年末から年始にかけての、いちばん寒い頃、気温はマイナス20度ほどで、それでも今年は暖かいと言っていたが、景色は寒々として、道も凍りつき、ウラジオの空港からホストと対面するホテルまで乗る、夏タイヤを履いた、成田空港リムジンバスの中古車は、スリップしたとはっきり解る、横方向の不気味な動きを見せながら、猛スピードで進んでいく。
ホテルで待っていてくれた僕のホストは、40代の、僕とほぼ年の変わらない夫婦で、15歳の子供とアパートに住んでいた。そのアパートというのが、外から見るとみすぼらしい、コンクリートの色がむき出しになった、何の愛想もないものなのだけれど、家の中はきれいにリフォームされていて、さらに当たり前のことだが暖房が完備して、Tシャツ一枚でないと暑いくらい。この外は寒いが、中は暖かいというのは、アパートだけでなく、ロシアの人の気質そのものを表していると僕は思う。
食事をするということになると、ボルシチやらピロシキやら、ちょうど正月休みだったので、ご馳走が作り置きされているのを、ホストのお父さんとお母さんが、僕の皿に両側からよそってくれる。その皿が、食べても食べてもなくならない。僕が食べた分だけ、また新たによそってくれるからだ。そして10分に一回くらい、乾杯だ乾杯だと言いながら、ショットグラスにウォッカを注ぎ、それを一気に飲む。そうやって、もうこれ以上食べられない、というほどお腹がいっぱいになると、それじゃ出かけよう、ということになる。
出かけると言っても、正月休みだから、ただでさえも少ない娯楽施設は、どこも閉まっている。だから親戚縁者の家を渡り歩くことになるのだが、どこの家へ行っても、まず食卓に座り、食べることから始まるわけで、しかも先ほどと同じことが繰り返される。それが一日4回も5回も続くから、僕は自分の一生で、あんなに食べたことはない、というくらいの量のものを食べた。
皆とにかく世話好きなのだ。外に出かけるとなれば、コートから帽子から手袋から、すべてを着せてくれる。道を横断するとなれば、ロシアの道は危ないからと言って、手を引いてくれる。親戚が家に集まれば、ギターを掻き鳴らして歌って踊る、その仲間に入れさせられる。ホストのお母さんは、僕にロシア語を喋らせたくて、今日どこそこへ行って、何を食べて、かにをして、ということを、口伝えで練習させる。おかげで帰国後、僕は一通りの報告を、ロシア語でできるようになっていた。
一緒に何人かの、同世代のお父さんたちと行ったのだが、皆同じだったようで、自分は生まれてこの方、母親にも、奥さんにも、ここまで温かくされたことはなかったとまで言う人もいた。それは多少誇張された言い方だったにせよ、外から見ると冷たい国ロシアは、中に入ると、とんでもなく温かいということは、たしかに言えるとのだ思う。