2011-02-27

生物記号論者・川出由己さんインタビュー (まえがき)

「生物記号論」は、お世話になっている中村桂子さんの本棚で見つけた。

その本棚は、それまでも何度も見ているもので、この本の背表紙も、当然目にしていたはずなのだが、やはり出会いというものは、タイミングがあるのだと思う。

僕は郡司ペギオ-幸夫さんの研究を、ほんとにおもしろいと思っていて、僕はもちろん素人だから、科学的な研究成果にたいして、きちんとした評価はできないわけだが、郡司さんの最新刊である「生命壱号」は、生物学にとって革命的ともいえる内容ではないのかと、勝手に信じている。

「生物とはどういうものであるのか」と考えるとき、これまでの科学では、それをあくまで、原因とその結果というものの連鎖によって構成される、客観的なものであるととらえ、記述しようとしてきた。

たとえば目の前に、自分が飼っている猫がいたとして、猫の飼い主なら、猫が人間と同じではないにせよ、ある感情をもち、飼い主の行動にたいして喜んだり、不満をもったりするということは、あまりにも明らかなことだろう。また猫はいうまでもなく、自分が生きていくという目的のために、餌を食べ、さまざまな探索をし、自分が居心地のよい場所を見つけようとする。

日常的な感覚からすれば当たり前な、そのようなことも、科学では根本的には、認められていない。

人間以外の自然には、感情や目的などというものは、一切存在してはならないということが、科学における公式見解だ。一見感情とか、目的とかいうように、見かけ上見えるものも、長い時間をかけた生物の進化のなかで、高度にプログラミングされてきた結果なのであって、あくまで生物は、この歯車が動けば、それによってこちらの歯車が動き、というような、機械の一種であると考えるのだ。

科学のそうした見解にたいする異議は、これまで100年以上にわたって、さまざまな人が、提出してきた。それは「生気論」と総称され、生物には、物理的、化学的な過程だけでは説明できない、それとはべつの「生気」とでも呼ぶべき、とくべつな性質があると考えるものなのだが、そのすべては、科学によって否定されてきた。もちろん中には、理論として実際に未熟なものもあったに違いないが、今ふりかえると、説明として一考に値する、もっともなものであるにもかかわらず、徹底的な弾圧によって、抹殺されたものもあったと、科学史家の米本昌平氏は、著書「時間と生命」に書いている。

米本氏は、科学が「感情」や「目的」などというものを認められないのは、科学がキリスト教的な考え方と戦い、そこから離脱することによって誕生したという、その出自に大きな理由があるという。すべてを「神の意志」「神がつくり給うた」ものとしてではなく、真理というものをどう、探求することができるのか、という苦闘が、科学に「客観性」というものをもたらした。自然はあくまで、客観的に記述できるものであり、人間はその外側から、自然を眺めている存在なのだという自然観が、あくまで人間の属性であると考えられる「感情」や「目的」などというものを、自然にもちこむことを許さないのである。

しかし単純に考えれば、人間も自然の存在であり、46億年におよぶ地球上の進化の歴史の延長線上に、自然によって生みだされてきたものである。

そうであるとすれば、いま人間がもっている、「感情」や、「目的」などということが、人間が誕生して初めて生み出されたものではなく、その前から存在したものであると考えることは、何もおかしいことではないだろう。むしろあるとき突然、それらが生まれたと考えることのほうが、よっぽど無理がある。

生物学者もいま、徐々にそういう方向へシフトしつつある。

郡司さんはそのトップランナーであると、僕は勝手に思っているのだが、郡司さんは、生物というものが「記号」の性質をおびたものであると考え、それを仮定して、コンピュータによってシミュレーションさせた結果と、粘菌や鳥の群れなどとの観測結果が、ピタリと一致するという成果をみちびきだしている。

郡司さんの研究の前提として、「記号」をいうものを、生物に適用するという試みの歴史があり、それが「生物記号論」だ。

記号とは何なのか、それを生物に適用するとは、どういう意味なのかということは、「生物記号論」を読めば詳しいのだが、その著者である川出由己さんに、僕は先日、インタビューしてきた。

その内容を、このブログでこれから4回にわたって公開する。

川出さんは、1924年生まれ。東京大学を卒業され、京都大学ウィルス研究所教授をつとめられた。63歳の定年後、生物記号論の勉強を始め、2006年に、この「生物記号論」を出版された。

なおインタビューの内容は、事前に川出さんにチェックし、修正していただいたものである。

川出先生、お忙しいところ、本当にありがとうございました。