菅首相にたいする不信任案がきのう提出され、どうもニュースを見ていると、賛成派の切り崩しはものすごく、可決の可能性もあり、否決されたとしても僅差になって、民主党は分裂。可決されて、衆院を解散するなどということになったら、選挙など到底考えられもしない被災地に、過酷な苦労を強いることになるし、もし菅首相が退陣したとしても、それからしばらくは、新しい内閣をつくるということでゴタゴタがつづく。否決されても、そうすると小沢一派は離党して、新党結成、民主党は少数派になってしまって、法案は野党の支持なしには一本も通らない。いずれにせよ、政治は停滞して、復興は置き去り、原発対策も頓挫して、これから日本は、長期にわたる低迷にあえぎつづけることになる。
とまあ、お先真っ暗の、被災者および有権者完全置き去り、もうこれは笑うしかないということが、今まさに永田町で進行しているわけなんですけど、どうなんですかね、これって。
これは僕が思うに、守旧派の猛烈な巻き返し、ということなのじゃないかと想像するのだけど。
要は菅首相は、もともと市民活動出身だし、原子力のことには詳しいとのことなのだから、基本的に「反原発」の立場だったのじゃないかという気がするんですよね。それで今回も、じっさいそういう方向で、動いていこうとしたけれど、経産省はじめ守旧派が、それを阻止する方向で動いてくるので、なかなかそれを果たせない。でもサミットでも菅首相は、脱原発に向けた公約みたいなことをしてみたりしたものだから、危機感をもった元自民党のひとたちが、なりふりかまわず、菅首相をつぶしにきたと。まあじっさいのところはよくわからないけれども、そう考えると、辻つまが合うという感じは、僕はする。だから菅首相のリーダーシップがないというのは、まあおもてむきの理由で、じっさいには、ただ自分たちの権益を、守りたいというだけのことだったのじゃないかと。
まあしかし、これが日本であるわけで、まさにめちゃくちゃ、こんなことが近代国家であっていいのか、というようなことが、平気で起こる国が日本であるということが、今回はっきりわかったということは、何事も自分の足元を見据えるということが、大事であるという意味では、よかったかなと。これからこの政治の低迷の中で、どうしていったらいいのかを、国民のひとりひとりは考えていかなくちゃいけないと、いうことになったわけだ。
孫さんみたいな、義憤にかられて、損得勘定をぬきにして、行動に出るひと、これから増えるのだろうな。過激派とかは、組織されたりしないのか。国会を爆破するとか。そのくらいのことが起こってもいいような状況に、日本は突入したのだと思うけれども、いまの草食系男子は、そこまでやらないのかな。まあたしかに、うちの息子たちを見ていても、国会を爆破する、なんてこと、到底考えそうには見えないが。
僕は、こないだ、子連れママを中心として、いまの世の中をみなで考えるという会を、立ち上げたいとここでも書き、それで名古屋、東京を行脚して、たくさんのひとと話し、帰ってからも、一週間ほど、これからどうしたらいいのかを長考したのだけれど、結論を言うと、団体の立ち上げは延期することにしました。
まあそれは、物理的、経済的事情が大きくて、もともと団体の立ち上げは、はじめの動機は、自分の収入を期待したものだったのだけれど、それは無理だということはすぐにわかり、原子力情報資料室を立ち上げた高木仁三郎も、しばらくは翻訳などのアルバイトをしながら、資料室のほうは無給でがんばったというから、僕もそうしようとは、腹を決めたのだ。でもそうすると、よくよく考えてみると、僕はアルバイトを、けっこうな時間を使ってやり、それから団体の立ち上げをし、さらに、いま書きかけている本を書くという、3つのことを一度にしないといけないことになるわけで、それはちょっと不可能だと。まあそんなこと、よくよく考えなくても、はじめからわかっていたようなものだけれど、僕としては、なんとなくできそうな気がしていたのだ。でもいろいろ話してみて、具体的にやらないといけないことも見えてきたりして、それでわかったというわけなのです。だからとりあえずは、アルバイトをして、書きかけている本を書き上げて、団体の立ち上げは、それからあらためて考えるということにした。
