2011-08-20

ひとりで料理をするというのは、つまらなくはないよ

僕は毎日、飯を自分ひとりだけのために作り、それをひとりで食べるということをしている。よくひとり暮らしをしている男性で、毎晩居酒屋で食事をしているような奴に対して、「自分で飯を作らないのか」と聞くと、返ってくる答えが「自分ひとりだけのために料理をするのは虚しい」ということだったりする。まあ気持ちはわからなくもないのだが、僕は自分で料理をすることが虚しいと思ったことはない。

べつにそれは見解の相違だから、虚しいと思うことを否定するわけではないけれど、でもやはり自分ひとりだけのために料理をつくるのを虚しいと思う人は、料理の面白さを知らないんだなとは思う。

料理というのは実に奥深い世界なのだ。人間は食わなきゃ生きていけない。食ってさえいれば生きていける。人間には様々な欲望があるけれど、その中で食欲は最も大事なものだろう。

人間という生き物が誕生して何万年になるのか、正確なところは知らないけれど、その間に生まれ、そして死んだすべての人間が、「毎日ちょっとでもうまいものが食いたい」と思い、そのためにちょっとはましなやり方を少しずつ見つけてきた。その集積が、「料理」というものの中に集約されているわけだ。

その蓄積の膨大さたるや、想像もつかないほどだろう。およそ「文化」と呼ばれるものは、芸術だって科学だって何でも良いが、多くは世の中の人のうちごく一部の裕福な人達により生み出されてきた。しかし食うというのは人間である限り全員がしなければならないことなのだから、「食文化」の蓄積は、他の文化とは比にならない大きさだと言っていいのじゃないかと思うのだ。

料理をするというのはつまるところ、その人類最大の文化である食文化を愛でることなのだと思うのだな。

食文化は他の文化とは違って、作品とか論文とかいう形で、後世に残りにくい。食い物は食ってしまい腹に入ってしまえば、後には何も残らないからだ。昔のレシピなんてものもあるが、でもたとえば昔のレシピを、バッハの音楽を楽しむように一般の人が楽しむかといえばそうではないだろう。

料理研究家は別として、一般人が食文化を楽しむのは、常に目の前にある料理と切り離れることはない。しかし目の前にある料理こそが、食文化の歴史の痕跡を、色濃く今に伝えることになっているのだろうと思う。

だから料理は、ひとりで作っていても、じゅうぶん面白いのだ。それはもちろん、みなで作り、みなで食べる料理の楽しさは僕だって知っている。でもひとりで作り、ひとりで食べるのがつまらないということは、決してないと僕は言いたい。



昨日の昼は、前日の肉じゃがに炊きたての白めし。お新香とちっぴりの酒も一緒に。

肉じゃがは、冷蔵庫から出してしばらく置いて、常温にもどす程度のことはするが、電子レンジで温め直したりはしない。だいたい家に電子レンジは置いてない。

今何でも温め直したがる人が多いが、それってどうなんだと僕は思うがな。煮こごりが代表だが、冷えていたっておいしいものはある。

カレーだって、冷たいカレーをあったかいご飯にかけて食うのはうまくないか。また逆にあったかいカレーを冷やご飯にかけて食うのもうまい。


晩めしはまた変なものを作ってみた。


親子焼きそば。

冷蔵庫に残っていた材料を片付けるという意味合いもあったのだが、軽く塩味をつけた細切り鶏もも肉と長ネギをごま油で炒め、そこに溶き卵を入れる。卵が固まってきたら、酒しょうゆ、チューブのニンニクとショウガのタレを入れ、そこに焼きそば麺を入れさらに炒めれば出来上がり。

親子丼みたいなもんで、悪くないんじゃないかと思ったが、たしかに悪くはない。ただ味にアクセントがないので、これはピリ辛味にしたらもっとうまいんじゃないかと思う。



晩酌はいつも日本酒。常温をコップに入れてそのまま飲む。

日本酒によく合うつまみの場合は、いい酒を飲むのだが、炒め物みたいに日本酒にイマイチ合わないものは、適当な酒にする。菊正宗「辛口」という酒パックで、スーパーで900円ほどで売ってたんだが、それほど悪くもない。

本当は炒め物には、ビールや焼酎の方が合うと思うが、ビールや焼酎のあのちょっと興奮するような酔い心地が、家で飲む酒としてはあまり気に入らず、家ではいつも日本酒ということになっている。