2011-03-07

原稿、郡司さん、アサリの小鍋だて、ぶっかけめし

今日からいよいよ、本の原稿を書きはじめた。

僕はいま、本を書きたいと思っていて、去年から勉強をし、構想をねり、年があけて、「よし書きはじめよう」とおもって、まえがきを書いてみたのだが、そうしたら、その先をつづけるためには、「取材」が必要であるということがわかった。

やはり本というものを書こうとおもったら、それなりの経験なり、体験なりにもとづいた「実感」というものが必要で、それをどこに求めるかということは、書こうとする内容によってもちがうだろうし、ひとそれぞれだともおもうのだけれど、今回の場合、とりあげたい研究者が4人いて、そのひとたちの本をくりかえし読みはしたのだが、やはり実際に会ってみないとはじまらないということを、書きはじめてみて感じたのだ。

それでそれから、手紙を書いたりアポをとったり、それから実際に会いにいって、話をきいて、ということをしていたら、2ヶ月があっという間にたった。金のたくわえも尽きはじめているから、あまり悠長なことをいってはいられないのだが、焦ってつまらないことを書いても仕方がないから、ここはじっくり腰を落ち着けてやろうとおもっている。

4人のひとに会って、実際に話をきいて、やはりほんとうによかった。

いくら本を読んでいても、やはり本を読むだけでは窺い知ることができない、そのひとの「人生」というものについて、実際に会えば、ふれることができるわけで、内容の論理的な構成については、あらかた出来ていたのだが、それをどちらにむけて、どのように書いたらいいのかということについて、自分のなかで、ものすごくはっきりした。

しかしそうすると同時に、自分がまだ知らない、もっと奥深い世界というものの存在に、その先生方を通してふれることにもなるわけで、それぞれ本を紹介してくれたりもするし、「僕はまだまだ浅はかで、何もわかっていない」ということについて、痛切に感じることにもなるのだが、そういっていると切りがないので、とりあえずいま、自分が書けるだけのことを書くということに、とりかかることにしたわけだ。

それがこれから、僕の力で書けるものなのかどうなのか、そこのところはよくわからない。

書くということは、すでに出来上がった内容を、紙のうえに写すということではない。内容は書きながら組み立っていくものであって、それそのものが、ひとつの「体験」といえるものだ。いまの科学についての、批判的な内容もふくむから、いい加減なことを書くことはできないし、かといって小むずかしい、誰にもわからないようなものになってしまっても仕方がない。

さらにそれがもし、最後まで書けたとしても、ひとに読んでもらえるような、おもしろさをもったものになるのかとか、またそれを出版してくれるところがあるのか、はたまたそれが売れるのか、まったくわからないという「ないないづくし」なわけだけれども、べつにダメでも、死ぬわけでもなし、できるだけのことを精一杯やろうとはおもっている。

先日「郡司ペギオ-幸夫」さんに、あらためてお話をおうかがいした。

研究をはじめた経緯など、まとまった話をいくつかお聞きして、あとは疑問点について質問させてもらったのだけれど、やはりこのひとは、ほんとうにおもしろい。

何がおもしろいのかといえば、このひとは「何か科学的な業績をあげたい」とか、「世の中の役にたつことがしたい」とかいうことではなく、いやもちろん、それも科学者として生きていくためには、真剣に考えなくてはいけない、大事なことではあるのだけれど、それよりも、「心の底からおもしろいとおもえることをやりたい」とおもっているのだ。

郡司さんはその「おもしろさ」について、科学者生命をかけて、磨きに磨きぬいているひとなのであって、それはすでに、生半可なおもしろさではないのだ。

僕は先日郡司さんのお話しをお聞きして、まだまだ遠く手のおよばない、その先にある強烈におもしろいものの存在を、はっきりと知った。

ひとことでいえば、生き物が「目的」をもつということが、どのようなメカニズムによって生みだされるものなのか、ということについてなのだが、それがいま、郡司さんがまさに見つけていることで、去年の夏に出版された「生命壱号」から、郡司さんはまだ先に行ってしまっているのだけれど、残念ながら今回は、そこまでは僕の手にあまるので、割愛することにした。

いずれにせよ郡司さんがすごいのは、それをただ哲学的に語るのではなく、生物学的な実験による証明をきちんともっているということで、僕はどう考えても、それが世の中にたいしてそう遠くない将来、巨大なインパクトをあたえることになるというのは、まちがいのないところだと信じている。

郡司さんからもらった、僕のお礼のメールにたいする返信のなかに、

「徹底した不定さを思想として展開すること、こそが重要だと思っています」

という一文があった。

ここにこれだけ書いても、何のことやらさっぱりわからないとおもうのだけれど、僕はそのことこそを、この本を書く目標に定めた。

その思想こそが、いまの世界の危機を、決定的に救うものになるのであると、僕は疑いもなくおもうのだ。

◇ ◇ ◇

昨日の昼は、おとといの「サバの船場汁」の残りで、昼酒。もちろんそのあと、たっぷりの昼寝付き。というか僕は休日にかぎらず、毎日昼めしのあとには、かならず昼寝をしてるのだ。てへっ。

夜はアサリの小鍋だて。

いまアサリが旬の時期に入ってきて、グルメシティでも値段がぐんぐん下がっている。水菜やほうれん草も、やはり値段が下がっているし、これからうれしい季節になりますね。

今回は淡口しょうゆで味をつけ、七味をふった。これも池波正太郎「そうざい料理帖」から。

それに砂肝の生姜煮。

酒は「古都」の冷やを1合半。これで古都は、のみ切った。

今日の昼は、残しておいたアサリで、アサリのぶっかけめし。昆布でだしをとり、酒、みりん、しょうゆで味をつけた汁で、大根とアサリを煮て、それを炊きたての白めしに、汁ごとぶっかける。これも「そうざい料理帖」からだが、ほんとに素朴な味で、たまらんす。