2011-03-05

「食卓の風景」、ユッケジャン、ハマグリの湯豆腐

池波正太郎「食卓の風景」を読んだ。

この人の本は、最近「そうざい料理帳」を読んだのが最初なのだが、これには食生活が一変するほどの影響をうけた。

まず池波正太郎の文章が、なんともいえぬ風情がある。

もともと新国劇の脚本を書き、演出をしていたという人だから、「人を惹きつけるセリフまわし」というものについて、実際の劇場での反応を目のあたりにしながら、研究に研究を重ねてきただろう。なんといっても時代劇というものは、口上やら、見栄やら、「気持ちのよいセリフ」というものが命だろうからだ。

そこで磨き上げられてきた、「職人技」ともいえる文章の技術に、一度とらえられてしまうともう離れることができない。内容がどうのこうのという以前に、この文章に身をまかせ、流れにしたがっていくことが心地いいのだ。「読書の快感」とは、こういうものを指すのだろうなとおもう。

それから池波正太郎は、中学をでて株屋になり、戦争までの10年ほど、「そのときの儲けを蓄えておけば、家の4、5軒でも建っただろう」というほどの金をかせぎ、それをすべて、「遊び」に費やしてきた人だ。池波のばあい遊びは、「飲食」が中心だ。仲間の「井上留吉」とともに各地のうまいものを食べ歩き、それらの味を、舌に記憶させている。

現代ではかぎりなく廃れてしまった、戦前の日本の文化。それを多感な時期に、舌で味わい尽くした経験が、おそらく、池波正太郎をささえていて、あくまでもぶれないその視点が、読者をして、日本が元々もっていた良さというものを、おもいださせることになるのである。

「食卓の風景」は、数ある池波正太郎の「食」にかんするエッセイのなかでも代表的なもので、「そうざい料理帖」へもここから幾篇もが、抜粋してのせられている。

自宅で食べる毎日の食事のこと、東京や京都、その他各地でたずねあるく名店のこと、そういった話の合間に、むかしの思い出やら、最近みた映画のこと、日々の自分の生活や仕事のこと、などなどの話がさしこまれ、さながらここには、池波の人生そのものが姿をあらわす。その達者な、しかし衒いのない筆にみちびかれて、読者はこの本のなかで、池波とともに人生を歩むことになるのだ。

そしてその、池波の人生の中心には、「食」がある。

明け方まで仕事をする池波は、昼ちかくになって起床し、まず第一食をたべる。そうしていながらすでに、夜食べるもののことを考えはじめている。午後に散歩に出かければ、商店街で鶏のコマ肉だの、魚介のうまそうなものだのを買ってきて、それを家人に料理させ、夜の食事にする。

男性にありがちな、食べるものはすべて家の者にまかせてしまうということは、池波は一切ない。

この本の冒頭、池波は家で自分が食べたいものをきちんと食べられるように、いかに家人と戦い、手なづけるのかということについて、事細かに書いている。老母と妻と、女二人に囲まれて、自分が服従するのでなく、相手を服従させるために、猛烈な努力をするのである。

結婚したばかりの若い友人が、「自分は本当は、朝は味噌汁が食べたいのに、妻がそんなものは下等だといって、コーヒーやトーストなどしか出してくれない」と嘆くくだりがある。そこで池波は、「そんなときは、お膳をひっくり返せ、そうしないと、自分が食べたいものなど、一生食べられやしないぞ」と啖呵を切る。

仲間たちと旅に出れば、目的はうまいものを食うことになる。訪れる店はどこも、池波自身の思い出と、深くつながりをもっている。「食べることが人生の最大の楽しみである」という池波の考えは、終始一貫、ゆらぐことがない。

そんな池波が書くからこそこの本は、たんなる「食のエッセイ」ではなく、「食をとおして人生を語る本」になりえたのであるとおもう。

◇ ◇ ◇

おととい煮込んでおいた牛肉に、昨日の昼はコチュジャンとしょうゆ、みりん、ゴマ油で味を付け、ユッケジャンにした。

野菜はおとといの晩と同じだが、やはりこうやってきちんと味を付けたほうが、全体のまとまりはよくなる。

ただどうも、本場韓国で食べるのとは、根本的に味がちがうような感じがするから、これはきちんと誰かにきかないと、これ以上先へは進めないのかもしれない。

◇ ◇ ◇

ひな祭り用のハマグリが、グルメシティで大量に余ったみたいで、昨日は半額で出ていたから、それを湯豆腐に入れた。

ハマグリ入の湯豆腐は、池波正太郎の本で見たもので、池波はこれを、どこぞの旅館の朝めしで食べたのだそうだ。ハマグリと豆腐は、じっさい実によく合って大変うまい。

食べおわったら、この汁に、タレにしたしょうゆとおかかを入れ、吸物にする。

あとはホッケの焼いたの。大根おろしをたっぷりと添える。

酒は佐々木酒造「古都」の冷やを2合。