2008-05-28

レッド・ツェッペリン



レッド・ツェッペリンというロックバンドが好きなのだ。1980年に解散したのだが、去年の暮れに復活コンサートがロンドンであって、それにタレントの江尻エリカが行ったというので、ちょっと話題になった。未だにすごい人気で、チケットには巨額のプレミアがついたそうだ。

レッド・ツェッペリンといっても、知らない人も多いかもしれない。デビュー以来の世界でのレコード・CDの売り上げの累計は、あのエルビス・プレスリーやビートルズと、肩を並べる。ツェッペリンより有名な感じもするローリング・ストーンズやマイケル・ジャクソンと比べると、2倍ほどにもなるという。3年ほど前、イギリスのラジオ局が、過去のすべてのロックバンドの中から、ボーカルやギターなどそれぞれのパートで、いちばん人気のあるプレーヤーを視聴者の投票によって選び、架空の究極のロック・バンドを決めようという企画を行ったそうだ。結果は各パートの一番人気がすべてツェッペリンのメンバーとなってしまい、「究極のロック・バンドはレッド・ツェッペリンだった」という結論になったという。

デビューは1969年。ぼくは7歳だったのでリアルタイムでは経験していない。高校に入りバンドを始めてから、知るようになった。その頃校内で、ギタリストとして一人前とみなされる基準のようなものが何となくあって、それがディープ・パープルというバンドの、「ハイウェイ・スター」か、ツェッペリンの「天国への階段」を弾けるということだった。ぼくはツェッペリンのほうにハマり、それから色んなバンドも聞いたのだが、結局これがいちばん好きだということは、今に至るまで変わりがない。

ひとことで言うと、「かっこいい」のだ。たとえばこれ。40年前の映像で、日本でのプロモーションのために作られたもののようだが、冒頭の紹介部分が時代を感じさせるのにたいして、曲と演奏がまったく古臭くなく、今でも新鮮なエネルギーに満ちあふれていることを感じてもらえるだろうか?このように歪んだ音のギターが前面に出てフレーズを刻み、ボーカルがシャウトするスタイルのロックを「ハードロック」と呼ぶが、これを確立したのが彼らだと言って良い。ツェッペリンは、音楽の一つのジャンルを生み出した存在なのである。

1960年代の音楽シーンは、ビートルズの登場によって幕を開けた。50年代にアメリカで、エルビス・プレスリーが一大ムーブメントを巻き起こし、イギリスの片田舎に住んでいた彼らは、これに感化されてバンド活動を始めたのだが、バンドのメンバーが自ら曲を作るというのは、ビートルズから始まったことだった。彼らの成功によって、ローリング・ストーンズや、ザ・フー、モンキーズなど、新たなバンドが続々デビューしていき、またバンドを生み出す土壌というものも、これをきっかけにイギリスを中心としながら、熟成されていったと思う。

プレスリーは、アメリカの黒人音楽であった、ロックンロールに影響されたのだったのだが、ロックンロールのルーツは、アメリカに連れてこられた黒人達が、自らの悲しみを歌に込めた、ブルースという音楽だ。ビートルズの成功で、世の中には明るい、健康的なロックがあふれていただろう。しかし次を目指す若者達は、何かもっと違ったものを探してもいたと思う。そういう中、ロックのルーツであるブルースを、自分達なりに再解釈して演奏しようという動きが、イギリスで始まる。折りしも電子技術の発達で、ギターアンプの大容量化が進み、大きな音の出るアンプを、さらにボリュームを目いっぱいに上げて使うことで、大音量で歪んだギターの音が出るようになった。それがかっこいいということで、その音を使ったギターの演奏技術もつぎつぎ開発され、それを前面に出してブルースを演奏するという、エリック・クラプトン率いるクリームや、ジミ・ヘンドリックスなどが生まれていく。

このような状況の中、レッド・ツェッペリンのリーダーである、ギタリストのジミー・ペイジは、元はスタジオミュージシャンをしていたが、乞われてヤードバーズというバンドのメンバーとなる。メンバーの入れ替わりが激しく、ギタリストはジミー・ペイジで三人目だった。それほど人気のバンドでもなかったが、ペイジは演奏を楽しんでいたらしい。しかししばらくするうちに、ペイジ以外のメンバーが全員、それぞれの事情で脱退し、一人残されたペイジは、新たにボーカルにロバート・プラント、ドラマーに、プラントのバンド仲間だったジョン・ボーナム、ベースにペイジとはスタジオミュージシャン仲間だったジョン・ポール・ジョーンズを誘い、しばらくはニュー・ヤードバーズという名前で活動するが、その後同じメンバーで、レッド・ツェッペリンとして、再スタートを切ることになる。

ここで何が起こったのか、ぼくはとても知りたいのだ。それほど冴えないブルース・ロックのバンドが、どのようにして、新たなジャンルを切り開くような巨大な存在になりえたのか。おそらく何らかの、大きな発想の転換があったのだろう。それはどのようなものだったのか?

