2009-10-15

小林秀雄全作品19 真贋

小林秀雄、戦争が終わって2、3年は、敗戦のショックが大きかったのだろう、自分の世界に引きこもって、好きなことばかりやっている感じがしていたのだが、この2巻前の全作品17、昭和24年、47歳、今の僕と同い年、になって、二本の脚を地面につけて、すっくと立ち上がったような、そんな感じがしたのだ。モーツアルトとか、ドストエフスキーとか、ただ自分の目指す世界を、ひたすら追求するということではなく、自分の伝えたい内容を、専門家ではなく、一般の人に、どう伝えられるのか、ということを、考えるようになった感じがしたのだよな。そのことが、この全作品19を読んで、たしかにそうなのだ、小林秀雄は一歩踏み出したのだ、ということが、はっきりわかった。

なぜわかったかと言えば、この全作品19にも、ドストエフスキーについて書いたものがあって、それがこれまで小林秀雄が書いてきた、ドストエフスキーについての論文と、はっきりと違うからだ。

これまで小林秀雄は、ドストエフスキーについて書くとき、作品の中からかなり長文の引用をして、読者にそこから内容を読み取れと言っていることが多かった。中には論文の最後が引用で終わっているものもあったりして、まあたしかに、批評家にとって原典は、自分が批評をする「対象」になるわけだから、それはそれで間違ってはいないのだけれど、そうなるとどうしても、原典の引用文以外の部分が、原典の外側から、それを「説明する」、ということになってしまうというわけなのだよな。それだと、気持ちはわかるが、迫力に欠ける、ということになってしまっていると、僕は思っていた。僕はもっと後の小林秀雄の文章を、すでに文庫本で読んでいたりとかするから、小林秀雄は、ほんとはこんなものじゃないのだ、と思っていたりするわけだ。

ところが今回、全作品19の中にある「『白痴』について」という文章では、原典をそのまま、長文で引用している箇所は、ほとんどない。そのかわりに、小林秀雄自身の言葉で、原典の内容をそのままなぞるかのように、延々と語られるのだ。ある登場人物の膨大なセリフが、僕は実際に原典である「白痴」と見比べていないから、詳しいことはわからないのだが、たぶんそのままそっくりなんだろうと思うように、小林秀雄自身の言葉で繰り返されている。小林秀雄はドストエフスキーの作品を、もう何度も何度も、読んでしまったので、内容の細部までが、頭に入り、身体にしみわたっているのだ。

しかしどんなに内容が原典の通りでも、小林秀雄が自分の言葉で繰り返したものと、引用文そのものとでは、まったく違うことだ。原典はすでに、批評家の対象ではなく、小林秀雄の肉体によって咀嚼された、小林秀雄自身のものとなっているからだ。だからこの文章では、小林秀雄の文は、説明文にはなっていない。小林秀雄の朗々たる語り口を、心地よく聞いて入るような感じがする。そこから、原典の登場人物は生き生きと息づき、僕の目の前でドラマを演ずる。そして最後には、これから「白痴」を読む読者、それは僕なわけだが、のための、ちょっとしたアドバイスなぞがあったりして、小林秀雄ははっきりと、僕に対して、この文章を書いてくれたのだと思って、自分で意外だったのだが、思わず涙ぐんでしまった。

批評家が、あくまで原典を対象とみなして、それと距離を置こうとすることは、客観的であることが真実への唯一の道であると考える、「近代」という思想によるもので、それはもちろん、つまらぬことではなく、誰でもが好き勝手に、自分にとってのみの真実というものをまき散らすということに対する、防波堤の役割を果たしている。小林秀雄もそれは重々承知しているのだが、あえてその一線を踏み越えたのだ。上で書き忘れたが、小林秀雄はただ、原典の内容を自分の言葉で語るに留まらず、登場人物に、原典にはない、架空のセリフまでしゃべらせる。これは批評の常道からすればたぶん、禁じ手なのだろう。しかし小林秀雄は、そうしなければ、一般の人、僕、に伝えられない内容があったから、そうしたのだ。小林秀雄がドストエフスキーの作品を、何度も何度も読み返して、そこから汲み取った内容は、そうしなければ伝えられなかったのだ。

僕はやはり、批評の客観性がどうのこうのという御託より、それを踏み越えてまで、何かを僕に伝えようとしてくれた、小林秀雄の気持ちが嬉しい。そういうことなんだよな、やっぱり。

小林秀雄全作品〈19〉真贋