2009-11-26

晩めし サバの鍋

今日もすでに、腹いっぱい食い終わって、酒も飲んで酔っ払って、満足しきった豚のような状態になっているのだ。鍋はあまりにうまくて、途中ではやめられないな。身体の中の、小さな細胞の一つ一つが、「おいちー、おいちー」と言っているような、そんな感じがする。

これまで僕は、「なぜ、鍋はこんなにうまいのか」ということについて、鍋を食べるたびに考えに考え、なのだが、まったくわからない、という、まさに袋小路にハマっていたわけだが、今日はっきりわかった。僕は問いをまちがっていた。鍋はうまいのだ。うまいものに理屈はない。細胞の一つ一つがうまいと言うのだから、これほどうまい食い物はない、と言っても、まったく過言ではないわけだ。

そうすると、問うべきは、「なぜ鍋よりうまくない食べ物が、世の中にこれほどたくさんあるのか」ということになるだろう。違うか。鍋がいちばんおいしいのだから、全ての人が毎日鍋を食べれば良さそうなものなのに、なぜ実際はそうなっていないのか。

そう考えると、答えは簡単だよな。人間は、ほんとにおいしいものだけを食べたがる生き物ではないからだ。洒落ているとか、変わっているとか、そういう理由で、人間はそれを、食べたいと思ってしまうのだ。カップラーメンみたいな、ああいうクソうまくもないものも、食べたがってしまうのだよな、人間というものは。

鍋というのは、人間の料理の歴史というものを考えた場合、かなり初期に登場したものだと言ってもいいだろう、たぶん。肉や魚と野菜をとにかく煮て、塩や何かで味を付けて、そのまま汁まで食い尽くしてしまうのだから、これほど簡単なものはない。実際こういう料理法は、アフリカの未開の原住民など、世界中のどんな地域にも存在するらしい。料理の進化というものがあったとすると、鍋から始まって、様々な料理法が考え出されてきたと言ってもいいよな。

しかしそれが、必ずしもうまいものを編み出すというわけではなかったということは、進化というのはどうなんだろう、必ずしも前向きな方向に進むとは限らない、ということだよな。そうだよな、小林秀雄じゃないが、現代が過去の色んな時代より良かったかといえば、そうとは限らないからな。まあいいんだが、そんなことは。

で、サバの鍋。サバを鍋にしようと思う、と言うと、マダムジョイのおいちゃんも、恵美のおばちゃんも、あまりいい顔をしなかったのだが、実際やってみると、けっこううまい。これはたぶん、サバを鍋にして食うというのが、貧乏人の食べ物だったからだろうな。料理として、あまり表沙汰になっていないのだ。船場汁というのがあって、これは要は、サバを煮た汁だったそうだが、大阪の「船場」という問屋街で、従業員に、食費を安く、食事をさせるために考えられたものなのだそうだ。

サバは、これはほんとにそうしないといけないのかどうか、わからないのだが、ウェブで見たレシピにみなそう書いてあったからそうしてみたのだが、臭みを取るため、塩をふって30分くらい置き、熱湯にくぐらせて水でよく洗う。今日はシメサバ用のサバが、マダムジョイに売っていたので、それを二枚卸にしてもらい、骨のあるほうを使った。で、それを適当に切って、野菜と一緒に、昆布だしで煮る。煮時間は、7、8分、という感じ。途中、酒と塩で軽く味をつける。

今日は初め、上のやり方で水炊きにしてみて、これも悪くはなかったが、後から、醤油とみりんで味を付けてみたら、こちらのほうが、全然うまいな。サバの煮物のような味のする鍋。しかも煮物より、鍋のほうがうまい。魚の鍋は、水炊きより、やはり汁に味を付けた方がうまいな。水炊きは、肉を食べるやり方だな、たぶん。

次は味噌味だな。