2010-10-02

北朝鮮、郡司ペギオ幸夫さん

北朝鮮が、国家指導者の地位をふたたび世襲するということに向けて、着々と準備をすすめているわけだ。
日本人の感覚からすると、国家を世襲するなどということは、想像もつかない、トンデモなことなわけだが、世界を見ると、世襲とまではいかないにせよ、独裁、専制体制の国家というものは、ほかにもけっこう多いわけで、この個人や少数の人間が物事のすべてを決める組織体制というものは、人間の性質にとって、ひとつの安定な形だということが言えるのだろうと思う。

独裁者や専制君主というものは、たぶん、車を運転するような感覚で、組織を運営するのだろうと思う。
人間は、ある意味自分のからだを拡張するような形で、車やバスや、飛行機や、そういうものを操縦できるようになるわけだから、べつに同じように、組織を操縦できたとしても、ちっとも不思議じゃない。
車を運転するというのは、人間にとってごく自然な、誰でも当たり前にできる行いなわけだから、独裁国家というものも同じように、操縦している独裁者当人にとっては、何も特別なものではない、当たり前の行いなのだろうということは、想像がつく。

ところでそのように組織を操縦するという場合、重要なことは、意思を持つのは操縦している人間ひとりだけであって、組織の他の人間全員は、その人の意思に基づいて、完璧な機械として動くようになっていなければいけないわけだ。
自動車のエンジンやタイヤが、運転者の意思に関係なく、自分の意思をもって勝手に動き出したとしたら、もうそれは車とは言えないことになる。
だから組織の操縦者は、組織の他の人間が、まったく意思を持たないようになることに気を配り、もしどうしても意思をもち、勝手な行いをやめないようなら、それを排除していくと、いうことをしなければならないわけだ。
組織の他の人間を、自分と同じ、意思を持つ人間と見なしてしまっては、組織の操縦というもの自体が、成り立たないことになるのである。

日本も昔、江戸時代までは、そのように国家が運営されていたのだと思うが、明治以降、外国の影響を受けて、民主主義というものが導入されるようになっていった。
今では日本人は、国家が独裁的に運営されるなどということは想像もできず、個人の自由、ひとりひとりの意思は、何より尊いものであり、それは侵さざるべきものであると、いううことについて、誰もそうでないと思う人はいないだろう。
小沢一郎にたいする拒否感情も、僕自身ふりかえってみると、小沢が政治と金について、いろいろ問題を抱えているというよりも、その独裁的な体質、まわりをイエスマンで固め、人間を機械の部品のように扱うやり方というものに対してのものであると思うし、今回の民主党党首選の結果というものも、日本人の多勢がそのように思ったということの、表れだったのだと思う。

しかし民主主義というものが、たとえばこうやって中国と、具体的な問題を抱えることになってみたり、北朝鮮が、あれほど経済的に疲弊しても、国家主席を世襲しようとすることに成功しつつあることを見ながら、ふりかえって我が国の政治の状況を眺めてみると、国民があれこれ意見をもつ、そのことに、政権が振り回され、総理大臣は毎年変わり、政党まで変わったのにもかかわらず、相変わらず政治のリーダーシップが発揮されているとは言いがたく、これからの日本についても、この巨額な借金を抱えながら、怒涛のように変化する国際社会の中、きちんと進んでいくという道筋も見えず、ほんとうは政治というものは、誰かが独裁的にやっていかなければ、うまく行かないものなのじゃないかという考えが、国民のあいだに芽生えることになったとしても、不思議じゃない。
実際第二次世界大戦前の日本というものは、似たような状況で、軍部の暴走というものを許したのじゃないかと想像する。

これから日本がどうなっていくのか、僕には想像もできないし、もしかしたら、物言えば唇寒し、みたいな、そういう状況がふたたび訪れるようになってしまうのかもしれないけれど、僕はそういう動きがあったとしたら、全力で対抗したいと思う。
人間が自分の意思を持つということについて、制限を受ける状況というものは、僕には耐えられない。
しかしそのとき、皆が勝手なことを言って、船頭多くして船進まず、日本丸が立ち行かなくなるということも、また困るのであって、皆が自分の意思を持ちながら、しかも全体として、ひとつの統一だったふるまいをするということについて、両立しなければいけない。

僕は、その組織論の秘密こそが、「生命」というものの中にあると思うのだよな。
人間の細胞は、数十兆個の細胞からできていて、そのひとつひとつは、もとは一匹で世の中を渡っていたものであって、分裂するたびにバラバラになり、また一匹ずつになるということを繰り返していたものが、あるとき、分裂してもお互いくっついたままでいて、ひとつの「からだ」というものを維持するというやり方を、見つけたわけだ。
人間のからだが出来上がっていくプロセスでは、もとは一個の受精卵だったものが、分裂を繰り返してひとつのからだになっていくのであって、そのとき、お前は手になれとか、お前は足になれとか、そういうことを逐一指令する細胞というものは、存在しない。
一見脳が、すべての細胞を指令しているかのように思ってしまうが、脳だってもとは一個の受精卵から出発して、分裂して自分の役割を果すようになっているのであって、全体を制御する何らかのことは、いろいろやっているとは思うが、独裁者のように、すべてを指令する存在ではない。
すべての存在が対等でありながら、同時に、すべてが自分の役割を果たし、全体として統一した、複雑な組織を運営していく。
多細胞生物というもののなかには、人間がまだきちんと見つけていない、そういう組織論が隠されているのであると思う。

郡司ベギオ幸夫さんの研究について、僕は時々このブログでも書いていたりするわけだが、郡司さんの研究が、僕が死ぬほど面白いと思うことは、そういう組織論の発見というものについて、郡司さんは最先端を行っているのではないかと思うのだ。
こないだ書いた、鳥の群れについての研究でも、鳥は一羽として、全体を制御するということを担ってはいないにもかかわらず、鳥の群れは、一羽一羽が把握できるよりはるかに大きな場所について、ある役割を果たすようなふるまいをし、それが鳥の群れ全体として、あたかもそれがひとつの意思を持っているかのような、そういうふるまいを実現していく。
そのキーになることが、鳥は一羽一羽が、自分の周辺について、「全体」と「部分」との両面から、認識しているということにあるというのだが、僕にはそれが、ほんとうに自然な考え方であるように思える。
それがただ、考え方としてではなく、ある観測結果を数値的に、きちんと説明するというのだから、僕はこの研究が及ぼす影響は、計り知れないものがあるはずだと思うのだ。

僕がほんとに見てみたいと思うのは、そういう組織論、生命の組織論だ。
そしてそれは、これからの日本、いや、人類全体を、救うものになるのであると思うのだ。