと考えたのだ。僕は無事歌舞伎町に到着したが、悪友はいつまでたっても待ち合わせ場所に現れない。結局僕も、一人でナンパする勇気はなく、そのまま帰宅したが、あとで聞いたら、悪友は新宿へ向かう途中、冠水した道路に突っ込み、エンジンに水が入って車がお釈迦になってしまったのだそうだ。

ナンパに関して僕はいい思い出がなく、学生時代は人並みにナンパはしたこともあるが、うまくいった試しはない。世の中にはナンパの極意を知る達人もいると聞くが、僕にはついぞ、その極意は導き開かれることはなく、この年に至っている。

ナンパを初めとする、女性をモノにする技術は、「不良」と呼ばれる人たちの専売特許のようなところがあるだろう。中学校の時、一目惚れし、密かに想いを寄せていた女の子が、気付いたら不良と付き合っていてびっくり仰天したことがある。当時かわいい女の子は、だいたい不良と付き合っていた。

この間も、出会い系サイトで女性がサクラに騙され、出会い系サイトに500万円以上も注ぎ込んでしまい、後でサクラに騙されたと察して、そのサイトを訴え出たとニュースに出ていた。騙すのは良くないことだが、そのサクラは少なくとも、その女性の心をそれだけつかむ、何らかの技術を身に付けていたことにはなる。

他にも宗教団体やら、詐欺商法やらが、時々驚くような巨額の金額を人から集めたというので話題になることがある。客観的に見れば、ちょっと考えれば解るだろうと思えるような、嘘くさい話でも、それにやすやすと騙される人がいる。しかしこれは、騙された人の無知を責めるべきであるというより、騙した人が、それだけ多くの人の心をつかむ一種の技術を、持っていたことを認めるべきだろう。「人をたらしこむ技術」というものは、悪用するのは良くないが、たしかに存在するということだ。


しかしこの「人をたらしこむ技術」は、一般にはきちんと認知されていないと言えるんじゃないか。少なくとも学校で、人をたらしこむ技術が教えられることはないだろう。学校の優等生は、人のたらしこみ方を知らずに大人になる。しかし不良は、それをいち早く身に付け、自分の生活の糧としていくことになるわけだ。

企業でも、大企業になると、人をたらしこむ技術に頼ったりせずに、知名度とか、安定性とか、社会的評価だとか、そういうところで勝負しようとするわけだが、新興企業などまだ何の知名度も持っていないところでは、いかに人をたらしこめるかというところで勝負しようとするところも、あるように思える。精鋭の営業部隊を編成し、営業力で勝負しようというのは、そういうことだろう。営業の極意は、「いかに自分が勧めるのでなく、相手にその商品を、自分から買いたいと思わせるか」ということであるとも聞く。まさにそれは、どう人をたらしこめるのかということそのものだろう。

どう人をたらしこめるのか、またはこれは、言葉がちょっと悪いから、「どうやったら人の心をつかめるのか」と言い換えてもいいが、これが実際にはっきりと存在する技術であるということ、また人が成功するために大きな力を発揮するものであるということは、間違いなく言えることだろう。それならなぜそれを、学校で教えないのか。それがただ不良に独占されたものじゃなく、優等生も身に付けるようになれば、世の中もすこしは変わるのじゃないか。また人の心をつかむ技術に点数がつけられれば、不良がもっといい成績を取るということが、出てくることだってあるんじゃないか。

なぜ人の心をつかむ技術が、学校で教えられないのかといえば、結局それは、人の心をつかむ技術が、学問的に明らかにされていないからだろう。学問的に明らかにされていないことを、学校で教えることはできない。しかしたしかに存在する技術を、学問が明らかにできていないのだったら、それは学問の方に、何か足りないことがあるんじゃないか。

僕はこのあたりのところに、未来について考えるべき大事なポイントが、隠されているようにも思うんだがな。



昨日はグルメシティの特売日で、サンマが138円だった。いよいよサンマシーズンがやってくるな。これほど安くてうまくて、料理が簡単ないい奴はいないのだから、今年もたっぷりお世話にならなきゃいけないわけだ。東北でもサンマが、無事捕れているようだし、嬉しい話だ。


この頃常備菜としている浅漬だが、今まではキュウリとセロリを混ぜていたんだが、実はキュウリより、セロリのほうがうまいんだよな。


昨日はキュウリが高くて、さらに「ミニセロリ」という、何がミニなんだか解らないが、普通のセロリよりはるかに巨大なセロリが、普通のセロリと同じような値段で売っていたので、それを浅漬にした。薄切りにしたものに、だし昆布と鷹の爪、酢と塩を振り、よく揉み込んでタッパーにぶち込み、冷蔵庫に入れておく。昨日はまだ漬かりは浅かったが、サラダ的な感覚で大変いい。


一昨日カボチャを煮てみたのだ。カボチャは今まで、「おかずにもならないし、つまみにもならない」と馬鹿にしていたのだが、食卓に並べてみると、酒を飲みながらの炭水化物の補給源として悪くない。

これまで一度もカボチャを煮たことがなかったから、グルメシティのバックヤードの戸をたたき、おばちゃんに出てきてもらって煮方を聞いた。ひたひたのだしに砂糖、そして煮ながら徐々にしょうゆを足していくというやり方で、人生初のかぼちゃの煮物にしては、なかなかうまくいった。


ふと気付いたら、僕はこれまで、もやしに正面から向き合ったことがなかったことに気がついたのだ。鍋や炒め物の具の一つとして扱うだけで、もやしそのものを味わおうとしたことがなかったのだな。しかしもやしはせっかく安いのだし、もうちょっと活用できることがあるのではないかと、昨日はもやしをゆでて、それにおかかと青ねぎ、ポン酢を掛けて食ってみた。

まあ特別どうということもない、普通の味だったかな。もやしはひげ根を取れば、味が格段に良くなるというが、さすがにそこまでやる気にはならないしな。


あとはオクラをのせた冷奴。しかしそろそろ湯豆腐の季節で、スーパーにはもうはや、湯豆腐用の豆腐が並んでた。