2010-01-02

小林秀雄全作品別巻2 「感想(下)」

小林秀雄の全集、年代を追ってずっと読んできているのだが、随筆みたいな軽い文章が多い巻は、サクサク読めるが、これは「ベルグソン」という哲学者についてのものだから、言葉は難しいし、さらに内容は、輪をかけて難しいしで、けっこう読むのが大変だった。でもこの小林秀雄を読みながら、こういう難しい本の読み方も、会得してきたところがあるのだよな。ただ字面を追うのではなく、味わって読む、という感じなのだが、自分なりに味わっていると、言葉の一つ一つは正確にわからなくても、自分なりの理解で、それなりに面白く読めたりもするのだよな。

小林秀雄は、このベルグソンに、56歳から61歳という、男子の一生で、もっとも脂の乗った時期に取り組んだわけなのだが、それは、若い頃から小林秀雄が、ベルグソンに、深く心酔していた、ということもあったろうが、それだけじゃなく、ベルグソンが持っていた問い、「精神と物質」というものを、どのように調和することができるか、ということが、小林秀雄自身が、たぶん究極の問いとして考えていたことと、またそれは小林秀雄だけの問いにとどまらず、実際、今でも、現代社会最大の問いである、と言えることだからなのだと思う。そこに、成算はなくとも、もっとも力が出せるときに、出来る限りの挑戦をしてみたいと、小林秀雄は思ったのじゃないかと思う。

科学の進歩により、人間の脳のことは、ずいぶん色々わかるようになったわけだ。でも色々な分析をしても、脳というものの中には、脳細胞があって、細胞の中には、タンパク質やら何やらの分子があって、それら細胞や分子が、お互いに複雑に、作用しあっている、ということが見えてくるだけで、そういうものが全体としてどうやって、人間の意識とか、記憶とか、そういうものを作り上げているのか、脳科学者や心理学者は、「今にわかる」と言うのだけれど、じつはちっともわかっていないし、わかる見込みもない、そういうことを、ベルグソン、そして小林秀雄は言うのだ。人間の精神というものは、外側から分析して、つつき回しても、見えてくるものではない。そうではなく、精神の働きというものは、じつはすべての人が、自分の内側に、感じることができるものであって、心を研ぎ澄まして、それを見ていけば、人間の精神がどのような構造をもち、どのような働きをするものなのかが、少しずつはっきりと、明らかになっていくし、それだけが、精神というものを明らかにする、唯一の道である、ということで、ベルグソンは、自分自身を実験台にして、探求していった人なのだな。

ベルグソンがすごいと思ったのは、脳科学者とは逆に、そうやって自分自身の内側を見ることで、物質というところまでを、一貫して説明してしまうのだ。物質は、人間の外にあって、精神は、人間の中にある、普通そう思われているが、それはじつは違って、人間は、そこら中にある色々なものを、自分が生きていく必要に応じて、自分なりに知覚しているのだから、その知覚が、自分にとってはもののすべてであって、知覚とものは、イコールだ、机の上に本があって、それを人間が知覚しているのなら、知覚は人間の中にではなく、机の上にあるのだ、というのだ。まあ深遠な内容を、簡単な言葉で片付けてしまったから、たぶん間違っていると思うが、知覚が机の上にあるというのは、すごいよな。僕は思わず、人間がアメーバみたいなもので、触手を机の上にのばして、本をまさぐっているような、そういう絵を想像してしまった。

ベルグソンはそういうやり方で、精神から物質までを、一貫して説明しきって、自分なりにそれで満足したのだと思うが、たぶん、小林秀雄は、まだわかったような気がしなかったのだな。それで、量子力学という、原子や電子など、ミクロの世界についての物理学、それは、1920年から30年くらいにかけて完成して、その頃にはベルグソンは、もう年だったので、量子力学については、何も言っていないのだが、これを持ち出してきたのだ。ミクロの世界では、例えば電子なら電子が、人間が観測するときには、粒の振る舞い、観測しないときには、波の振る舞いをするという、本来、人間の観測などには関係ない、客観的であるはずの自然が、その観測によって影響を受けてしまうという、革命的な発見があって、これが世の思想家や哲学者たちにも、大きな影響を与えたのだが、小林秀雄は、ベルグソンが知らなかった、この量子力学における発見を引き合いに出すことによって、ベルグソンの言っていることを、より明確にすることができるんじゃないかと思ったのだな。それで、この量子力学の説明に、ずいぶんたくさんのページを割いている。

じつはこの「感想」という、ベルグソンについての文章は、小林秀雄、間違ったと思って、本にすることも禁じ、全集にも入れず、それを自分が死んでからも守るように、遺言までしたのだ。なのだが、それをわきまえずに、当時連載された文章を引用することが後を絶たず、新潮社と小林秀雄の遺族が、相談の上、小林秀雄の遺志をきちんと表明した上で、全集に別巻として追加する、ということで、10年くらい前に、誰でも読めるようになったのだが、僕は小林秀雄が「間違った」というのが、文学者が、量子力学という物理学を理解するに当たって、間違った理解をしてしまったのかと思っていたのだが、そうではないな。見たかぎり、量子力学について、小林秀雄は、ほんとによく勉強したみたいで、きちんとした理解をしている。そうではなく、僕が思うに、哲学と物理学という、土俵自体が違うものを、融合させることはできなかった、ということなんだな。だから、量子力学を引き合いにだしたことそのものが、そもそも間違いだった、ということなのだ。いや、もしかしたらそれは、間違いではなかったのかもしれないが、問いがあまりにも大きすぎて、小林秀雄の手には余った、ということかもな。

しかし、この、小林秀雄が挑戦した問い、精神と物質とが、いかに調和しうるのか、ということは、いま最大の問いであることに、間違いはないのだ。僕も挑戦したいな。なんちゃって。