2008-06-20

今朝の読売新聞

第二の秋葉原事件阻止、祇園祭に「車両阻止部隊」
先日の秋葉原での無差別殺傷事件をうけて、7月に行われる祇園祭で警備を強化するという話。

日本というのは、お祭りとか、大晦日の初詣とか、人が大勢集まる場所について、警備が厳重なほうなのじゃないかと思う。先日の広島でのお祭り、とうかさんでも、かなりの数の警官、警備員が巡回、見張りをしていた。



初詣などでは、ロープで区切ってコースを作り、そこをいつも一定の人数だけが通るように調整をしたりする。将棋倒しを防ぐためだろう。

じつは本当にびっくりした経験があって、台湾でホームステイしたときのことだったのだが、大晦日に台北にある101ビルという、当時は世界一高かった高い高層ビルで花火があるというので、家族で見物に出かけた。高層ビルの花火というのがどういうものだかいまいちイメージできず、展望台か何かから地上の花火が見れるということなのかと思ったら、ビル自体に花火が仕込まれていて、それが次々点火されてビル全体が花火につつまれる様を、地上から眺めるというものだった。



たしかに物凄くきれいなのだが、これは日本ではできないだろうなと思った。消防法とか、何とか法とか、たぶん法律や条令が無数にあって、役所がぜったいにOKを出さないだろうなと思うのだ。

でもさらにびっくりしたことがあって、そこに50万人の人が集まるのだが、警官が一人もいないのだ。交通規制もされていない。花火が3分ほどで終わると、50万人の人がいっせいに、まわりにあふれ出す。
最寄の地下鉄の駅の入り口は人でつかえて入れないし、交差点の信号は普通に点灯していて、車もバイクもエンジンをかけて前に進もうとしているのだが、そこに50万人の人間が歩道も車道も所かまわず押し寄せていく。エンジンをかけた車と車の間の細い空間を、信号を無視して通っていくのだが、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まるわけにいかない。将棋倒しになるのじゃないか、車に押しつぶされるのじゃないか、と思うとさすがに怖くなり、死ぬんじゃないかとすら思った。
しかし台湾のホストの家族やまわりの人たちは、それをとくべつどうとも思っていない。普通のことなのだ。翌日新聞を見て、今年は何人が集まったが、死者は出なかったみたいだね、と話している。国によって文化がこれだけ違うものなのかと、あらためて思い知ることとなった。

日本人というのは、自分というものが、あまり無いのだと思う。他人に合わせ、波風が立たないようにする。だから規制とか法律とか、そういう上から来るものについても、わりに素直に従う。それが日本の経済成長を支えても来たのだろうが、ところが一旦、そういうきまりが無い世界に行ってしまうと、めちゃくちゃになってしまうところがあるのだろう。
戦争中、中国で民間人を大量虐殺してしまったことや、最近では東南アジアで節操のない買春をくりかえすことなど、みんなもやるから自分もやる、ということで、何でもしてしまう。それをすることが自分にとってどうなのか、と考えることがない。今のいじめとかそういう問題も、根本は同じなのだろう。
自殺者が3万人をこえたそうだが、皆に合わせているうちにどうにもならなくなると、自分の正当性を主張するのではなく、逆に自分を抹殺してしまう、そういうところがあるのだと思う。

でもそうやって規制をしていくことにより、社会を動かしていくことは、もう限界なのだろう。
「食ショック」という特集で、膨大な食品が廃棄処分になっているという。コンビニで時間をすぎた弁当を捨てるというのは有名だが、野菜ジュースにほんのわずかの土が混じっていたとか、肉マンの重さが数グラム軽かったとか、そういう理由でどんどん回収し、捨ててしまうのだという。
きまりに反し、それについて問題になると困る、ということなのだろうが、そのとき、本当は食べられるのに、とか、ただでさえも食料自給率が低いのだから、できるだけ捨てないようにしたほうがいいんじゃないか、とかいうことが省みられることがない。
セブン&アイHDが農業参入、生産法人を8月に設立だそうだが、農業関係者以外の団体が農業に参入するためには、制限が多くなかなか難しいとのこと。農業関係者を保護するためだろう。しかし食料自給率を上げることが重要であるとしたら、考えなければいけないことがあるだろう。

しかしただ規制を取り払うだけでは、たぶんただめちゃくちゃになってしまい、新しい規制ができるだけだろう。それでは日本人の物の考え方を変えなければ、と考えたとしても、到底そんなことはできっこない。
どうしたら良いのかは分からないが、何かはしないといけないのだと思う。