2010-10-14

料理

これもう書いたことかも知れないのだけど、このブログは僕が書きたいと思ったことは、何度でも書くのだ。

料理は小さい頃から好きで、というか、僕は小さい頃から、大人が何か手作業をするところを見るのが好きで、父親がヒゲを剃るところとか、母親が料理を作るところとか、あと例えば工事の人がセメントをこねるところとか、じっと見ているのがとても好きで、自分でもやりたくなってしまうたちで、ヒゲを剃ったりセメントをこねたりすることは叶わなかったが、料理は幼稚園の頃から、炒り卵を作ってみたりして、それを友だちの女の子に食べさせたりしたこともあった。

それからも、インスタントラーメンを作ったり、カレーを作ったり、鍋を作ったり、という程度のことはやっていたのだが、料理のおもしろさが解り、自分で積極的に作り始めたのは、前妻と別居してからだ。

正月になって、僕はどうも実家で過ごすのが苦手なので、一人で正月を迎える決意をし、おせち料理は買えばいいとしても、雑煮は自分で作らないといけない。前妻が作っていた、鶏がらだしの雑煮を自分で作ってみることにして、スーパーで鶏がらを買ってきて、水から煮出して、沸騰させないようにして数時間。また僕は、その様子がとても興味深くて、だしが取れるまでの数時間、鍋をずっと、付きっきりで眺めていたのだが、そしたらとてもおいしい鶏がらだしが取れたのだ。雑煮に使うのはもちろんだけれど、けっこう量があったので、せっかくのおいしいだしだから、ほかにも何か作ってみようと思って、水炊きをその鶏がらだしでやったりしたのだが、そしたら料理が、とても面白くなってしまった。

それまで料理というのは、レシピを見て、そこに書いてある通りの材料を買って、書いてある通りのやり方で作るものだと思っていたのだが、そうではなく、自分で何を作ろうかと考え、作り方を考え、作ってもいいんだということを知ったということなのだ。そうしたら目の前がバラ色に広がったような気がして、それから猛然と料理をするようになった。それに一人で住んでいたから、実際に必要性もあったわけだ。

しばらくは、レシピは見ないで、好き勝手に作っていたが、そうするとどうしてもレパートリーが広がらず、煮詰まるものもあるので、今度は自分で買ってきた料理の本をまるごと一冊、そこに書いてある通りに作ってみたりして、それからまた、自分で思うとおりに作って、みたいなことをしていった。僕は音楽が好きで、昔はギターをちょこっと弾いたりしていたのだが、要はギターの練習と同じで、人のギターを、レコードを聞いてコピーするようなものだ。気に入った料理があると、何度でも作るから、豚の角煮など何度食べたか解らない。

そうやって色んな料理を作るうちに、作りながら、色々気付くことがあったりするのだな。それでだんだん解ってきたのは、表面的には違うとされている料理でも、じっさい何度も作ってみると、ほとんど同じ作り方をする、同じ料理だといってもいいくらいなものが多いということだ。たとえばカレーと豚汁、けんちん汁、シチューは、ほとんど同じ作り方をする。肉と野菜を炒めて、水を入れてしばらく煮て、最後に味をつける。違うのは材料と調味料だけで、作り方の側は共通なわけだ。

そうやって料理を見ていると、パスタと焼きそばは、作り方はほとんど同じだったり、さらに考えてみると、イタリア料理と中華料理って、考え方が似ていて、例えばピザとまんじゅうというのは、見かけは全然ちがうが、炭水化物から肉から野菜から、すべてをひとつにまとめるという意味では、共通するところがある。日本みたいに、小鉢に一品ずつ、分けて入れるというのとは違って、大皿にすべてを盛りつけるというのが多いのだよな、イタリア料理と中華料理は。それって、イタリアは昔、ローマ帝国だったし、中国も中華帝国だったわけで、帝国主義という、「すべてをひとつに」という考え方が、料理にも反映しているのだろうかと思ったりする。

さらにもともとローマ帝国の属国であったフランスと、中華帝国の属国であった日本とが、料理が似ているような気がして、一品ずつ盛りつけて出していくという考え方なのだけれど、フランスの場合はコースで、時間を追って出していくのに対して、日本の場合は小鉢やお椀を、お膳の上に空間的に並べて出すという、対称的な違いがあるのかなと思ったり、さらに料理というものは、もともと全てをひとつにまとめた、大皿料理みたいなものだったものが、一品一品を分割して出すという形で発展したのだろうかとか、そうやって料理を通して、その料理が生み出された文化的な背景を窺い知ることもできたりするのが、また面白かったりするようになったのだ。

考えてみたら、物を食べるというのは、人間が生きていくために、まず必要なことであって、人間、生きていくために必要なことは、気持ちよかったり、楽しかったり、自ら進んでやりたくなるようにできているわけだから、料理の楽しさ、面白さというものは、巨大なものであるはずなのだ。人類の歴史が100万年であったとして、そのあいだに何人の人間が生まれて死んだのか解らないが、そのすべての人がたぶん、一日何回か、少しでもおいしい物を食べたいと思い、少しずつ努力を重ねた、その集大成というものが、料理法というものの中に凝縮されているわけだ。その広さや深さはどれくらいのものなのだろうと、思わずにはいられない。

そう考えると、料理というのは、人類にとって最大の文化なのだ。文化というとどうしても、文字に書かれたものとか、建築物とか、後世に残るものが着目されがちなわけだけれど、じつは料理のように、食べればなくなってしまうものの中に、文化の巨大な領域があるのであって、料理を楽しむということは、そういう人間の文化を愛でるという意味もあるのだと、それを男は、女にだけ任せておいては、あまりにもったいないのだと、思ったりする今日この頃なのです。