2010-10-30

テレビ

僕は家にテレビを置いていないのだが、それはべつにテレビが嫌いだからということではなく、あまりに好き過ぎるからなのだ。というか、僕は性格的に物事にハマりやすい質で、何にでものめり込むと、そこから抜け出せなくなってしまいがちなのだが、テレビの場合見だしたら、まったく消せなくなる。休みの日など朝から晩まで、廃人のようにずっと見続けているなどということはザラだったし、平日の深夜なども、早く寝た方がいいのは解っているのに、床に入りながら、いつまでもテレビを眺めていたりしたものだった。

しかもそれが、多少なりとも有意義なニュースなり、教養番組なり、そんなものを見ればまだ良さそうなものなのに、できるだけ下らなそうなものを、わざわざ選ぶ。だから延々と、バラエティ番組を見続けることになる。面白いとか面白くないとかいうことを超えた、まさに中毒状態、余暇のほとんどをテレビか、または飲み会に費やすということになってしまっていたので、これはさすがに生活に支障をきたすということで、引越しを機に、テレビを捨てたのだった。

番組の中でも、とくに釘付けにされてしまうのが、明石家さんまと、松嶋菜々子の出ているもの。松嶋菜々子の場合、連続ドラマになるわけだから、単にその時見てしまうというだけではなく、毎週同じ時間に、テレビの前に座らないといけないという羽目になる。それはさすがに辛すぎるので、チャンネルを変える時に、チラリとでも松嶋菜々子が映ったら、即座にチャンネルを変え、そのあとはそのチャンネルは見ないようにしていた。松嶋菜々子の出ているドラマは、もう正座して、前のめりになって見ないと、気が済まないようになってしまうのだ。

僕がとくにハマりやすい性格であるということはあるとしても、テレビがこれだけ、日本人、いや、世界中の、文明国と言われるところは、皆同じようなことになっていると思うから、人間の、と言っていいと思うが、生活にとって無くてはならないものになったというのは、人間の何らかの性質に、テレビが大きく合致したからなのだろう。実際ただで、見るものをあれだけ気持ちの良い、いわば殿様気分にさせてくれるのだから、たしかに見ないのは損なのだ。

しかしそれは、よくよく考えてみれば、というか、考えなくても当たり前のことだが、ただより怖いものはないのであって、テレビ局の人間は、一つでも多くの広告を見せようとしているのであって、またその広告を見せるための技術たるや、この数十年の歴史の中で、洗練に洗練を重ね、テレビの番組の中には、とてつもないノウハウが込められているのに違いない。そういうプロ集団に対して、こちらが勝ち目がないのはいわば当然であって、もちろん好き好んで勝手にハマっているのだが、ハメられているという言い方をしても、あながち間違いとは言えないわけだ。

もう8年前に39歳で亡くなったのだが、消しゴム彫刻家でテレビ批評家のナンシー関が、僕はとても好きで、週刊文春に連載していた頃には毎週楽しみに読み、亡くなってしまってから、著作を改めて、ほぼ全て読んだのだが、それを読みながら、ナンシーはなぜ死んでしまったのか、ということを、ずっと思い続けていた。死因はいちおう、太り過ぎによる心臓疾患ということだったと思うが、やはりある人にのめり込むと、ただそういう医学的な理由を聞いても、ほんとに納得することはできず、その人の運命として、死はどんな意味があったのかを、考えずにはいられない。

ナンシーは僕と同い年で、僕は幼稚園の頃だったか、物心がついてすぐの頃、カラーテレビが家に来た時のことを覚えているから、僕くらいの年の人間が、生活の中にいつもテレビがある、テレビ第一世代だと言っても、そう外れてはいないと思う。小さな頃、年末のレコード大賞、紅白歌合戦や、正月番組などを、家族や親戚と見た思い出というものは、自分にとっての原風景であるといってもいいようなもので、また学校へ行ったら、友達と昨日のテレビ番組の話をしたり、テレビというのはそういう、たくさんの人との嬉しいやり取りの、中心に存在するものだった。

ナンシーにとってもそれは同じで、テレビが好きで、テレビを愛し、それをただ受動的に楽しむのではなく、もっと積極的に、つまらない番組でも、見方を変えることにより、こんなに楽しめるんだ、ということを示したのが、あのテレビ批評だったと思う。ナンシーは毒舌と言われていて、今雑誌などでテレビ批評をする人で、ナンシーの批評の形だけを真似して、芸能人をこき下ろしたりする人が何人もいるのだが、そういうものとナンシーの批評は、根本的に違うと思う。ナンシーの批評には、常にその根底に、テレビへの愛情があった。

でも晩年のナンシーの批評を見ると、そのテレビに対する愛情を、失いかけていたのじゃないかと思うところがある。タレントやテレビ制作者に対して、往年の批評のような、毒舌ではあるけれど、クスッと笑えるというものではなく、あたかも抗議しているかのような、まっすぐな論調が増えるのだ。生前単行本に収録する時には、そういうものは全て取り外したのが、死後そういう、単行本に収録されなかったものだけが集められたものを読んで解った。ナンシーにとっては、自分が大好きだった、家族や友達関係の中心にあったテレビが、徐々に変わっていってしまったということを、悲しむ気持ちがあったのじゃないかと思う。そして独身だったナンシーにとって、最愛の存在を失いかけているというそのことが、あの早過ぎる死の理由なのではなかったかと、僕は思っている。