ツェッペリンの音楽のかっこよさは、一つには歪んだ音のギターが奏でるフレーズに負うところが大きい。しかしそれ自体については、とくべつ新しくはなかった。当時あまたのバンドが、取り入れていたものだったのだ。そのような状況を横目で見ながら、次の一歩をペイジはどのように踏み出そうとしたのか。

それは、「ブルースという枠組みからの脱却」ではなかったかと思う。

当時歪んだ音のギターを取り入れたバンドの多くは、迫力あるギターの音や、それから生み出される新たな演奏技術によって、新たな表現を得てはいたが、それはあくまでギターというパートについてのみ言えることで、曲全体、バンドのあり方全体としては、依然としてブルースのままだった。しかしペイジはおそらく、この新しいギターの音と演奏技術が、新しい曲のあり方、バンドのあり方を生み出しうることを感じたのだ。

その代表的な曲が、Dazed And Confusedだろう。これはヤードバーズ時代に演奏を始め、後にツェッペリンの柱となった曲の一つだが、ここではブルースらしさというものが完全に解体され、あと方もなく消え去っている。ブルースには定型のコード(和音)進行のパターンというものがあるのだが、この曲にはコード自体がほとんど使われない。ギターとベースが同じ旋律を奏でる(ユニゾン)部分と、ペイジのギターソロの部分は、コードは一つだけ、展開しない。決めのフレーズにいくつかコードが使われるが、あとは伴奏もなく、ペイジがバイオリンの弓で、おどろおどろしいギターの音をひたすら聞かせている。この曲は、技術革新により新たな表現を得たギターによって、ブルースという形式に代り、新たに曲を形づくるということについての、ペイジの挑戦なのだ。ギターとベースがユニゾンで旋律を奏でることにより曲を展開していくというのは、これ以降のハードロックの曲の、定石的なあり方の一つとなっている。

このようなあり方はしかし、西洋の伝統的な音楽では珍しくなかったかもしれない。いくつものパートがユニゾンで旋律を奏でるということは、ぼくは詳しくないが、クラッシックなどではいくらでもありそうな気がする。そう考えるとペイジが踏み出した一歩は、アフリカの黒人の音楽性と、西洋の白人の音楽性との調和のあり方の一つであるとも言えるのかも知れない。

このDazed And Confusedのビデオだが、もう一つ面白いのは、観客だ。皆ぽかんとしている。1969年3月、デンマークでの、スタジオライブなのだろう。ツェッペリンの初めてのアルバムが発売されたのが、アメリカで1969年1月、イギリスでは3月だから、ここのお客さんたちは、ツェッペリンの音楽を今日初めて聴いたに違いない。これまでのロックとあまりに違いすぎて、どう反応して良いか分からず、戸惑っていたのだろうと思う。

ペイジが目指したものは、そのくらい革新的なスタイルだったから、それを観客以前に、どう自身のバンドのメンバーに伝えるか、ということが、大きな課題だったに違いない。ベースのジョン・ポール・ジョーンズは同じスタジオミュージシャン仲間だから、たぶん理論的に説明してある程度理解させることができただろう。しかしボーカルのロバート・プラントと、プラントのバンド仲間だったドラムのジョン・ボーナムは、明らかに肉体派、感覚派である。そのような人たちに新しい内容を伝えるには、口で説明するだけでは難しい。そうではなく、実際に一緒にやりながら、共に見つけていくということが、絶対に欠かせない。

ページはDazed And Confusedを、ヤードバーズの時に演奏している。ペイジのギター演奏自体は、その後のツェッペリンの時とほぼ変わらないのだが、ボーカルがまったく違う。違う歌を歌っている。おそらくペイジは、ギターとベースについてはきちんと考えてあったが、ドラムとボーカルについては、あまりちゃんと考えておらず、たぶん「適当にメロディー付けて、歌ってみてくれない?」みたいな感じだったのだ。だからヤードバーズとツェッペリンでボーカルが違えば、もちろんのこと違う歌になるのである。

ヤードバースのボーカルはキース・レルフという人だが、たしかにロバート・プラント彼とを比べれば、大音量のギターアンプの前で歌うボーカリストとしての素質は、天と地ほどの違いがあるだろう。しかし素質だけの問題ではない。プラントやボーナムにたいして譜面を書いて渡すわけではないのだから、彼らには演奏を、自分自身で生き生きと、生み出してもらわなければならない。そのために必要なのは、バンドが生き生きとした、創造的な場、そのようなメンバー同士の関係性、そういう状態にあることである。

