2010-11-03

意識(1)

赤ん坊がことばを話せるようになっていく時、大人が外国語を話すのとは、まったく違った道筋を歩むということは、誰でもが知っていることだ。生まれてから1、2週もすると、赤ん坊は、お父さんはなかなか難しいのだが、少なくともお母さんとは、まだことばらしきものは一言も喋らないのに、おっぱいが飲みたいのか、おむつを変えて欲しいのか、泣き声だけで完全に伝えてしまう。お母さんはそれを、まず間違うことはない。

1ヶ月もすると、おっぱいやおむつの時に、火が付いたように泣くのとは違った、「あーん」というような、甘えた声で泣くようになり、これは「抱っこしてくれ」という意味なわけで、なぜそれが解るかというと、抱っこすると泣き止むからなわけだが、それがまた一人前に贅沢だったりする。

「抱っこして立て」というのがあるし、これは抱っこしても泣き止まないが、抱っこして立つと泣き止むわけだが、それから「抱っこして立って、歩け」というのもある。「抱っこして立って歩いて、外へ連れていけ」というのまであったりする。まだ目も見えているのか見えていないのかよく解らないような、1ヶ月の赤ん坊が、立ったり歩いたり、ベランダから外へ出たりということを、どうやって解るのか不思議だが、赤ん坊は生まれてすぐの時から、もういっちょ前であって、まだ泣くことしかできないが、人間として感じ、主張する物事の内容については、根本的にはすでに大人と同じものがあるということを、子どもを育てたことがある人なら、誰でも感じることだと思う。

全体として一人前のその内容を、初めは「泣く」というきわめて直接的な手段で伝えることしかできないが、成長するに従って、それをことばでもって、徐々に明確に伝えることができるようになるということで、終いには「権利」とか「義務」とか、そんな社会的な約束事まで駆使するようになっていく。

赤ん坊の場合、そうやって「内容の全体が徐々に明確になっていく」ということは、成長を追ってゆっくり進んでいくから解りやすいが、すでにことばを喋るようになっている大人でも、物事を理解するプロセスは同じように進む。

何かを思いついて喋りだそうとする時とか、こうやってブログで文章を書き始めようとする時とか、その内容について、あらかじめ事細かに解っているわけではない。大まかな内容が頭に描かれているだけであって、それが話したり書いたりするにつれて、明確になっていく。「論理的思考」などと言われると、あたかも機械を組み立てる時のように、一つひとつの部品を組み合わせていくような気がしてしまうが、実際に自分が話したり書いたりするとき、どうやっているかを思い出せば、そんなことではなく、赤ん坊が成長する時と同じように、大まかな、漠然とした全体が、徐々に明確になっていく、という過程をたどることが解る。

このことは、「人間の意識が、何かの形を作り上げていく時は、大まかな全体が徐々に明確になっていくという過程をたどる」とまとめることができる。

実はこのことは、生き物が、自分のからだを作り上げていく時に、まったく同じことが見られるのである。

(長くなるので、続きは後日)