2012-03-13

スペイン料理のルーツはこれ。
「スペイン風ポトフ」


自炊をつづける上で大事なことがあるとしたら、「おいしさ」より「おもしろさ」なのではないかという気がする。

もちろん「おいしさ」も、自炊のレベルはかなりのものだ。

だいたい自分が食べたいと思う材料をつかって、自分が食べたいように作るのだから、おいしくないわけがない。

これは「料理の腕前がまだそれほどでもない」という人でも、「自分がおいしい」と思えるレベルには、わりとすぐに到達することができると思う。

自分が作った料理は、自分で手をかけたという愛着があるから、その分ひいき目に見るようになり、おいしさも増すものだ。



ただ、「おいしい」というだけでは、けっこうな手間と時間をかけて料理をするモチベーションには、ちょっと欠けるものがある。

おいしいだけのものなら、べつに自分で作らなくたって、世の中にはいくらだってあるわけだ。

やはり料理をつづけようと思ったら、「料理」という技能そのものにたいする興味がわき、理解が深まっていくことが欠かせない。

そこに「おもしろさ」や「たのしさ」が生まれてくることになる。



人間は、ほかの全ての生き物同様、栄養分を外からとり込んでいかなければ、生きていくことができない。

ただ人間がほかの生き物と異なるのは、「毎日ちがうものを食べなければ満足できない」ということだ。

人間以外の生き物は、年中同じものを食べつづけて、不満に思うこともないだろう。

環境が変化したりして、やむを得ずちがうものを食べるようになることはあるだろうけれど、パンダが笹以外のものを食べたがるなどという話は、ふつうは聞かない。



人間だって、「栄養」ということだけ考えれば、べつに毎日ちがうものを食べる必要もないだろう。

ましてや料理だって、する必要がない。

生の肉やら、生の野菜やらを食べていれば、栄養的にはそれで十分なはずだ。

火を通すことで、かえって失われる栄養だってあるくらいだ。



しかし人間は、おなじものを食べつづけることに耐えられない。

人間は、「飽きる」からだ。

人間が「精神」を持ってしまったために、人間にとって「食べる」ことは、ただ栄養分をとり込んで、肉体を満足させるだけでなく、精神をも満足させなければいけなくなった。

精神を満足させるために生まれたものが、「料理」だったということだ。



だから料理は、芸術や音楽、文学や科学などとおなじように、正真正銘の「文化」であるといえるわけだが、その裾野の広さたるや、芸術や音楽などの比ではない。

人間は、食べなければ生きていけない。

すべての人間が、1日に何度かは、料理をするか、またはしてもらうことになる。

それを人間は、人類の歴史が始まって以来、何10万年にもわたって、営々とつづけてきたのである。



現在私たちが食べる料理は、その集大成ともいえるものだろう。

料理の一つひとつが、これまでに生を享けたすべての人間が参加することによりつくられてきた、巨大な文化を背景としているといえるのだ。

それだけの巨大文化に触れ、理解を深めることが、つまらないことであるはずがない。

自炊をしないということは、みすみすその貴重な文化に積極的にかかわる機会を、自ら逃してしまっているといってもいいだろう。






文化としての料理の理解を深めたいと思うのならば、その「成り立ち」に注目するのは、ひとつの王道だといえるだろう。

物事がどのように生まれ、育っていったかを知ることが、その物事を理解するのに効果的であることは、なにも料理にかぎらない。

料理の成り立ちを知りたいと思ったら、やはり「ひと鍋料理」になるのではないだろうか。

日本なら鍋料理、ヨーロッパなら「ポトフ」ということだ。



「鍋」は、日本なら約2万年前に発明されたといわれている。

縄文土器の誕生だ。

鍋の発明は、今ならコンピュータやインターネットの発明にも匹敵する、巨大な出来事だっただろう。

人々の食生活を、根こそぎ変えたはずだ。



それまで料理といえば、生か、焼いて食べるか、または干したり発酵させたものを食べるというくらいだったのだろう。

そこに鍋が登場し、水で「煮る」ことができるようになると、「スープ」が生まれることになる。

肉や野菜を煮ることにより取れるおいしいスープに、人々は歓喜したことだろう。

スープにいろいろな味付けをしたり、さらにスープを煮詰めていったりすることにより、さまざまな新たな料理が生まれていくこととなった。



鍋料理やポトフは、そういう古代の料理を、今に残しているところがあるように思える。

料理の「原型」といってもいいものなのだろう。



ポトフも、ヨーロッパの各国で、多少のちがいはあるけれど、ほぼおなじような作り方をするようだ。

昨日作ったスペイン風のポトフは、「コシード」と呼ばれる。

コシードとは、スペイン語で「料理」のことだ。

「料理」という名前がついた料理だというのだから、これがまさにスペイン料理の原型であるのは、疑いないところだろう。



作り方は、異常に単純。

鍋に水を張り、骨付きの肉とニンニク1かけ、それにローリエを入れる。

鍋は炒め鍋でやるのがやりやすい。

骨付きの肉は、昨日は安売りしていた鶏の手羽元をつかったが、スペアリブでもいいし、牛のかたまり肉でもいい。

スペインでは、鶏と豚と牛と、3つとも使うのが本式らしい。



鍋を火にかけ、初めのうち出てくるアクを取ったら、鶏の場合なら、そのままコトコト30分煮る。

豚を入れれば、煮時間は1時間、牛なら2~3時間ということになるだろう。

アクは、初めに出てくるものを取れば、あとは神経質にならなくていい。

鍋のフタは、肉を煮るにはほんとうは、しないほうが臭みが抜けるというけれど、燃料代のこともあるし、べつにしても、それほど臭いこともない。



肉を煮たら、もし煮汁が足りないようなら水を足し、塩で味付けする。

そして野菜を入れる。

野菜は、たとえば大きくクシ切りにしたキャベツ、やはり大きく切った、ゴロゴロのジャガイモやニンジン、玉ねぎ、カブ、それにカブの葉、などなど。

さらに皮にフォークで穴をあけ、味がしみ出しやすいようにしたソーセージ。

スペインではここに、水でもどしたひよこ豆を加える。

ひよこ豆は、日本でも缶詰が売っているから、それを入れてももちろんいい。

これを20~30分煮たら出来あがり。

野菜はこのばあい、煮くずれるくらい、クタクタにしたほうがうまい。



皿によそって、パセリ、コショウをかけて食べる。

肉と野菜から出ただしだけの、なんとも素朴な味わい。

いかにも「スペインのおふくろの味」という風情。



味を変えたいと思ったら、オリーブオイルやレモン汁、バター、粒マスタードなどを、好みで加える。

ただもちろん、これは初めから入れてしまわずに、まずはシンプルな味付けを味わって、あとから入れるようにするのがいい。

またこれらすべてを入れてしまうと、味がケンカするだろうから、どれが1つにするのがいいのかも。



スペインでコシードを食べるときには、まずスープだけを、パスタを入れて味わって、肉や野菜はそれとはべつに、メインディッシュにするのだそうだ。

そうやって、スープとメインを分けないといけないのは、おそらくナイフやフォーク、スプーンなどを使うからだろう。

しかし日本には、箸という文明の利器があるのだから、これは全部いっしょにスープ皿に盛り、箸とスプーンで食べるのが正解だ。



酒はやはり、どう考えても白ワイン。

冷蔵庫に、栓を抜いて3ヶ月くらいたったのが入っていたから、それを飲んでみたけれど、問題なくおいしかった。



朝めしに、パスタではなく、いつも通りうどんを入れてみたけれど、これも文句なくうまい。