2010-03-06

髙村 薫「太陽を曳く馬」


この1年ほど、小林秀雄ばかりを読んできて、でもその間にも色んな本は出版されるから、新聞や雑誌の書評欄などを見て、面白そうなのがあると買っていたものが、ダンボール箱に一杯になっているのだ。その中でもこの本は、小林秀雄を読み終わったら、まず読もうと楽しみにしていたもので、以前同じ著者の「マークスの山」という小説を読んで、内容はもう忘れてしまったが、そこそこ面白かった記憶があるのと、何より主人公である刑事、合田雄一郎が、僕がその本を読んだ時の年齢と、ちょうど同い年で、かなりの親近感が湧いた覚えがあるのだ。

しかし今回、この本を読み始めてみて、まだ40ページほどなのだが、ダメだなこれは、僕には。冒頭、「空がある」という文句で、この小説は始まる。
 空がある。
 西新宿の地上五十階の高層ビルの下に立って、合田雄一郎がいま、痛いほど首を後ろに反らせて仰いだそれは、すでに築二十三年も経って白亜とは言い難くなったコンクリート塊の稜線と滲みあい、ほとんど薄汚れたシーツのような灰色をして、高さも分からなかった。しかし、ともかく空はあると、雄一郎は呟く。
 この二ヶ月、何度そうして空を仰ぎ、同じことを呟いたか。自分では覚えていなかったが、呟いた直後にはいつもその自分の声を聞き、身震いをする。いまも背筋を突き抜けるような振動が一つの神経をふるわせ、それが一瞬のうちに脳のどこかを駆けめぐった末に、雄一郎は憂鬱な感じを覚えてため息を吐いた。そうしてまた、空が---と自分に繰り返し、今日は雨だからとあまり意味のない理由をつけて、自分の眼に映る空の、高さも奥行きもない灰色一色の広がりをとりあえず受け入れてみることにしたのだ。空はある、と。
この小説、どこかの書評で、「9.11以降の世界のあり方を問う」みたいなことが書いてあった記憶があるが、「人工的な、非人間的な現代社会に生きることの歪み」みたいなことを描こうとしているのだろう、死亡事件に関係して、新興宗教も登場してきているから、そういう非人間的な社会だから、人は怪しい宗教にも引っ掛かってしまうのだ、みたいなことも言いたいのかも知れない。その象徴として、冒頭に、薄汚れた西新宿のビルの下で、主人公は「空がある」という当たり前の事実すらを認めるために、2ヶ月間にもわたって何度もつぶやき、身震いをし、神経を震わせ、憂鬱になる、ということをしなければならない事態に陥っているわけだ。

しかし僕は、そういう神経症の病人には、いやそれが仮に知人や友人なら、同情して、力になれることがないかを考えるとは思うが、わざわざ本を読んでまで知り合いになりたいと思うほどの、興味もないし、暇もない。著者は明らかに、この神経症の主人公を、現代に生きる人間の一つの象徴としようとしているわけだが、そもそも「空がある」ことを認めるために2か月もかかるような、こんな人間、ほんとにいるのか。

僕はここしばらく、地方都市でお気楽にくらしているから、東京の人間の事情が、よく分からないのかとも考えるが、いや違うだろう、こんな人間、いやしない。たぶん、著者は女性だから、自分の現実感から主人公をつくり出したのではなく、自分の理想の男性像、純粋な気持ちを持ち、現代の歪みに押し潰されそうになりながらも、懸命にそれを堪え、真っすぐに進もうとしている男性が、いたらいいなという、そういうことをここに描こうとしているのだと思うな。青梅街道がふやけて崩れて、潰れていったり、ニュースの音声が、無機質な音の連続になってみたり、付き合ってられん。

太陽を曳く馬〈上〉
★★☆☆☆