2008-03-28

『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖著

「国家と個人が交差する場所」との副題。帯には「ディズニーから刑務所まで--。コミュニティこそが、アメリカ現代社会を映す鏡だ」。

著者は気鋭の若手文化人類学者。前作『アフター・アメリカ』で、2004年サントリー学芸賞、アメリカ学会清水博賞受賞。

『考える人』という雑誌に2005年から2007年にかけて連載された記事をまとめ、加筆・修正したものに、書き下ろしの終章を加えたのが本書。

激動の現代、近代社会の申し子であり、世界秩序の中心に位置するアメリカで、今何が起こっているのかを、「コミュニティ」という、人間がある有機的なつながりを持ちうる単位に着目し、実際に様々なコミュニティを現地取材することにより明らかにしようとした一冊。

日本には全く存在しないような、珍奇とも言えそうな様々なコミュニティのあり方はそれなりに面白く、興味を持って最後まで読むことはできた。

しかし著者も書いているが、一週間程度の現地取材はいかにも短く、良くて数人にインタビューしたり、施設を見学したり、という程度の内容で、食い足りないのは事実。まぁこれは雑誌の連載という制約から、致し方ないことなのだとは思うが、全てが表面的で、紀行文のような趣きだった。

現代のアメリカを見ようというとき、やはりいちばん知りたいことは、「アメリカはこれからどこへ行こうとしているのか」ということだろう。様々な問題や課題を抱えるように見えるアメリカが、それらをこれからどのようにして解決していこうとしているのか?それを知ろうとすることは、世界がこれからどちらに向かっていくのかを知ることと重なるだろう。そのキーに「コミュニティ」や、その再生ということがあるのか?そう思って読み進んでいった。

しかし読み終わってみると、著者の言わんとするのはそういうことではなく、結論としては「アメリカは複雑だ」「その中心には資本主義、市場主義がある」という、まぁなんとも月並みなもの。もちろんそれは事実であろうし、著者は学者だから、人をワクワクさせるために学問を行うのではないにしても、初めの期待は、読み進むにつれて失望に変わった。

しかしこれは何も著者のせいというよりも、「学問」というものが持つ、本質的な性質なのだ。近代の学問は常に、物事を客観的に記述することを旨としている。文化人類学のような、人間を対象とし、フィールドワークを手法とするものでも、それは同じだ。

しかし未来は、客観的な視点からは絶対に見えてこない。未来とは、人間が人間に対して夢を語り、深い関わりを形づくっていく時に、生み出されていくものなのだ。それはもともと、学問の埒外にあるものなのであった。

しかも今、近代という枠組みの未来が問われているという時、それは学問そのものの枠組みを問うことと、実はイコールなのである。学問の世界に学者としてうまく収まろうと努力している者にとって、それは考えることの許されない問いだろう。

本書は、現代社会の持つ課題の大きさを改めて認識させてくれる、良い機会を提供してくれるものにはなった。

新潮社刊。1600円+税。


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2008-03-24

『逝きし世の面影』 渡辺京二著

日本の「近代」は明治維新によって導入され、今はまさに近代という時代のなかにある。

今存在するものは自分が生まれたときにすでに存在したものの延長戦上にあるわけだから、それがもっと前から変わらずに存在していると思いがちだが、もちろんそうではない。近代という時代は始まってからまだ200年も経っていない。

まあ言われてみれば、そんなこと分かっていると思うかもしれない。近代とは科学と、それによって生み出される技術とを基盤とする社会である。今の様々な科学技術が200年前には存在しなかったことは、もちろん誰の目にも明らかなことである。

しかしそのような表面的な成果の根底には、基本的な考え方というものがある。人間が社会や自然、そしてその中に生きる人間自身をどう捉えるかということについて、100年単位の時間の中で巨大な転換が行われ、それが科学技術の進歩などといったものを生み出すに至ったのだ。それではその考え方の転換とはどのようなものであったのか、近代という社会の本質とは何なのかということは、それが私たちにとってあまりに当たり前すぎる物事であるために、そうそう簡単には見えてこない。

