2010-12-28

昭和なラーメン屋、新福菜館三条店

昨日の昼めし、新福菜館三条店へ行こうと思ってやめたのだが、それは単に一度は我慢してみるというだけのことであって、けっきょく今日は行ってしまうのだ。 
僕は新福菜館三条店の中毒になっていて、毎週一度は行かないと気がすまない。
中毒症状に素直に従ってしまうのも癪だから、一度くらいは抵抗してみるという話なのであった。
それに明日は定休日だし、そのあとはもう年末年始の休みに入ってしまうかもしれないから、今日食べておかないと、食べ納めができないことにもなりかねない。

この店の何がいいかということについて、このブログでも書き尽くしているのだが、年の終わりでもあるということでまた書くと、もちろん家から近いということはあるのだが、まず店の雰囲気がいい。
店構えは、基本、殺風景。
愛想という概念がない。
僕は客に媚びない店が好きなのだ。
だから流行りのファッショナブルな店は、まったく興味がない。

店員も無愛想ということはないが、過剰な愛想や威勢のよさは皆無、客には丁寧に応対するが、あとはやるべき仕事を淡々と、真面目にこなしている。
それは大将の姿勢そのものでもあり、若い店員はその後姿を見て真似ていると思うが、若い人達は中国人も多く、彼らがなんとも素朴な様子でちょっとおしゃべりしたりするのを見るのも楽しい。

午前中や午後の空いた時間になると、大将は若い店員にラーメン作りを任せることがあるのだが、今日はとくべつ若い男の子が一人前のラーメンを作ることになり、そうすると女の子やらちょっと年上の店員やらがそのまわりに集まり、声をかけたりちょっと手伝ったりしながら、うまく麺がゆでられるのか、心配そうに眺めていたりする。
そういう様子を見るのも、また風情がある。

書きながら思ったのだが、このカウンターの中で大将と店員たちによって繰り広げられる光景は、僕が子供の頃の「時間ですよ」とかに代表されるホームドラマそのもので、まさに「昭和」なのだな。
僕はもしかしたら、この昭和な雰囲気の懐かしさに惹かれているということなのかもしれない。
店員は過半数が中国人なのだが、もしかしたら中国人だからこそ、そういう雰囲気をかもし出すことができるということなのかもしれないな。

食べるものは、この頃はいつでも同じ。

ビール小瓶とキムチ。

ラーメン大盛り。

このラーメン、食べるたびにああうまいと思う。
歴史的な順番でいうと、京都ではこの新福菜館が戦前に創業し、第一旭が戦後すぐ創業するということになっている。
第一旭はおそらく、先発の新福菜館を批判的に受け継ぎながら、自分の味を作ったものと思うが、主張のはっきりした、男らしいラーメンを出す。
それにたいして新福菜館は、女性的なのだな。
主張よりは包容力があり、客はその懐の深さにやさしく包み込まれてしまって、抜け出せなくなるという企画だ。

どれをとってもうまいのだが、その中でもこのチャーシューは、やはりうまい。
プリプリな仕上がりなのだ。
京都のラーメン屋はこういうチャーシューを出す店が多いが、起源はもちろん、新福菜館にあるのだろう。
作り方を見ていると、スープを炊いている釜で塊肉をいっしょに炊き、それを冷えたタレに漬けるというようにしているらしい。
この作り方が、チャーシューの作り方として一般的なものなのかどうかは知らないが、味の付いていないスープで炊くことで、うまみや肉汁が抜け出てしまわないということなのだろうな、たぶん。

僕はこの店で、まだ大将や店員に話しかけたことはないし、これからも話しかけないだろうと思う。
実際この店で、お客が大将や店員と親しげに話しているのを、一度も見たことがない。
この店の客となるということのために、コミュニケーションはまったくいらず、ただ座ればいい。
完成された、居心地のよい世界がそこにはあって、客はその世界の観客なのだ。

ちなみにもし京都へ来て、新福菜館へ行こうとした場合、かならずこの三条店へ来てください。
京都駅の近くの新福菜館本店は、僕に言わせるとイマイチで、そちらへ行くくらいなら、となりの第一旭本店へ行ったほうが100倍いいです。