2010-09-17

多剤耐性菌問題

帝京大学で口火を切った、多剤耐性近問題、報道は下火になっているが、実際の医療現場や関係機関では、これまであまり想定していなかった、新しい問題が、いきなり勃発してしまったわけだから、その対策やら何やらで、今ごろてんてこ舞いなんだろう。

今回は、アシネトバクターだかという、今まで国内にはいないと思われていた、新しい菌が見つかったということで、大問題になってしまったわけだが、抗生物質を投与することにより、菌が耐性をもってしまうということ自体は、むかしからよく知られたことなわけで、これはまさにイタチごっこ、ある抗生物質を投与したら、菌が耐性をもってしまったから、べつの抗生物質を投与したら、今度はそれにも耐性をもってしまって、ということを繰り返していくうちに、すべての抗生物質に耐性をもつ菌が生み出されてしまうと、そういうことなのだろう。

菌が抗生物質にたいする耐性をもつというのは、具体的にどんな仕組みになっているのか、よく知らないが、生きるということは、まさにそういうこと、困難が目の前に立ちはだかったら、なんとかそれを克服しようと挑戦し、ついには乗り越えていくという、人間なら誰でもやっていることを、目に見えないような小さな菌も、同じようにやっているということだ。
だいたい菌のほうが、人間より、はるかむかしから、地球に住みついているわけだから、そのあたりのことは、堂に入っているに決まっているのだ。

耐性菌の問題とは、ちょっと違うのだが、僕はここ数カ月、頭やからだを洗うのに、石鹸を使うのをやめていて、それでなにか問題があるどころか、逆にいいくらいなのだ。
いちばん違うのは、からだの臭いで、石鹸を使っていたころは、足とかの臭い、夏場には半日もすると、我ながら耐えられないほどになっていたのに、今ではほとんど臭わない。
さらには、水虫が、今まで毎年再発して、どんなに薬をつかっても、撲滅することができなかったものが、今年はまったく発症しなかった。

これは僕の想像なのだが、人間のからだには、いろんな種類の菌が、おたがい持ちつ持たれつで暮らしているのに、それをすべて洗い流してしまうと、逆に今度は、いったん、空気中にいたりする悪さをする菌が、からだに付いてしまうと、ほかに止めるものもいないので、またたく間に広がってしまうと、そういうことなのじゃないかと思ったりするのだ。
自民党にいるときには、小沢一郎も、ほかの百戦錬磨の議員たちに妨げられて、思う存分にはできなかったものが、民主党という、あまり経験のない人たちのなかへ行ってしまったものだから、好き放題やっていると、そういうことと似たようなことがあるのじゃないかと。
そうやって考えると、「菌を根こそぎ退治してしまおう」という、そういう考え方自体が、ほんとにそれでいいのか、あらためてよく考えてみないといけないことなのじゃないかと思うのだな。

人間はなにかと、問題というものを明らかにして、それをひとつひとつ解決すると、そういうやり方をしがちなわけだが、もう一方で、とくに日本などは、できるだけ、物事を問題という形で取り出してしまうことを避け、持ちつ持たれつ、義理と人情、おたがい堪えて、そうやってやり過ごしていくという、生活の知恵もあったりするわけだ。
その二つのやり方は、ふつうは相容れないものであって、どちらかひとつを選んでくださいと、いうことになりがちで、西洋医学じゃダメだから、東洋医学で、みたいなことになるのだが、じゃあ抗生物質をまったく使わなければいいかといえば、もちろんそんなこともできないわけで、両方を二つとも、並べながら、しかも両方が相容れないところについては、だまし、ごまかしながら、暮らしていくということも、できると思うのだよな。
日本ってわりと、西洋と、東洋と、両方の考え方が入ってきて、それがごちゃごちゃにこんがらがっているところじゃないかと思うから、そういう暮らし方を見つけること、いちばんできそうな場所にいるとも言えるのじゃないかという気がするのだがな。