2010-10-12

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子)


この本は帯に「小林秀雄賞受賞」とでかでかと書いてあったので、ちょうど太平洋戦争のことを知りたいと思っていたこともあり、買ってみたわけなのだが、この「小林秀雄賞」というのは、どうなんだ。
小林秀雄というのは、「在野の文学者」という立場を生涯貫いた人で、「インテリゲンチャ」を何より嫌い、小林自身明治大学の教員をした時も、自分の専門分野であるはずの文学などは教えず、「自分が勉強したいから」という理由で歴史を教えたというような人だったのだが、どうもこの賞の過去の受賞者を見ると、学者が多いのだよな。
学者がいけないというわけではないのだが、専門分野からだけ物を見ようとするのではなく、先入観なくある対象に向かい、そこから自分が感じたことを根本に据えながら、資料を読み込んだりはもちろんしながらも、最終的に文学作品として完成させようとしていった、小林秀雄の基本的な特質を、もう少し生かしたものにしてほしいと思うのだがな。

それはいいんだが。

でこの本の著者、加藤陽子も、東大で教える歴史学の先生で、やはり例に漏れず学者なわけだ。
僕の個人的な趣味として、上から目線で、理詰めで攻めてくる、しかも女、というのが、大の苦手で、そうやって詰め寄られると逃げ出したくなるのだ。
たぶん僕自身が、上から目線で理詰めな性格なもので、同じ性格同士が衝突するということなのだろうと思うが、この本の書き方がまさにそういう調子で、おかげで読みながらいちいちイライラし、まあしかし内容的にはけっこう面白いので、最後まで読み通したが、えらい疲れた。

著者自身、大学で学生に教えるように書いたのでは、一般の人に訴えかける力が弱いと思ったところもあるのだろう、これはどこかの高校で、歴史クラブの高校生相手に講義した模様を、文字に起こしたという形式になっていて、高校生の質問などが随所に出てきて、著者がそれに答えていたりするのだが、これはその方が一般の人に解りやすいと思ったのだろうが、僕などはそのたびにイライラする。
だいたいまず質問が、歴史クラブの生徒だから、僕なんかよりも歴史について、よっぽど詳しかったりするわけで、だから生徒の質問自体に、自分の疑問と重ねあわせることができず、共感できない。
それからそれに答える著者が、生徒たちとほんとに一緒に考えようという姿勢ではなく、あらかじめ想定した答えがあって、それに合ったものをすくい上げていくというものに、けっきょくなっているものだから、その上から目線な感じも気分が悪い。
こんな中途半端な質問コーナーを設けるよりも、そのままストレートに、ふつうに書いてくれたほうが、よっぽど解りやすかったのじゃないかと思う。

また学者だからどうしても、自分の研究分野や、研究成果を誇りたいという気持ちが前面に出てしまって、それが説明の流れをかえって複雑にしてしまっている。
僕がこの本を買ったのは、歴史を知りたいからであって、歴史学を知りたいからではないわけで、誰がどういう研究をしたとか、歴史のこの現象と、時代を下ったこの現象とは、一見違うように見えるけれども、歴史学的に見ると、重なるところがあるのだとか、どうでもいい、枝葉末節のことであるわけなのだが、それが強調されることによって、肝心の歴史の流れの方は、かえって見にくくなってしまっている。

さらにこの本を読んでいると、著者が、戦争で莫大な数の人が死ぬということを、そのこと自体によって社会が大きく変革されるという、歴史学的な観点などから見て、楽しんでいるという気持ちが伝わってきてしまう。
それは研究は楽しいに決まっているのだから、研究者同士で、その楽しさを共有する分には、何も問題ないのだが、日本の歴史を知り、それを今の日本を考える手がかりにしたいと思っている、僕のような人間からすると、まず不謹慎な感じがしてしまうし、それにイライラすることによって、歴史の内容を理解する妨げになってしまう。

というように、僕に言わせると、この本は一般の読者が読むためには、かなり欠点の多い本であるのだが、その内容自体は、僕が日本の近代史について、あまりに無知だったということもあり、興味深いものだった。

日本が、どう考えても無謀なアメリカとの戦争に突入してしまい、それに反対する大きな勢力もなく、国民も圧倒的に支持したという、そのあたりの事情が、著者やほかの歴史学者が資料を丹念に読み込んでいった結果、見事に明らかにされていく。
その資料というのが、各国の公的文書だけでなく、当時の役所の課長の業務日誌や、一般市民の私的な日記というものにまで及んでいて、これだけの労苦をかけて研究をする歴史学者という人たちは、たしかに大したものだと思う。

けっきょくひとことで言えば、「陸軍の暴走」ということになるのだが、それは第一次世界大戦で、ヨーロッパでの総力戦によって、とてつもない数の人が死に、国土は焦土と化したということを、目の当たりにした陸軍が、来るべきアメリカ、ロシアとの最終戦争で、日本が同じことに巻き込まれるということを予感し、第一次大戦が終わった早々、次の戦争へ向けて準備を始める、ということからスタートする。

資源のない日本では、総力戦は戦えないということで、その調達先として中国に目をつけ、それを支配下に置くために、満州事変が起こされ、日中戦争へと拡大していく。
膨大な回数の講演会を全国各地で行ない、そこで世界情勢の中で日本が不利益を被っていることを過度に強調し、日本国民の陸軍に対する支持を取り付けていく。
兵士をスムーズに徴用するために、農村からの支持を得ようと、農村を振興するための政策をすら、陸軍が打ち出していく。
折からの世界大恐慌で、国民の不満は高まり、それがますます、陸軍のたいする支持を固めるということになっていく。

政治はそれに対して、党利党略が優先し、日本の進むべき方向を指し示すこともできず、陸軍の独走にたいして歯止めをかけることもできず、陸軍の強引な中国侵攻によって、国際世論の支持を完全に失い、すべての国を敵にまわすことになったにもかかわらず、陸軍のプロパガンダによって、国民はそれを知らず、陸軍を支持し、そのまま様々な計算違いが重なりながら、太平洋戦争へと突入してしまう。
太平洋戦争末期に、もう敗色が濃厚で、勝ち目がなくなったにもかかわらず、情報を統制し、異論を排したために、日本兵士の莫大な死者数を積み上げることになってしまう。
このような悪夢のような筋書きが、関係者の証言を丹念に発掘することによって、個人個人の動きが目に見えるというほど、明らかに再現されていく。

著者は現在の日本の、政治の機能不全と、それにたいする日本国民の閉塞感が、満州事変開戦前夜の日本の状況と、共通するものがあるという。
そういう中、もし当時の陸軍のように、国民に対して実現できるわけもない夢を見させてしまうような存在が現われるとすると、これは脅威であると。

たしかに今、愛国的な言論が力を増しているように見え、自衛隊の高級幹部が政府を公然と批判し、政府は政権交代をしたはいいけれど、けっきょくは以前と変わらないような政策に戻ろうとしつつあり、経済は再生せず、中国やロシアとは領土問題が再燃している。
この全く先の見えない世の中、危ないところに来ているのは、間違いないのだろう。
そういうとき一番大切なのは、国民が感情ではなく、理性によって物事を判断することだと、歴史は教えるわけだが、人間それが、一番むずかしいのだよな。

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