20世紀は近代文明が頂点を極めた時代であった。様々な科学技術の発展により、人類には明るい未来が約束されているように思われた。しかし21世紀の今、そのように単純に明るい未来を思い描く人は少ないだろう。科学技術が発展した結果、環境問題や、グローバル化の問題が生まれ、世界は政治的にも経済的にも、大きく揺れ動いている。このまま進んでいってしまったら人類の存亡すら危ぶまれることになっている今、それではこれから私たちはどちらの方向を向いてどのように進んでいったら良いのかという事について、まさに今、答を見つけていかなければいけないのである。

そのためには、近代とは何なのか、それが人間にとってどのような意味を持つものなのかを徹底的に明らかにしていくことからしか、始めることができない。この本の著者の渡辺京二はそれを、近代以前の文明がどのようなものであったのかを探ることにより、見つけ出そうとしているのだ。

近代以前の文明は、すでに滅びてしまった世界である。いや江戸時代やもっと昔の様々な文化は、今に残っているものもたくさんあるではないかと思うかもしれないが、個別の物事は残っていても、そこで暮らす人間の生きる営みのあり方、その根底にある基本的な考え方は、今では残っていない。そこに光を当てることのできる光源として、著者は当時の日本を訪れた外国人たちの見聞の記録を見出した。

江戸末期、日本を訪れた外国人達は、すでに近代の中にいた。彼らは今の私たちと基本的に同じ視点を持っており、近代以前の日本を大きな驚きを持って眺め、無数の記録に残している。その記録を丹念に見ていく事により、著者は近代がどんなものなのかを、それ以前の時代と比較し、相対的に明らかにすることに成功したのである。

ここに描かれた近代以前の日本の姿は、私たちにとってある懐かしさと、同時に失われてしまったものに対する寂しさをもって迫ってくる。その懐かしさと寂しさとは、来たるべき未来に対するビジョンである。 それを感じたとき、そのときが、近代後の世界を見つけ、つくり出していく私たちの長い長い旅の、第一歩なのである。

平凡社刊。1900円+税。


Amazon.co.jp: 逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

2008-03-23

『創造の狂気 ウォルト・ディズニー』 ニール・ゲイブラー著

ディズニーにはもともとあまり興味はなく、ディズニーランドにも数回、映画も子供の付き合いでわりかし最近のを何本か見た程度だった。好きか嫌いかといえばあまり好きなほうではなく、ディズニーランドもあの人工的な感じがなじめないし、映画も感動を呼ぶストーリー作りのうまさには舌を巻くが、それを好きと思ったことはなかった。

新聞の書評でこの本を見たとき、ああ、そういえば今までこの巨人のことを知ろうとしたことがなかったなと思い、早速Amazon.comで購入したのだった。

読み始めたら面白くて、一気に読み終わった。

この本の帯の文句が、「ミッキー生みの親、実は『嫌なヤツ』?」という、まぁちょっと売らんがためのものなのだが、 実際ウォルト・ディズニー、人並みはずれた才能と意欲を持ちながら、毀誉褒貶を繰り返していく、たくさんの仕事仲間に囲まれながらも、終生孤独な、そんな人生を送った人で、読み終わって寂しさというか、苦さというか、そんなものが残った。

とにかくウォルトは、自分が面白いと思うもの、やりたいと思うことに全力を傾け形にしていく。常にフロンティアであった人だから前例はないし、製作資金のために莫大な借金をし、周りの人間との摩擦を繰り返し、それでもひたすら前に進んでいく。そのエネルギーの大きさに、まずとにかく驚かされる。

そのエネルギーはどこから生み出されるのか?著者はそこにきちんと目を向け、丁寧に描き出そうとしていく。ウォルトが人生をかけて表現しようとしたものは何だったのか。それはまさにウォルトという人間がアメリカにおいて、生きていくという営みそのものであった。

著者は一流のノンフィクション作家で、それが7年間をかけて、ディズニーから全ての文書の公開を受け、しかも何の検閲も受けないという条件の下、この本を執筆した。ディズニーにおもねるのではなく、否定するのでもなく、抑制の効いたスタンスで、 ウォルト・ディズニーという希代のクリエーターを描き出している。 アメリカではベストセラーとなり、各方面から絶賛を受け、賞を受賞した。

ダイヤモンド社刊、中谷和男訳。1900円+税。


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