これはもう、まったく抵抗できないのであって、一回はがまんできても、翌日には行かずにはいられなくなる。
一般的にラーメンの中毒というものは、おそ松くんの小池さんの例もあるし、あるだろうとは思うのだが、僕は最近では、ほかの店のラーメンはべつに食べたくならなくて、この店だけ。
ここのラーメンは、たぶん化学調味料もあまり入っていないから、そういう物質的なものによる中毒ではないと思うのだ。
中華そば大盛りのばあい、生卵を入れるかどうか、いちいち客にたしかめるのだが、僕はちょっとまえから聞かれないようになった。
ようやく常連として認知されたということなのだろうな。
このラーメンは、これまで何十ぺんも書いているとおり、スープにしても、チャーシューにしても、麺にしても、ふつうのラーメンとはたいへん異なる、特徴のあるもので、だいたい写真を見てもわかるとおり、スープが真っ黒で、こんなに黒いスープのラーメンは見たことがない、というくらいの話なのだが、だからといって、主張がつよいということでは、まったくないのだな。
ラーメンに限らず、物事を世の中に送りだそうとするとき、それが主張をもつというのはふつうのことであるし、それは特徴という形となって表れるものだと思うけれど、この店のラーメンは、世の中になにかを主張したくて、こんなに真っ黒いスープになっていたりとかするのではない。
新福菜館が創業された戦前という時代にはおそらく、ラーメンのスープがこうやって煮魚の汁みたいな、甘辛い味になるということには、もっともな理由があって、もしかしたらそのころ営業していたほかのラーメン屋のスープだって、こういう真っ黒いスープだったのかもしれないのが、この店だけ、今にいたるまで続いてきてしまっているということなのだ。
時代をへるにつれて、ほかが変化しているのに、この店だけ変わらずにい続けるから、結果としてものすごく特徴的に見えてしまうということなのだな。
とくに麺が、黄色くて、ちょっと太めで、歯ごたえがあり、独特の風味があって、いわゆる昔ながらの、今ではもうほとんど死に絶えてしまっただろうというタイプで、これはほんとに、強烈な懐かしさを感じる。
清水寺から、三年坂、二年坂のあたりを歩くときに感じる、自分のなかに眠っていた日本人のDNAというものを、掻きむしられるような感覚とちょっと似ていて、新福菜館のラーメンにはそういう、古きよき日本というものが、凝縮されているのだな。
これは機会があれば、ぜひ聞いてみたいと思うことなのだけれど、新福菜館にはいろいろ支店があって、本店はこの三条店の麺よりもっと太い、スパゲティのような麺をつかっていて、河原町店などではもっと細い麺をつかっているのだが、僕はこの三条店の、太くも細くもない、なんとも中途半端な太さの麺が、新福菜館の当初からの麺なのじゃないかと思うのだがな。
本店やほかの支店では、時流に合わせて、それを変えたのではないかという気が、僕はする。