2008-04-10

無印良品

昔高校生の頃、付き合っていた女の子がいて、その子が「私、ブランドとか好きじゃなくて、マークとか何も入っていないのが好きなんだよね」と言っていたことがあった。その頃はUCLAのウィンドブレーカー全盛の時代、ぼくも当然それを着ていたわけだが、その子はそんなUCLAとか、Adidasとかという文字の入ったものはものは全く着ていない、独自のお洒落な感覚を持った子なのだった。

でもぼくはその時すでにその子のことがあまり好きではなくなっていたこともあって、その発言にかなりげんなり来たものだ。え?でもそれって方向は違うけど、結局ブランド志向といっしょじゃん・・・。その子とはその後すぐ、別れてしまったのだが、それから数年たって無印良品がスタートした時、その子はどう思っただろうか。

何を隠そう、実はぼくは、無印良品にハマっている。だいたいまず、メガネがムジ。毎日仕事に持って歩くカバンも、ボールペンも、電卓も。あと家の置時計も、冷蔵庫も、鍋もそう。ムジをもうちょっと早く知っていたら、ソファもベッドもカーテンもテーブルも照明も、ムジになるところだったのである。

そうやってムジにハマっているぼくなのだが、ちょっと複雑な気持ちがするのも事実。ハマっているというより、「ハメられている」という感じが、どうしてもしてしまうのだ。自分の弱いところのツボみたいなものを、カクンと衝かれて、へなへな、ってさせられちゃっているような、そんな感じがしてしまうのである。

ポイントは、良品はいいとして、「無印」っていうところにある。本来の筋からすると、品物が良ければ、印があってもなくても良いわけで、それをあえて「無印」と謳うところに、高等戦術がある。さらに無印と言いながら、実際には「無印という印」なわけだから、あざといすらと言えなくもない。

「ほんとはブランドなのに、ブランドじゃない、と言う」って、例えば秀才が、「ほんとは勉強できるのに、ぼくなんか全然ダメです、って言う」とか、女の子が、「ほんとは可愛いのに、私なんか全然可愛くないですー、って言う」とかいうことと似ているのだろうか。でもそれはちょっと違う。「勉強ができる」とか「可愛い」ということは程度の問題であって、それを、そうじゃない、って言うことはあくまで謙遜だけれど、「ブランドであるかどうか」は程度の問題じゃないからだ。

無印良品は「無印」と謳うことで、「ブランドみたいじゃないものを作るブランド」を目指したのだろう。ブランドは普通、常に「独自なもの」を目指していく。そのブランドの作るものが他にはない、独自なものだから、人はそれを買う。でもブランドというものはそれが故に、他とは違ったもの、変わったものへと向かうという性向をもつだろう。

それに対して無印良品は、「変わったものではなく、『定番』のものを作る」と考えたのだろう。メガネでもカバンでもいいけれど、その品物について本来必要な機能とか、あるべきデザインとはどういうものなのか、それを考え、形にし、しかも安価に提供していく。それが変わったものばかりが溢れる世の中には、逆に独自のもののように映り、受け入れられていった、ということなのではないかと思う。

その定番のスタイルというものが、無印良品にとっては、白とシルバーと木目、それに黒によって構築される一連の世界なわけだけれど、何がハメられているような感じがするのかと言うと、「それが本当の意味で定番なのか」と言われると、それはほんとは、そうではない、からなのである。

定番というのは本来たぶん、長い時間をかけながら人間が無意識に選択していったことの結果、決まってくるものなのではないだろうか。人間が物を作り、使い、また作り、ということを延々と繰り返していく中で、些末な事柄がだんだん淘汰され、いわゆる枯れて、いく。そこに姿を現してくるものが、定番というものなのだと思う。しかし無印良品の提示している定番は、そうではない。あくまでそれは無印良品の商品企画部によって考え出された定番、なのだ。

そのような意味での定番を喜んで受け取ってしまうということは、「定番好きの自分」を見透かされているような、足元を見られているような、そういう気恥ずかしさがあるのである。ちょうどキャバクラに行って、自分好みの女の子にハマってしまうのと、ちょっと似ている。相手はほんとは、自分好みでも何でもないのだ。プロのキャバクラ嬢というものは、こちらがどんな女が好みなのかを素早く察知して、それを瞬間に演じて見せるものなのである。

またインスタントラーメンや牛丼を、おいしいと思ってしまう感覚とも似ている。あれは本来、自然の意味ではおいしくない。しかし化学調味料の力で、人間がおいしいと感じてしまうような薬品の調合がされているだけなのである。

まぁ、そういうものに負けてしまう自分というのも、情けないと言えば情けないのだけれど、今の世の中、それは仕方ないというものだろう。そういうものが全然ないのも、またつまらないし。でもそういうもの、キャバクラや、牛丼や、そして無印良品といったもの、が何者であるのかということは、分かっていなければいけないなと思うのである。