2008-08-15

「しみじみおいしい」ということについて

広島のお好み焼きの「おいしさ」というものは、一種独特なものがあると思う。

広島のお好み焼きは「そば肉玉」というのが基本で、これは焼きそばが入って、豚の三枚肉と玉子が入って、というものなのだが、どこの店にもかならずある。
そのほかにエビやイカなどが入ったり、もちやチーズ、イカ天などが入ったり、青ネギや納豆をトッピングしたり、と色々バラエティーもあるのだが、たぶん半分以上のお客さんは、そば肉玉を頼むのではないかと思う。
僕もいつも、そば肉玉を頼む。
そば肉玉の材料は、どこの店でもだいたい同じである。
作り方もそうそう大きくちがう訳でもない。
でもそれが、おいしい店と、そうでない店と、はっきりと分かれるのである。

「何がおいしいのか」というとき、たとえばラーメンならば、「スープがコクがあって」とか、「麺が歯ごたえがあって」とか、「チャーシューがとろとろで」とか、料理の一つ一つの材料についての説明もすることができるだろう。
それがラーメンのおいしさの説明になりうるのだと思う。
広島のお好み焼きの場合ももちろん、「キャベツがホクホクで」とか、「麺がパリパリで」とか、「玉子が半熟でとろとろで」とか、言うこともできなくはない。
しかし広島のお好み焼きの場合、玉子についてだけは半熟にする店とそうでない店で分かれるのだが、キャベツについてはほとんどの店がホクホクだし、麺はほとんどがパリパリなのである。
ラーメンのように、スープはコクがあるのとあっさりしたのとがあったり、麺は太いのも細いのもあったり、というバラエティーは、お好み焼きの場合には、「そば肉玉」とかぎってしまえば、ほとんどないのである。

にもかかわらず、おいしいそば肉玉と、そうでないそば肉玉があるというとき、そのおいしさを説明するのは、何ともむずかしい。
一つひとつの材料がどう、ということではなく、そのお好み焼きが、全体として醸しだす何かがちがうのである。
お好み焼きにかぎらず、広島のばあい、ラーメンでも、冷麺でも、そして定食でも、そういうおいしさを感じることがしばしばある。
「しみじみおいしい」のである。
しみじみおいしい、という以上には、ちょっと説明のしようがない、そういうおいしさなのである。

このしみじみ感は、もともと戦中戦後の日本人が、粗末な材料しかなくてもおいしい食事をつくるため、工夫をかさね、つちかってきたものなのだと思う。
手に入る材料は限られているのだから、それならその材料をどうしたらより生かすことができるのか、とか、材料どうしをどのように組み合わせたらおいしくなるのか、というあたりのことに、工夫はかさねられていっただろう。
それが、しみじみおいしい食事というものを生みだしていったのだと思う。

しかし思うに、すくなくとも東京では、昔はそういう文化があっただろうが、いまは失われてしまった。
おいしい材料がいくらでも手に入るようになり、そういう工夫は必要なくなってしまったからだ。
名古屋に一年半いたが、名古屋でもこのしみじみ感はかんじなかった。
東京とおなじく、絶滅してしまったと想像する。
たぶん日本の多くの地域では、豊かになり、さまざまなものが安く買えるようになって、このしみじみ文化は死に絶えてしまったのではないだろうか。

ところがこのしみじみ文化が、広島にはいまだ残っているのである。