アルバイトは、いわゆるネットの、豆粒みたいな雑文書きで、最底辺の仕事なのだけれど、ちょこちょこやっているうちにコツがつかめてきて、今では塾の講師をするよりは、時給としてはいい、というくらいのスピードで書けるようにはなっている。まあ薄給だけれど、生活できないこともないというくらいの金は、それで稼げそうだから、僕はこれから、肩書きとしては、最底辺ではあるけれど、いちおう「ライター」ということになるという次第なのです。
本のことは、ずっと以前から考えていた内容で、原発とは何の関係もなかったのだけれど、原発事故を機にいろいろ考えはじめて、それで高木仁三郎の本を読んだりして、自分の考えていたことが、原発の問題、核の問題と、一直線上に結びつくことがわかったので、たぶんそれを含みこんで、うまく書けるのじゃないかと思う。書こうとしている本の内容が、あまりにも時代と関係ないことだったので、まったく売れるとは思えなかったのだけれど、いきなり時代のいちばんホットなところとむすびついたようなところがあって、ちょっとは希望も持ててきました。
僕は自分がやっていくことについて、気持の面では、ソフトバンクの孫さんが、自然エネルギーに傾斜していくとかいうこと、ものすごくよくわかるのだけれど、僕自身は、孫さんとはちがうやり方を、考えていきたいと思っている。それはもちろん、もっているお金の規模がちがうから、僕にはメガソーラーを建設するなどということができないことはもちろんなのだけれど、そういう意味だけでもなく、基本的な考え方として。
孫さんは、現代の「志士」とか、「義士」なんだよな。正義のために、損得勘定を抜きにして、何かやらないといけないと思っている。僕はその心持はほんとに貴重だし、共感もするし、それを否定するものでは毛頭ないのだけれど、僕自身は、もうちょっとちがったやり方を追求したい。といって、もちろんその反対に、いまは自分の損得勘定のみで動くひとが続々と姿をあらわしているわけで、そういう風になりたいと思っているわけでもない。
今の、たとえば政治や、世の中の状況って、ビートルズが解散したのに、ちょっと似ている感じがするのだな。ビートルズは、これはまったく、僕の推測というか、想像であって、誰かがたしかにそうだと言っているわけではないのだけれど、ポールが、音楽的には保守派で、音楽的な合理性を追求し、それにたいしてジョンが、そんな、ただ音楽音楽っていわないで、もっと社会的に意義のあることをすることが、ミュージシャンとしても大事なんじゃないかと、たぶん、孫さんみたいなことを言ったんだな。それで二人は離れていって、最後は分裂、ビートルズは解散してしまうことになる。
でも解散したあとのジョンとか、僕はあんまり興味がないのだよな。「イマジン」とかいうけれど、まあいいけれど、それで世の中が変わったとは、じっさいのところ思えない。けっきょくその歌をうたうことで、自己満足するひとたちの群ができただけで、それによって世の中を変えたひとって、いるのかと思ってしまう。やはり社会的な主張も、音楽的な合理性と調和することで、それが音楽である限り、はじめて力をもつものなのであって、僕はジョンのソロ活動よりも、その前のビートルズの活動自体のほうが、世の中にあたえている無言の影響は、大きいのじゃないかという気がしたりする。内田裕也だって、ロケンロール、とかいって、都知事選に立候補したりするけれど、あれだって、笑えるという以上のことが、とくにあるわけでもないと思うし。
まあこんなこと言うと、それじゃお前はビートルズなのかよ、って話しだけれど、もちろん僕がビートルズになれるわけはなく、これから自分の目の黒い十数年で、たいしたことができるとも思っていないのだけれど、でも僕は、自分がやりたいと思うことは、ソロのジョンでもなく、ソロのポールでもなく、そのどちらでもない、ビートルズという存在。そういう、保守でも、革新でも、どちらでもないもの。そういう立場を、これから自分なりに、見つけていけたらなと思う。そのことが、僕がいま書こうとしている本のテーマなのです。
そこでポイントとなってくるのが、「生活」ということなのだ。まあそのことは、これから追々、考えていけたらうれしいかな。