2010-11-02

物質と精神

僕がいま、「この世の中のすべてのことの中で、最もおもしろい」と思うことは、「物質と精神」がどう接点を持ちうるか、ということなのだ。

物質のふるまいについては、ニュートンが万有引力の法則を発見して以来、数学と実験によって説明するというやり方が、巨大な成功をおさめてきた。先日、小惑星探査機「はやぶさ」が、7年にわたる飛行の末、無事地球に帰還できたのもその成果だし、さらにそういう目に見える領域だけでなく、「宇宙の全体」や、「素粒子」などという、実際に眼で見ることができない、超巨大な領域や、超微小な領域までもが、正確に説明されるようになってきた。

そういう物質世界での成功が、「世の中のすべてのことは、客観的に説明できる」という思想を生んだ。数学や実験というものは、誰がやっても同じ結果をみちびき出す。そういう客観的なやり方で、森羅万象すべてのことを説明し尽くそうということを目標として、「科学」というものが誕生した。科学はたしかに多くのことを実際に説明し、それが人間がものごとを説明しようとするときの有力なやり方であるということについては、疑いようがない。

しかし科学が発展し、説明できる領域が広がるにつれ、「ほんとにそれで、すべてのことが説明できるのか」ということについて、深刻な疑問が生まれ、それは日々大きくなっている。その最大のものは、「意識」である。人間は誰でも、自分が意識をもっているということについて、実感として知っている。人が日々、様々なことを感じ、考え、見つけていくということを、自分の内面で行っているということは、誰にも疑うことができない、間違いのないことだ。

ところがその「人間の内面」というものは、科学がこれまで、「主観的」であるとして、徹底的に排除してきたものなのだ。科学はあくまで、個人の主観によらず、客観的な、誰でもが正しいと認めるものとして、行われていかなければならない。そういう立場からすると、誰でもが主観的には、間違いなく存在していると知っている意識は、一切の居場所がない。

科学者の多くは、脳細胞の分子的な、物質としてのふるまいが、この先究極まで明らかになれば、その総合として、意識も説明できるようになると思っている。しかしどんなに意識が客観的に説明されたところで、それを見る自分の意識は、「ほー」と感心するだけだ。論文に書かれた事情と、自分の意識とは、何の関わりもない。

また同じように、「生命」ということについても、これまでの科学では、どうにも説明できないことがある。生き物は明らかに、まわりの環境を認識し、そこから何らかの判断を生み出し、自分の行動を決めている。それはもっとも単純に言えば、「生き物は意識をもっている」ということだ。実際科学が生まれる以前は、人間はみなそう考えていた。

しかし科学は、それを認めることはできないから、生き物をなんとかして、ロボットのようなものとして説明しようとする。たしかに生き物はすべて、DNAやタンパク質、脂肪などといった物質からできていて、それらが組み合わされてできている。でも生き物がいつも行っているように、あらかじめプログラムしておくことができない、まったく新しい状況で、自分の行動を決めていくことができるということについての、納得できる説明は、これまでの科学は見つけてきていない。

そうやって長い間隔てられてきた、「物質と精神」のあいだの厚い扉が、しかし今、押し開かれようとしているのだ。少数派ではあるが、それに挑戦する科学者は存在し、茂木健一郎もその一人だが、彼らはここ数十年、試行錯誤をつづけている。それはもちろん、ただ精神について、科学とはべつに論じるということではなく、科学的な枠組みの中に、精神をどう位置づけられるのかという問いなのだ。続けられてきた努力は、今少しずつ実をむすび、突破口はもうすぐ目の前にあるという、最高にエキサイティングなところに今、来ているのだと僕は思う。