2009-04-24

小林秀雄全作品2 ランボオ詩集

小林秀雄の全集2冊目、あっという間に読み終わってしまった。
まあ一つには、小林秀雄がランボオの詩を訳しているところが全体の半分位を占めていて、それがどうも退屈だったので飛ばしてしまったということはあるのだが。
小林秀雄は小説とか、この詩の翻訳とか、あまりぱっとしないな。
やはり評論が面白い。

こういう風に誰かの作家に徹底的にハマるのは、こないだナンシー関にハマって以来なのだが、僕に言わせれば、二人の作風はそっくりだと思う。
他人をなめ回すように眺め、腹の奥まで探り当てて、それを毒のある文章で表現する。
この「全作品2」は、昭和5年、小林秀雄が28歳の時の文章が集められていて、懸賞論文で2等を取って世に出た翌年、文芸評論家として世に知られ始めた頃なのだけれど、当時の同世代の作家をけちょんけちょんにやっつけている。
僕はそのやっつけられている作家の方は全く知らないのだが、小林秀雄のやっつけ方が、多分まさに相手の痛いところをグサッと突いているのだろうなという感じがして、痛快。
しかしやはり、それなりの風当たりはあったみたいで、「自分を棚に上げて」とか言われるというようなことを書いている。
それに対する言い訳というか、棚に上げているのはわかっているのだが、これは自分の性癖なのだ、みたいなことも書いていたりして、それもまた興味深い。

小林秀雄が言うことにいちばん共感する所は、人間が頭だけで考え、作り上げた世界に対する嫌悪。
当時「プロレタリア文学」とか、「尖端小説」とか、色々なジャンル分けがあったみたいだが、そういうものを徹底的にやっつけている。
しかしもちろん、28歳の青年が、文芸の主流に対して何か物申した所で、それをその主流派達がまともには取り上げなかっただろう、小林秀雄自身も、自分は「かみついている」という表現をしている。
うるさいのが出てきたな、という感じだったんだろうな。
小林秀雄は「肉体」という言葉をよく使うのだが、芸術というものは、その人がただ頭で考えたことを表現するのではなく、肉体で感じたことの表現、肉体そのものの表現、そういうものなのだ、という感じの事を言う。
「近代」という物事の枠組みが、まさに人間の肉体を置いてきぼりにしてしまっているわけだから、それに対して異を唱えるということは、まさにドン・キホーテが風車に向かって戦いを挑むようなものだ。
小林秀雄はそれを、生涯にわたって戦い続けたわけだから、まあ疲れる人生、やってもやっても報われない人生、だったのだろうなと思う。
しかしそれが深刻にならず、いやもちろん深刻だったのだろうが、表現として、過激でかつ、飄々としているところが、小林秀雄の味わいだよな。

もう3巻も買ってあるので、次はそれを読む予定。