2008-03-24

『逝きし世の面影』 渡辺京二著

日本の「近代」は明治維新によって導入され、今はまさに近代という時代のなかにある。

今存在するものは自分が生まれたときにすでに存在したものの延長戦上にあるわけだから、それがもっと前から変わらずに存在していると思いがちだが、もちろんそうではない。近代という時代は始まってからまだ200年も経っていない。

まあ言われてみれば、そんなこと分かっていると思うかもしれない。近代とは科学と、それによって生み出される技術とを基盤とする社会である。今の様々な科学技術が200年前には存在しなかったことは、もちろん誰の目にも明らかなことである。

しかしそのような表面的な成果の根底には、基本的な考え方というものがある。人間が社会や自然、そしてその中に生きる人間自身をどう捉えるかということについて、100年単位の時間の中で巨大な転換が行われ、それが科学技術の進歩などといったものを生み出すに至ったのだ。それではその考え方の転換とはどのようなものであったのか、近代という社会の本質とは何なのかということは、それが私たちにとってあまりに当たり前すぎる物事であるために、そうそう簡単には見えてこない。

20世紀は近代文明が頂点を極めた時代であった。様々な科学技術の発展により、人類には明るい未来が約束されているように思われた。しかし21世紀の今、そのように単純に明るい未来を思い描く人は少ないだろう。科学技術が発展した結果、環境問題や、グローバル化の問題が生まれ、世界は政治的にも経済的にも、大きく揺れ動いている。このまま進んでいってしまったら人類の存亡すら危ぶまれることになっている今、それではこれから私たちはどちらの方向を向いてどのように進んでいったら良いのかという事について、まさに今、答を見つけていかなければいけないのである。

そのためには、近代とは何なのか、それが人間にとってどのような意味を持つものなのかを徹底的に明らかにしていくことからしか、始めることができない。この本の著者の渡辺京二はそれを、近代以前の文明がどのようなものであったのかを探ることにより、見つけ出そうとしているのだ。

近代以前の文明は、すでに滅びてしまった世界である。いや江戸時代やもっと昔の様々な文化は、今に残っているものもたくさんあるではないかと思うかもしれないが、個別の物事は残っていても、そこで暮らす人間の生きる営みのあり方、その根底にある基本的な考え方は、今では残っていない。そこに光を当てることのできる光源として、著者は当時の日本を訪れた外国人たちの見聞の記録を見出した。

江戸末期、日本を訪れた外国人達は、すでに近代の中にいた。彼らは今の私たちと基本的に同じ視点を持っており、近代以前の日本を大きな驚きを持って眺め、無数の記録に残している。その記録を丹念に見ていく事により、著者は近代がどんなものなのかを、それ以前の時代と比較し、相対的に明らかにすることに成功したのである。

ここに描かれた近代以前の日本の姿は、私たちにとってある懐かしさと、同時に失われてしまったものに対する寂しさをもって迫ってくる。その懐かしさと寂しさとは、来たるべき未来に対するビジョンである。 それを感じたとき、そのときが、近代後の世界を見つけ、つくり出していく私たちの長い長い旅の、第一歩なのである。

平凡社刊。1900円+税。


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