2009-03-17

沖稔という人

広島のしょうゆ豚骨のラーメンは、元を辿れば、終戦直後に沖稔(おき・みのる)という人が、広島駅近くで始めた、「上海」という名前の屋台が起源であったということになっている。
昭和25年に屋台が禁止されたために、「段原食堂」という店を構え、その店の関係者、というか親類縁者のようだが、が、「陽気 」と「すずめ 」という、広島ラーメンの王者とも言える店を始め、今に至る。
沖氏がいつ亡くなったのかは知らないが、たぶんそんなに最近のことではないだろう、その死後、けっこうな時間に渡って、この陽気とすずめが高いボルテージを保ち、ただ有名であるということではない、実際に最高にうまいラーメンを作り続けているということは、驚くに値することであると思うのだ。

まずもちろん、沖氏が世に生を与えたラーメンの形というものが、類まれな優れたものであったことは、疑う余地がない。
広島ラーメンは、九州の豚骨だしと、関東のしょうゆ味を合体させた、いいとこ取りのラーメンである、と言われたりもするが、豚骨だしとしょうゆ味は、そのままでは、あまり相性が良くないものであると思う。
そこに鶏がらだしやら野菜やら海産物やら、そういった諸々の材料を加えることにより、まろやかな、一体感のある、見事なスープを作り出したわけだ。

しかしその作り方だけ教えれば、教えられた人間が自分の死後も、その同じラーメンを作り続けることができるのかと言えば、物事はそんなに簡単ではないだろう。
人間というのは、他人の言うことより、自分の思うことを信じやすいものだから、どうしたって、自分なりの工夫というものをしてみたくなる。
そしてだいたいの場合、それは悪い方向にしか、行かないものなのだ。

陽気にしても、すずめにしても、そのラーメンを食べると、つまらない小手先の工夫などというものの存在を、微塵も感じない。
教えられた通り、忠実に、毎日毎日、作り続ける中で、そしてそれを長い期間続ける中で、そういうところでだけ起こりうる自然な発見、小手先ではない、手仕事に密着した、心底からの気づき、というものが、積み重ねられてきている、という感じがするのだ。
小手先の工夫は、味をとがらせ、調和を乱すことにしかならない。
しかし本当の気づきは、全体をひたすら、丸く、なだらかに整えていくものなのだろうと思う。

教えられた相手が、自分の死後も、長い期間に渡って、そのような姿勢を持続していくためには、ただラーメンの作り方を教えるだけでは足りない。
そのもう一段手前のこと、それはたぶん、ラーメンを作るということが、ラーメンを作る自分自身にとって、どんな喜びを生み出すものであるのかということ、またそれはどのようにして得られるものであるかということ、そういうことが伝えられなければならない。
沖氏はそれを、どんな形でかは分からぬが、陽気とすずめの店主に伝えたのだろうなと思う。
すごい人だったのだろうな。

ちなみに今夜も、ツナサラダ。