2010-11-09

意識(5)

この連続投稿、4回で終了の予定だったのだけれど、終わらなかった。だんだん小難しさが増幅して、しかも僕の妄想も入ってきていて、まったく読みにくいものになっているかと思うのですけど、興味ない方はスルーしてくださいね。

量子力学は、20世紀の初頭に約30年ほどをかけて、多くの物理学者の協力によって確立された、電子とか、光子とか、眼にも見えないミクロの物質について説明をする理論体系だ。それまでニュートンの「力学」や、「電磁気学」など、「古典物理学」と今では呼ばれる理論体系で、物質のふるまいの基本的にすべてが、すでに明らかにされたと多くの物理学者は考えていて、あとは重箱の隅をつつくような、細かな仕事が残っているだけだろうと、思われていたところに、それではまったく説明のできない現象が存在することが、明らかになってしまったのだ。

それは誰もが身近に知っている、「光」についてのことだった。それまで光は、「波」のようなものであると考えられてきた。それは光が波であることを示す、ある実験結果がたしかに存在したからなのだが、今度は光が「粒」のようなものであると考えなければ説明できない実験結果が現れてしまったのだ。

波というのは空間で広がりをもったものだ。それに対して粒というのは、ある一箇所にかたまって存在する。波と粒とはまったく異なったものであって、どんなものであっても、波か、粒か、どちらかの性質をもつことしかできないはずなのに、光はある実験では波であると考えなければならず、また別の実験では粒であると考えなければいけない、波であり、かつ粒であるという、まったくあり得ないことになってしまった。

そこで物理学者たちは、ここに古典物理学の明らかな限界が、はっきりと表れていることを悟り、新たな理論体系、「量子力学」の建設へ向けて、全力をあげることになったのだ。

最終的に、この同じ光というものが、波でもあり粒でもあるというあり得ない事態が、どのように解決されたのかというと、実はここで「観測」が持ち出されてきたのだった。

光は、まわりに何もない時には、波のようにふるまう。ところがこれを、粒として観測しようとすると、というのはたとえば、何か別の粒をそこに置いて、光の粒がそこにぶつかるはずであるような状況をつくる、ということなのだが、そうするとその時だけ、光は粒としてふるまうというのだ。そしてさらに、光を粒として観測しようとする場合でも、ある一定の精度以上に詳しいことは絶対にわからない、実験装置をどんなに精密に作ったとしても、決して明らかにできない、ということになってしまったのだ。

この結論に噛み付いたのが、アインシュタインだった。アインシュタインは量子力学建設のきっかけとなる、光が粒であると考えなければいけない実験結果を初めに明らかにした人で、量子力学建設の立役者の一人なのだが、この最後の結論には納得することができなかった。

そもそも物理現象は、人間とは関係なく、あくまで客観的に存在するはずのものである。それが「観測」などという、人間の都合によって、光が波であったり、粒であったり、ふるまいを変えるというのは、まったくあり得ない、ナンセンスなことである。

アインシュタインは何通りもの、こういう状況では量子力学が成り立たないはずだという思考実験を考え出し、量子力学建設の中心人物であったニールス・ボーアに挑むのだが、それらはすべて退けられ、アインシュタインが間違っているということが証明されるということになった。しかしそれから、アインシュタインは死ぬまで、量子力学を認めることはなかったのだそうだ。

(つづく)


意識(4)