ヤードバーズはメンバーの入れ替えが多く、マネージャーも3回変わったそうだが、それはメンバー同士の関係性が最悪だったからだそうだ。ペイジはそれを身近に、後半は自身がメンバーとして、目の当たりにしてきた。一人目のギタリストであるエリック・クラプトンが、ヤードバーズを脱退したのは、ブルース・ロックを志向していたクラプトンが、マネージャーと他のメンバーから、シングルレコードをヒットさせるために、より一般受けしそうなポップな曲を強制されたからだという。このことから推し測れば、ヤードバーズのメンバー間のいざこざは、収益の機会をどのように得るのかという問題と、おそらく無縁ではなかっただろう。

ツェッペリンは、シングルレコードをほとんど作らなかった。テレビにも、雑誌その他のマスコミにも、ほとんど登場しなかった。それは当時の音楽業界の常識とはかけ離れたものだったが、ライブの迫力の物凄さが口コミで伝わることによって、シングルレコードよりもはるかに高価なアルバムが、爆発的に売れていったという。ペイジはなぜ、そのようなやり方を選んだのか。おそらくメンバー同士のいざこざを避けるためではなかっただろうか。営業のあり方で意見が対立するくらいなら、いくら常識に反したとしても、そのようなことはまったくしないほうが良い、そういうことだったのではないかと思う。実際ツェッペリンのメンバーが仲違いしたという話は聞かない。80年に解散したのも、そのような類の理由ではなく、ドラムのジョン・ボーナムが、酒の飲みすぎで、寝ているうちに吐いた物が気管につまり、死んでしまったためだった。

ペイジは、少年時代の映像(いちばん左のギターを演奏する少年がペイジ)を見ても、わりと最近のインタビューを見ても、いわゆるロックと言うとイメージされる、不良っぽさとか、暴力的な感じとか、そういうものとはまったく無縁な、おそらくイギリスのそこそこ良い家庭で育った、きちんとした紳士である。彼はロックを、自分の趣味の追求や、欲求不満のはけ口、また社会にたいする批判の表明の場として位置づけることはなく、きちんと収益を得るビジネスとしてとらえた。そして、それが成功するための戦略を描き、それを勇気を持って実行したのである。ロック評論家の渋谷陽一氏によれば、ペイジがベースのジョーンズを誘った時の台詞が、「どうだい、金を儲けようぜ」というものだったという。さもありなんと思う。

名古屋に一年半ほどいたことがある。名古屋にはシナモンという、知る人ぞ知る、ツェッペリンのコピーバンドがあって、ギターやボーカルなど各パートが、微に入り細にわたって、ツェッペリンをコピーしており、ギタリストなぞは、姿かたちまでもが、ジミー・ペイジにそっくりなのだが、ちょうど名古屋市大須のライブハウスで公演があったので、観に行ってみた。


シナモン

演奏を満喫したのはもちろんだが、面白かったのは来ていたお客さん。50~60人くらいだろうか、そのほとんどが、50代前半くらいの、大企業の部長か、または小さめの会社の重役か社長、という感じの人たちだったのだ。それが皆、嬉々として、ツェッペリンの曲を聴いている。年代的に50歳からちょっと上くらいの人たちが、ツェッペリンをリアルタイムで体験しているということはあるだろうが、それだけではないだろう。ツェッペリンというバンドのあり方自体が、部長や社長が自分の人生を投影できるような、そんな存在なのだと思うのである。

レッド・ツェッペリンのCD。入門として一枚買うならこれ。


レッド・ツェッペリンII

ツェッペリンのかっこよさが、いちばんストレートに出ている。1969年10月発売。ビートルズのアルバム「アビー・ロード」をおさえて、全米、全英ともにチャート一位となった。

もう一枚買うなら、次はこれ。


レッド・ツェッペリンIV

「天国への階段」もここに収録されており、一般にはいちばん人気がある。ジミー・ペイジはイギリスの民俗音楽にも大変造詣が深く、IやIIIにはそういう曲も多数収録されている。ペイジはたぶん本当は、そういうもののほうが好きなのだと思う。天国への階段は、そのイギリス民俗音楽と、黒人由来のハードロックとが初めて融合されたもので、ツェッペリン音楽がここで完成した、と言ってもいい。しかしその分、初期の荒削りな魅力は影をひそめ、シンプルな分かりやすさには欠けるところがあると思う。

あと二枚選ぶならこれ。


レッド・ツェッペリン

デビューアルバム。個人的にはこれがいちばん好き。


聖なる館

前作(Led Zeppelin IV)で自分達なりにスタイルを完成させ、ここではそれを展開させながらも、力を抜いて色々なチャレンジをしている。ツェッペリンのCDの中では唯一、BGMとしても聞ける。