2010-12-02

生命記号論

昨日「生命記号論」(川出由己)という本を桂子先生の本棚で見つけて、借りてきてパラパラと読んでいるのだがすごくおもしろい。その本棚は僕がこれまで半年以上、何度も見てきているもので、この本の背表紙も目にしているはずなのだけれど、やはり本にも出会いってあるのだな。今僕は自分が書こうとする本の内容をあれこれ考え始めていて、書きたい主題ははっきりしているのだけれど、本にまとめるには材料が、もう一歩足りないかなと思っているところだったのだが、この本はその最後のピースを埋めるかのように、ぴったりと僕の心に響くものだった。

記号論というのは人間の言語をもとに、その性質を抽象し、体系付けたものなのだけれど、この本では生き物のふるまいというものも、それは犬や猫のような高等動物から、アメーバのような単細胞に至るまで、人間の言語と同じように、記号という側面を持つと考えなければ理解できないと主張する。そして序文の最後にはっきりと次のように書いている。
私は生物すべてに共通の、もっとも基本的な、無生物にはない特性は、「心の次元」をもつことだという結論に達しました。もちろん「心」といっても人間の心と同じものではなく、別のことばを使ったほうがよいかもしれませんが、要する人間の心は、生物進化の過程で人間の出現において突然生じたとか、あるいは人間以前のどこかの段階で心が成立し、それ以前にはなかった、というのではない、生命誕生の最初から、物質をこえた、ある“内的次元”が生物にはあって、それが生物進化とともに発展したのが人間の心だと考えるのです。この本の後半を通じて私のもっとも伝えたいメッセージはそのことです。
これはもう、まさに僕が書きたいことそのものなのだな。

小林秀雄には「感想」という、数年にわたって連載しながらも、未完に終わった作品があるのだが、その冒頭は、亡くなった小林秀雄のお母さんの魂を見た、という話から始まっている。魂というものは、現代においては、非科学的な迷信であると考えられているが、自分がお母さんの魂を見たというのは、実感としてはっきりそう感じられたものであって、今でもそれは、お母さんの魂であったと、自分は信じている、というところから始まって、ベルクソンの生命論の、長々と続く読みほどきに入り、返す刀で近代科学が、分子のふるまいを精密に追いかけていくことにより、生命や意識というものを明らかにできると信じていることに対して、バサバサと斬りつけ、量子力学の観測の理論の説明に入って、それが終わったところで中断してしまった。

小林秀雄自身は、「方向は見えていたのだけれど、自分には知識が足りなかった」と話しているのだが、僕は小林秀雄が書きたかったことは、「魂の実在」であったのだと思う。それをベルクソンの哲学と、量子力学の理論から導き出したいと思ったのだけれど、力尽きてしまった。

今でも魂や心というものが、科学の中にはっきりとした位置を占めるということにはなっていないのだけれど、それにチャレンジしている科学者は、少数派ながらも存在する。生命記号論がそういう理論の一つだと、僕は今回はっきり知ったわけなのだけれど、たぶん主流派の科学者から言わせれば、「それは単なる解釈であって、実験的に証明されていない」ということなのだと思う。でもそれを、決定的な形で、実験的に証明しつつあるのが、郡司さんであると、いうことなのだ。