2010-11-05

意識(3)

今科学によってはっきりと区別され、別物であると線が引かれている「生命」と「意識」とについて、それらを同じ原理に基づく、根本的には同じものであるとみなすたくさんの理論のうち、僕が最高に面白いと思い、真実に向けて大きな一歩を踏み出していると信じるものが、このブログでも何回も書いているが、郡司ペギオ幸夫氏の理論だ。郡司氏は「観測」というものを、理論に持ち込んでくる。

物事には常に、「部分」と「全体」との両面がある。例えば生まれたばかりの赤ん坊が、泣いたとする。「部分」として取り出してみれば、そこに存在するのは、ただ赤ん坊の泣き声だけだ。しかしそれを聞いたお母さんは、瞬時に、この子はおっぱいを欲しがっているのだとか、おむつを変えて欲しがっているのだとかいうことを汲み取ることができる。それは単に赤ん坊の泣き声だけから結論されたことではなく、その赤ん坊がいつも何時頃におっぱいを欲しがるのかとか、さっきおむつは取り替えたばかりだとか、またはさらにその赤ん坊の性格とか、まわりの状況とか、そういった、その赤ん坊とお母さんの生活の「全体」として、わかることだ。

べつに赤ん坊の泣き声に限らない、人間があるものを見て、それが「わかる」という時、その目の前のあるものを通して、それが本ならば、著者の人となりであるとか、何らかの風景であるとか、そういう「全体」を、自分の中で、思い描いているものだ。それが思い描けないときは、目の前の本や泣き声は、ただの「部分」に留まり、自分とは関係ない、身近に思えないものとなってしまう。

郡司さんはそのことを、「観測」と呼んだ。ある「部分」が観測され、それによって「全体」が形作られる。そのような、観測に仲立ちされて、部分と全体の両方が存在するもの、それが「意識」であり、そしてまた、「生命」も同じものであると、郡司さんは考えたのだ。

しかしここで大きな問題がある。「全体」というものが、そのように、お母さんが自分と赤ちゃんとの日常的な関係において、自分の中に見い出すようなものであるとすると、それがどのようなものであるのかはお母さん次第であって、極端な話、子育てに疲れ切ったお母さんにとっては、赤ちゃんの泣き声はただうるさいだけの、自分の人生の邪魔をするものとしか映らない場合もあるし、別のお母さんにとっては、この上ない喜びであるということもある。

赤ん坊の泣き声という部分に対応する全体というものは、本質的な意味で、一つに定まらないものなのである。

そういう側面というものを、これまでの科学は、「主観的である」ということで、切り落としてきた。上の例で言えば、言語学においては、単語というものには、「意味」があって、それが社会的な約束によって対応関係を持っていると、そのように見なしてきた。「意味」という仮想的な、客観的に取り扱うことができるものを考え出し、それによって理論体系を構築してきたのだ。それは大人のことばについては、近似的には正しいのだけれど、「赤ちゃんの泣き声の意味」というものについては、それでは全く説明することはできないし、大人のことばについても、実際には間違っているのである。

郡司さんはだから、「観測」というものを組み込んで、コンピュータ上のモデルを作っていく、そのモデルにおいて、「全体」はあくまで、モデルの中の観測者が、初めて見つけるものとしている。

モデルは理論家が作るものなわけだから、やろうと思えば、「全体」が、ほんとは客観的に見れば存在しているけれど、モデルの中の観測者にとっては、情報が少ないために、それがきちんとはわからない、という形で、「定まらない全体」というものを組み込むことも簡単だ。

しかし郡司さんのモデルはそうではない。客観的な全体は一切存在せず、全体はモデルの中の観測者のみによって見つけられるということになっている。いわば徹底的に主観的な「全体」が、モデルに組み込まれているのだ。そしてそのように「全体」を規定して初めて、そのモデルは実際の粘菌など、生き物のふるまいと、実験的に一致するようになるのである。

(つづく)

意識(1)