2011-12-05

真綿でくるまれるような心地よさ。
広島の人と、ラーメン


広島には2年ちかく、住んでいたことがあり、そのあいだにこのブログをとおして、友達がたくさんできた。このブログは、はじめてから4年半がたったのだけれど、今の形になったのは、広島にいたときだ。飲食店での飲み食いのことを書くようになり、自炊した料理の写真をのせるようになった。広島は、私にとっては、「ブログの生みの親」とも言える存在だ。

私は札幌で生まれたが、3才で関東に越してきて、それから40年ほどを東京で過ごした。そのあと名古屋に2年ほどいて、いちど東京へもどり、広島に2年ほどいて、今は京都で、やはり来てから2年ちかくたつ。こうやって日本のいろんな土地を転々とすると、もちろん自分が生まれ育った地元でずっと過ごすことの幸せは、得ることができなくはなるが、その分、自分が住んだそれぞれの土地のあり様を、他の土地とも比較しながら、知ることができる楽しさがある。やはりその土地の風土や人の生き方は、実際にそこに住んでみない限り、決してわからないことがあるだろう。



ある土地の人々の生き方は、そこへ外からやってきた人間の目からみると、「異分子である自分と、どのように関係を結ぼうとしてくれるのか」というところに、特徴が表れるようにおもう。外から来た人間にとっては、そこで新たに関係が取り結ばれていくわけだから、土地の人たちが、日常でどんな関係をもち生きているのかが、見えやすいところがある。

名古屋などはその点、非常に直球で、何のてらいもなく、その人の素のままを、ぶつけてくることが多い。電車の中などで、お婆さんが、見ず知らずの人にたいし、家族に話しかけるのとおなじような調子で、言葉をかけてきたりするのは、その典型だ。名古屋の人は、他人にたいする敷居が非常に低く、こちらが変に構えてしまうことがなければ、誰とでもすぐに友達になれる場所であると感じる。

それにたいして、千年以上にわたって都であった京都は、諸国からの外来者が歴史的に多く、時には乱暴者の外来者が、騒動を引き起こすことだって、稀ではなかっただろう。外来者にたいする敷居が、非常に高い場所であるという気がする。毎週一回、かならず食べに行っているラーメン屋から、常連の扱いをうけるようになるまで、1年半もの時間がかかった。ちょくちょく行くバーのマスターも、本当に親しげに接してくれるようになるまでには、やはり1年ほどの時間がかかったような気がする。京都の人は、外から来た人にたいし、どんな人なのか、慎重に値踏みするところが、たぶんあるのだろう。



広島のばあい、土地の人と、親しい関係になるためには、ある「儀式」が必要であるようにおもう。広島の人は、知らない人を、とりあえず、殴ってみるのだ。もちろんそれは言葉のうえのことで、それも軽くじゃれ合う程度のものなのだが、それを相手が、殴り返してもかまわないし、とにかくその人なりのやり方で、受け入れる姿勢をしめすと、そのあとから、無二の親友のような関係になれるものであるとおもえる。うちの息子が、まだ小さかった頃、近所のはじめて会った子供から、
「オレなんかな、2才になって、3才になって、それでいま、4才なんだぜ」
と自慢され、3才だった息子が、
「へー、すごいね、がんばったんだね」
と応じた次の瞬間、もうすぐに友達になって、遊んでいたことを思い出すところがある。

どこの土地でもおなじだが、いったん友達になると、その土地の人は、非常にあたたかく、接してくれることになる。広島の人は、そのあたたかさが、まさに相手を真綿でくるむような、細部にまで行き届いた配慮をしてくれると感じる。決して出すぎることはなく、かといって不足もない。その人が必要とすることを、必要なだけ、あたえてくれる。それが広島の人の、人に接する流儀なのだろう。

今回、あるイベントに招待をうけ、1年ぶりに広島に来たのだが、広島の仲間達からの、心からのもてなしをうけ、なんとも居心地のよい、あたたかな気持ちになっている。




広島の食べ物も、広島の人たちのそのような考え方を、そのまま表したような味がする。その代表例が、広島のラーメンだ。

全国的に有名なお好み焼きの陰にかくれ、あまり知られていないのだが、広島の地のラーメンは、大変うまい。関西から西日本のラーメン標準の、醤油とんこつなのだけれど、これが京都や岡山、山口などとは異なり、広島のラーメンは独特だ。

とんこつのスープは、独特の風味があり、山口の醤油とんこつラーメンなどは、「臭い」とおもえるほど、クセを引き出したりするし、また逆に京都のラーメンは、とんこつのクセを、醤油の風味で消すようにしている。しかし広島のラーメンは、そのどちらともちがう。ひとことで言えば「やさしい」味なのだが、とんこつの味も、醤油の味も、どちらも出すぎることが決してなく、材料を何かひとつ、特定することがむずかしいような、渾然一体とした調和をなしている。聞くところによると、スープにたっぷりの野菜や、昆布やかつお節を、使っているとのことだが、もちろんそれも、出過ぎることはない。

チャーシュも小ぶりで控えめ、やはり細くて控えめなもやしに、多すぎない青ネギ、その下に、太すぎず、細すぎない、しかし歯ごたえのしっかりとした麺が沈んでいる。派手なところは一つもないのだが、食べると「ほっ」とするような、確実な満足感がある。

広島のラーメン店は、とくに老舗といわれる店は、営業姿勢も同様で、街の中心地からはだいぶ離れた、あまり目立たないような場所で、店構えも派手にすることは一切なく、ひっそりとお客を待っている。メニューも余計なものはおかず、「中華そば」だけの店も多い。「広島ラーメン」として、全国に売り出すなどということも、考えることは露ほどもないから、観光客が押しかけることもあまりなく、地元の人達だけに、長年にわたって愛されつづけている。

そのような姿勢は、現代風の考え方からは、はるかに隔たった、古風ともいえる考え方だといえるだろうが、それをいまだに、しっかりと守りつづけ、支えつづけている日本人が、広島にはいる。そしておそらく、全国のいたるところに、土地土地のさまざまなあり方で、古風な日本人が、今でも無数にいるのだろう。